1話 孤独の始まり②
事件の前日、私は自身のスマートフォンの画面とにらめっこしていた。
「返信が来ない!」
「わざわざ警察に許可を得る必要があるのか? 管理人の許可は得ているんだし、それでいいだろ」
「……麗奈さんの親戚って嘘を吐いてね」
宮森麗奈の部屋を調べるために、樹里は犯罪スレスレどころか完全にバレたら捕まるようなことをしていた。
それを回避するためにも、私は知り合いの刑事たちに許可を得ることを提案した。しかしメールを送ってから数時間経っても返事はない。気づいていないのかと思い電話をかけたのだが、無機質な音声で圏外か電源を切っていることを告げられた。
「というか、なんで一二三は岸部政宗の連絡先を知ってるんだ?」
「まぁ色々とあってね」
岸部刑事は上司の浦崎と違って探偵というものを信用していない。そして樹里の性格もあって、岸部との相性は最悪だ。
浦崎は軽く宥めるフリをするだけで本格的に岸部を止めることはしない。そもそも彼は私たちのことを信用しているというより、利用できる存在として見ているような気がする。つまり彼では二人の間に入って話をまとめることができない。
だが私なら岸部も態度が僅かながらにだが和らぐ。そのため二人の間を取り持つパイプ役になることが私の役割だった。
彼の連絡先を知っているのも、樹里から連絡してトラブルになるのを防ぐためだ。
「仕方ない。浦崎に連絡してみるか」
樹里はソファーの上に放置していたスマートフォンを手に取ると、両手でゆっくりと操作し始めた。きっとメッセージアプリで浦崎に調査のことを送っているのだろう。
彼女がメッセージを送り終えてから数分、浦崎からの返信は私たちの予想よりもかなり早く送られてきた。
「問題ないそうだ。親戚を騙ったのは訂正しろと言われたがな」
「それは当然だと思うけど……」
そのせいでマンションの管理人は私たちにかなりの不信感を抱いていたのだが、それは樹里の自業自得だ。それに巻き込まれる私はたまったものではないのだが。
「何かわかるといいね」
「……あぁ」
結果何もない部屋で証拠を見つけることができなかった。しかし、それだけなら樹里が取り乱すことなんてしなかっただろう。
この時の私は、翌日あんなことになるなんて微塵も考えていなかった。
●
潮風が頬を撫でる。だが、私も樹里もそんな風情を感じている余裕はなかった。
都内の港近くにある倉庫街、その一つが凄惨な現場と化してしまった。
「樹里ちゃん、本当に大丈夫なの?」
「平気だ」
そう言うと樹里は躊躇せずに大きな扉を開けた。中から冷気が漏れてくる。
「……どうも。すみませんね、お忙しいところ」
倉庫の中で春の暖かさを微塵も感じさせない、ダウンコートを着た男二人が私たちを出迎えた。
それもそのはず、倉庫内の温度はマイナス二十度以下、当然私たちも薄着のままではいられない。男の一人が私たちにもコートを渡してきた。
「今日は別の部下を連れているんだな」
「浦崎さん、そちらの方は?」
男の片方は浦崎刑事、しかしもう一人は一度も会ったことのない人物だった。
「この子は近衛秀信くん。岸部くんとは今別行動中なんですよ」
「……はじめまして。お噂はかねがね」
どうせ良い噂ではないのだろう。
樹里のことを嫌う警察官は多い。わざわざあることないことを周りに言いふらして悪評を広めようとする人間までいるほどだ。
近衛刑事は私たちのことを露骨に疑った表情で見ている。
「それで、遺体は?」
「この奥です。……本当にいいんですね?」
浦崎が扉を指差す。この倉庫は所謂二重扉の仕組みになっている。
樹里は一度大きくため息を吐くと扉に触れた。
「問題ない。これはただの殺人事件だ。誰が死んだなんて関係はない」
明らかに樹里は無理をしている。だが、そんな彼女にどんな言葉をかければいいのかわからない。
そうやって悩んでいる間に、二枚目の扉が開かれてしまった。そしてその先には──
「何…これ……」
こんな時、どんな顔をすればいいのだろう。
もしかしたら、身体から血を流して倒れている普通の死体なら──死体がある状況自体が異常ではあるのだが──何も思わなかったのかもしれない。
「……クソッ」
樹里が呟いた。
棚が並ぶ倉庫の中央には、巨大な氷の立方体が置かれていた。そして立方体には男性が磔にされている。男性とは勿論、樹里の父親である赤崎栄一のことだ。
栄一の手足には太い釘が打ち込まれている。両手両足に計四本、そのせいで彼は氷に固定させられているのだ。
「遺体が発見されたのは今朝六時半頃、第一発見者は通報で駆けつけた警察官です」
「警察官がここに?」
「今朝にここの警備員からの通報があったんです。倉庫から怪しい人物が出ていったと。そこで警察官駆けつけた結果……」
「栄一の死体があったわけだな」
「えぇ、刑務所から赤崎栄一がいなくなったのは一昨日。消えてから遺体が見つかるまでの間、岸部くんたちが血眼になって捜していたのですが、残念です」
だから昨晩岸部に連絡することができなかったのだろう。誰かと電話で話す余裕のなかった彼は、私用の携帯電話の電源を切っていたのかもしれない。
「ここを見てください」
浦崎は栄一の喉を指差した。喉には複数の小さな穴があり、そこから大量の血が流れた跡があった。犯人は生きている栄一を何度も細い針のようなもので刺したというわけだ。
「何度も喉を刺され失血死、恐らく殺されたのは別の場所ですね。手足からの出血からして、氷に磔にされたのも死後ですね」
「……それで、私は何を調べればいいんだ?」
樹里は遺体を詳しく調べることなく、早々と本題に入った。やはり父親の遺体を調べるのは気が引けるのだろうか。
私は去年の夏、俯瞰島で起きた事件のことを思い出した。
当時の樹里はなんでもない様子で、自身の母親の遺体を調べていた。だが、今の彼女は明らかに遺体を調べるのを躊躇っていた。
……もしかしたら、それは私のせいかもしれない。
「一般人に頼むことなんて」
「近衛くん、落ち着いて。二人に調べてほしいことは、犯人がどうやって倉庫に入ったかです」
「……え? だってここから出ていった人がいたんですよね? ならその前に入った人がいたはずじゃ」
「それが、倉庫の目の前には警備室があるんです」
冷凍倉庫の入口から十メートル程離れた位置に、小さな建物がある。そこが警備室だとしたら、必ず警備員も常駐していたはずだ。
浦崎の言いたいことが樹里も理解できたのか「なるほど」と呟いた。
「つまり、警備員は倉庫から出ていく人間は見たが、倉庫に入っていく人間は見ていないということだな?」
「理解が早くて助かります。ここを利用しているトラックが最後に出ていったのが昨晩午後九時、そして警備員が倉庫から出る人間を目撃したのが今朝の六時。その間に倉庫に入った人物は一人もいません」
「その前から中にいた可能性は? 九時よりも前に倉庫の中で待機していたんじゃないですか?」
たしかにこの中はとても寒い。ダウンコートを着ているというのに、冷気はそれをすり抜けて私の身体を凍えさせる。
この気温の中で何時間も耐えることは不可能だ。だが細工をすれば不可能は可能に変わる。
「入口には倉庫内の温度を管理するための操作パネルがあったな。あれを使えば倉庫内に隠れることもできるだろうな」
「……いえ、午後九時時点で倉庫内に人は誰もいませんでした。トラックの運転手がそれを確認しています」
「なら、倉庫に人が入ったのは午後九時から翌日の午前六時までの間……。警備員が見逃したという可能性は?」
不真面目な警備員が居眠りをしていれば、その間にこっそりと侵入することは可能かもしれない。
しかし、浦崎と近衛は首を横に振った。
「警備室につけられたカメラが二十四時間ずっと入口を監視している。つまり見逃すなんてあり得ないんだよ」
「そんな……」
「そこで警察が倉庫から出た犯人と思われる人物を捜している間に、私たちに侵入方法を見つけろということか」
「お恥ずかしながら、そういうことになりますね」
浦崎が申し訳なさそうに言うが、私には監視カメラに映らずに倉庫に侵入する方法はないように思えた。
冷凍倉庫の入口は二重扉しかない。当然窓も存在していない。つまり侵入経路も入口の扉以外ありえないはずだ。しかし入口はずっと監視カメラが捉えている。
……なら、一体どうやって。