コウカイ
缶コーヒーを二本買い、一本をそっと部下のデスクに置く。
「あぁ、すみません。浦崎さん」
「いえいえ、こういう時くらいしか上司らしいことなんてできませんから」
部下の岸部は酷く眠たそうな顔で缶を開け、一気に飲んだ。
「私も若い頃はよく書かされてましたよ。まぁ、欠片も反省なんてしませんでしたが」
「なんで犯人を捕まえたのに始末書を書かなきゃいけないんですかね。間違ったことは何もしていないはずなのに」
「でも、犯人を追いかけるのに街の物を色々と壊してしまったじゃないですか。看板だったり、商品だったり」
先日、岸部は偶然遭遇したひったくり犯を捕まえた。それ自体は立派な行為だ。しかし、犯人を追うために彼は道に置かれていたカフェのメニュー看板を蹴って壊したり、商店街で売られていた商品を犯人に投げつけたりしていた。
当然、その費用は弁償をしないといけないのだが、それだけでは済まないのがこの仕事の面倒なところだ。再発防止、そして反省しているということを示すために、彼は現在デスクでPCと睨みあっているわけだ。
「苦労が絶えないと、また白髪が増えちゃいますねぇ」
「気にしてるんだからやめてくださいよ……」
岸部は同年代に比べると髪に白髪が目立つ。
昔から……彼の父親が亡くなる前からそうなので、恐らくは苦労のせいというよりかはそういう体質なのだろう。
「一応染めてるんですけど、すぐに落ちちゃうんですよね」
「あと十年くらいしたら白髪なんて気にならなくなりますよ。ただ……別の問題が出てきますけど」
私は自身の頭を撫でた。ここ数年で薄毛はかなり進行している。正直毎朝枕や鏡を見るのが怖くて仕方がない。
「そういう自虐もどう反応したらいいかわからないんでやめてください」
「ふふっ、すみません。元気づけようと思ったのでしたが、余計なお世話だったようですね」
「それより、あの事件はどうなってるんですか?」
あの事件。それは最近都内で起きている連続殺人事件のことだ。
そしてそれは同時に、十年前から続く私と犯人の因縁でもある。
私は思わず持っていた缶コーヒーを握りつぶしていた。幸い既に飲み干していたので、中身がこぼれることはなかった。
「……今のところは、何も」
犯人に繋がるような証拠は、例のアルファベットのプレートしかない。しかし、それも出所は全く掴めていない。
すると岸部が躊躇いながらも言った。
「あの、怒らないでくださいね」
「なんですか?」
「この事件、あまり深入りしない方がいいと思います」
……一体今の私はどんな顔をしているのだろう。少なくとも、いつものようなマイペースで温和な浦崎隼人はどこにもいないだろう。
「だって最近の浦崎さん変ですよ」
「ならどうすればいいんだよ! 大人しく被害が増えるのを指を銜えて待ってろっていうのか⁉」
周りの視線が突き刺さる。
岸部の言う通り、本当に私らしくない。愚かな行為だ。
「……すみません、いきなり怒鳴ったりして。でも、岸部くんは犯人が憎くないんですか?」
彼は犯人に父親を奪われている。
犯人に対する思いは私と変わらないはずだと信じていた。
「憎いですよ。でも、それ以上に怖いんです。また同じことになるんじゃないかって」
「同じこと?」
「だって、今の浦崎さん……、あの時の父と同じだから」
ようやく岸部が何を言いたいのかがわかった。
要するに今の私はどうしようもなく焦っているのだ。
犯人が再び姿を現した。そしていつまた姿を消すかわからない。だからこそ今捕まえなくてはならない。
きっと彼は十年前の父と同じように、私が犯人に返り討ちにされることを危惧しているのかもしれない。
「父もあの日言ったんです。ここで指を銜えているわけにはいかないって。父が亡くなったのはそれから数時間後でした」
「なるほど、たしかに頭を冷やして冷静になるべきかもしれませんねぇ……」
胸ポケットからタバコを取り出し、一本口に銜える。勿論ここで火を点けるわけにはいかない。ライターを使うのは喫煙室に入ってからだ。
しかし、ライターがなくてもタバコに火が点いてしまうのではないかというほど、私の心は未だに熱く燃え滾っていた。
「仕事ですから、勝手に捜査から降りることなんてできませんが、まぁ忠告は受け取っておきますよ」
そして私は岸部を残して喫煙室へ向かった。
……しかし、彼の忠告を聞くことができなかった。どうしても犯人を前にして冷静になることができなかった。
数週間後、私は後悔しながら奈落の底に落ちていくことになる。