19話 嵐の孤島、幸運の魔女 その漆:二つの鍵
「心臓を一突き、中々の手練れだねぇ。刑事さんの方がこういうのは詳しいだろうけど、殺されたのはついさっき、まあ私たちが西天音と樋野針汰を捜している時だろうね」
サチヱが冷静に遺体を分析する。彼女の力を借りるのは業腹だったが、流石にもう手段を選んでいるわけにはいかない。
被害者は紫藤寛人と神楽坂櫻子、現場は紫藤の泊まっていた『三〇二号室』。二人は室内のベッドの上に横たわり、物言わぬ死体に変貌を遂げてしまっていた。
「扉の施錠に細工したような形跡はありませんね。やはりこれを使って出ることは不可能ですよ」
「だが脱出経路がないわけじゃないだろ?」
サチヱが神妙な顔で窓を指差した。先程まで全開だった窓は雨がふきこんでくるのを防ぐために閉ざされていた。しかし遺体発見時まで外から部屋に雨水が入り放題だったせいで床やカーペットは水浸しになっていた。
「たしかに窓から飛び降りれば現場から脱出できますね。ただ、犯人もただじゃ済まないでしょうね」
「ここは三階、しかも窓の下は大荒れの海だ。ま、ここからの脱出は不可能だと考えるべきか」
私は脱出の方法を考えながらテーブルの上に置かれている二本の鍵を見た。
ひとつの鍵には『三〇二』のタグが付けられている。つまりはこの部屋の鍵だ。そしてもう一本の鍵には何もつけられていない。しかし見た目は他の物と同じだ。これもこのホテルで使われているものだろう。
「鍵がこれだけだとしたら、部屋から脱出して鍵をかける方法なんてありませんね」
「岸部さん、そうだとしたらこの部屋は……」
「密室…か……」
密室殺人なんて小説の中にしか出てこない安っぽい単語だ。しかし実際犯人はどうやって脱出したのかが解せない。
もしここが一階やせめて二階だとしたら、窓を使って脱出することができる。そうなれば一番怪しいのは申し訳ないが富田だ。
彼は二人が殺害されたと時間と思われる西と樋野の捜索から帰ってきた時、雨で身体中がずぶ濡れになっていた。ホテルにいる人間の中で唯一外に出ていた。
しかし現場は三階だ。ただでさえここから飛び降りれば大怪我は確実だというのに、下は海。穏やかな天気の日なら助かる可能性が高いかもしれないが、今は台風で大荒れだ。落ちれば命は無いだろう。
……この事件の犯人は西と樋野、二人が実は生きていて今回の事件を引き起こした可能性がある。しかしたとえそうだとしても、彼らが今も無事でいるかは怪しい。
「とにかく、話を聞いてみないことにはわからないだろうね。……行くよ」
こうして私たちは再び取り調べを行うことになった。
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「じゃあまずは渡井さんから」
「……はい」
渡井は青ざめた顔で私の前の椅子に座る。
「貴女は前回の取り調べが終わってから、再び集まるまでの数時間何をしていましたか?」
「何を……と言われても、部屋で大人しくしていました。そしたら今度は遺体が消えたというので捜していました」
「一人で?」
「いえ、気に食わないのですが谷木美野里さんと共に」
「そうだよぉ。渡井さんと一緒に一階を中心に捜していたんだぁ」
部屋の隅でタバコを銜えていた谷木が初めと変わらない明るい様子で言ったが、目の下は涙で腫れて真っ赤になっていた。やはり無理しているのだろう。
私たち刑事二人とサチヱだけが、冷静なままでいた。……いや、少なくとも私は冷静を保てているとは口が裂けても言えなかった。
「その時紫藤さんと櫻子さんの姿は見かけましたか?」
「見かけていません。一階にお二人は来ていないと思います」
二階を調べていたのは私と浦崎とサチヱ、三階を調べていたのは富田だ。だが紫藤と櫻子はどこを調べていたのか私たちは知らない。
恐らく紫藤は捜索することなくすぐに部屋に戻ったのだろう。それを責めるつもりはまったくない。しかし、何故彼の部屋に櫻子がいたのかがわからない。
「では次の質問、紫藤さんがここに招待された理由はご存知ですか?」
ホテルに来た宿泊客は神楽坂夫妻の招待によってここを訪れている。私たちがここに来たのは富田によるものだがこれはちょっとした例外だ。
「なら渡井さんと谷木さんは?」
「私は以前から櫻子さんと交流がありましたので、しかし門司さんとは今日が初対面です」
「私はその逆だなぁ。門司さんとパパが知り合いで、何度か一緒に食事に連れていってもらったことがあって、この前ここに来ないかって誘われたの」
間違いなく門司は谷木に邪な感情を抱いていたのだろう。そうでなければ知り合いの娘だけを招待するのはおかしい。まあ今となってはそんな些細なことをどうこう言っている場合ではなくなったのだが。
するとサチヱが紫煙を吐き出した。そしてタバコを灰皿に置いて椅子に座った。
「紫藤寛人と神楽坂櫻子は浮気をしていたのか?」
サチヱによる唐突で失礼な問いに全員が固まる。
「そんなはずがないでしょう⁉」
それに真っ先に反論したのは勿論神楽坂門司だ。いきなり妻が浮気していたのかと問われればそんな反応にもなるだろう。
「なら、なんで櫻子の死体はあの部屋にあったんだろうね」
「それは犯人が運んだとか……」
「無理ですよ。間違いなく二人はあの場所で殺害されたはずです」
浦崎が告げた残酷な真実に門司は頭を抱える。
しかし彼の言う通り、間違いなく櫻子はあの部屋にいたのだ。それが犯人によるものなのか本人の意思なのかは定かではない。
「あの……私、聞いたことがあります」
渡井が恐る恐る挙手しながら言った。
「──櫻子さんには夫の他に懇意にしている男性がいると」