13話 母親①
それは幼い日の記憶。十年前、加奈子おばさんが我が家に来た最後の日のことだ。
私は父とおばさんが話しているのを、こっそり聞いていた。
「樹里ちゃんの身体の調子はどうなんだ?」
「今はかなり落ち着いてるよ。……まあ、それでもほとんど家で過ごしているけど」
「ジュリ…ちゃん?」
気づくと私は二人の前に姿を見せ、聞き覚えのない少女のことを訊ねていた。
「おばさんの子供。一二三ちゃんより少し年下の女の子だよ」
「……ジュリちゃんと、友達になれるかな?」
この時の私は、まだ異性の友人の方が多く、あまり女の子と遊ぶのは得意じゃなかった。だから、ほとんどお世辞のような言葉だ。
すると、加奈子おばさんが悲しそうな顔をした。
「……ごめんね。おばさん、もう一二三ちゃんとは会えないかも」
「ど、どうして⁉」
「ちょっと、実家に色々バレちゃってね……」
……今ならわかる。
父が追放された理由からして、二人が会うのを赤崎家の人間、特に新太は快く思わないだろう。
「だから、一二三ちゃんと会うのはこれで最後だと思うけど……。おばさん、お母さんの代わりになれたかな……? って、ズルいよね。こんな質問」
……母親。
私と父を捨てて何処かへ消えてしまった人。
「うん……。加奈子おばさんは、私にとってお母さんだったよ」
もしかしたら、この時からずっと心の片隅で思っていたのかもしれない。加奈子おばさんが私の母親だったら、どんなに良かっただろうと。
だからこそ、私はあの真実を受け入れることができたのかもしれない。
「……ふふ、もう少しお世辞の勉強はした方がいいと思うよ」
そう言っておばさんが微笑む。
……ちがうよ。私は心の底から、貴女のことを母親だと……。
★
……目を開く。真っ白な天井。少し固いベッド。
ここは俯瞰島の屋敷ではない。それならここは一体どこなのだろうか。
「……起きたか」
樹里が私の寝ているベッドに腰掛けながら、本を読んでいた。
冷静なフリをしているが、声が少し震えている。そして赤い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
意識がはっきりとしてくると、ここがどこだか理解できた。
私は病院の一室で寝ていた。
枕元に置かれていたスマートフォンを手に取り、時間を確認する。
本当なら三日目の朝だ。
「あの後、すぐに警察が来た。電話が繋がらなかったのを不審に思った黒須が通報したそうだ」
「それで病院に運び込まれたんだね……」
右腕を動かそうとすると激痛が走る。
「……少しでも遅かったら、切断する可能性もあったらしい」
あの時の感覚を思い出し、冷や汗をかいてしまう。
「ほ、他の人は……?」
「新太と総一郎はどちらも軽症だ。……栄一も」
「よかったぁ……」
あれ以上、誰にも死んでほしくなかった。当然栄一も含めて、全員が無事なことに私は安堵した。
「お前は自分の心配をしろ」
そう言って樹里が私の右肩をさする。少しだけ痛かったが、不思議と嫌ではなかった。
「本当に生きてくれてよかった……」
「樹里ちゃん……?」
「うぅ……、どれだけ心配したかと……」
涙を流しながら私に抱き着く。彼女のことを、自由に動く左手で抱きしめる。
すると病室の扉が開く音がした。
「……すみません。タイミング悪かったですよね」
「桐子さん⁉ だ、大丈夫ですから!」
桐子が申し訳なさそうにこちらを見つめている。樹里はバツが悪そうに頭を掻いた。
……確かにタイミングが悪いな。そう私は心の中で愚痴を呟いた。
「これ、渡そうと思って」
そう言って封筒を手渡された。
「遺言書とは別にあった、二人への手紙」
「私たちに……?」
生前のサチヱとは面識がない。だが、彼女は赤ん坊の頃の私と会っていた。だとしても、私にわざわざ手紙を残す理由がわからない。
「それじゃあ、お大事に」
「あれ、もう行っちゃうんですか?」
「はい。……ダメな亭主のお見舞いもしないといけないので」
そう言ってニヤリと笑う。
……なんだか、夫婦の関係が変わる瞬間を目撃した気がする。
扉が閉まると、樹里が私の持っていた封筒を強引に奪った。彼女の顔を見ると、普段は真っ白な肌が今は真っ赤に染まっていた。
「見られちゃったね」
「うるさいっ! 読むぞ……」
そう言いながら雑に封筒を開封する。破れた封筒の欠片がベッドの上に落ちる。
そして、樹里はサチヱが私たちに残した手紙を読み始めた。
●
これを二人が読んでいる時、私はもうこの世にはいないでしょう。
なんて書くと、なんだかミステリー小説のようですね。
一二三と樹里は私のことを恨んでいるでしょうか。恨まれても仕方ないことを、私はしてしまいました。
私が栄一さんに対して犯してしまった罪。そして私たちが武司に犯してしまった罪。それを貴方達が大人になるまで解決できずに残してしまったこと、本当に申し訳なく思っています。
島で起きる事件のこと、私はその未来を見てしまいました。しかし、新太たちに言ったところで、信じてはもらえないでしょう。すっかりボケた老人扱いです。
しかも見えた未来は断片的で朧気。犯人の姿もぼやけてわかりません。
だから、貴方達を信じるしかなかったのです。二人がこの事件を解決してくれると。
黒須さんには不審に思ったらすぐ警察に連絡してもらうように伝えましたが、どうなるかは二人次第でした。だからこそ、もし二人でこの手紙を読んでいるのなら、私はそれをとても嬉しく思います。
最後に、私は今でもあの光景を夢だと願っています。
愛娘の加奈子が死に、長年私に仕えてくれた蔵之介が死に、そして本来なら関係ないはずの一二三が最後に死んでしまう。
そんな老人の見た夢を、みんなで笑いながら読んでいることを願っています。