8話 怠惰の罪
まだ島の屋敷に引っ越す前の話。
……まだ父を名乗る男が家にいた頃の話だ。
当時母はマスコミ総出で叩かれている時期で、当然矛先は家族にも向かった。
父は仕事を失いただ高い酒を飲む日々。そして俺たち兄妹は学校にも行くことができず、ただ父の逆鱗に触れないよう、部屋の隅で大人しくするしかなかった。
世間から干されているというのは表面上だけの話で、母は相変わらず仕事で家を空けることが多かった。そのせいで、俺たちを父の暴力から守ってくれる存在はいなかった。
「未来が見えるんだろ。あいつのこと、どうにかしてくれよ」
滅多にない母がオフの日。その日だけ父は優しい一家の大黒柱を演じる。だがどんなに演技をしたところで、母を騙すことなんてできない。そう信じていたのに……。母は首を横に振った。
「先のことを見てしまうなんてズル、本当は許されていないんだよ」
……失望した。母に未来を見る力なんて、本当はないのだ。
俺だけならまだなんとかなるかもしれない。だが、まだ幼い武司と加奈子は……。
それから数日が経った。目が覚めると、まず泣き声が聞こえた。
また今日も弟と妹が父の琴線に触れてしまったのだろう。いつものことだ。
母は昨日から仕事で家を空けている。そして帰ってくるのは明日の朝。つまり今日一日はこの地獄が続くということだ。
二人の泣き声を無視して本を開く。俺が助けようとしたところで、父が更に怒るだけだ。できることなんて何もない。
すると扉の開く音、そして女の怒声が聞こえた。
……母が帰ってきたのだ。
この時は、偶然母の仕事が早く終わったのだと思っていた。だが、そうではなかったことを後に知ることになる。
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それからしばらく経ったある日、家族で旅行へ行くことになった。
そして、父が死んだ。
俺たちが買い物をしている間に、車内で待っていた父にトラックが突っ込んできたそうだ。
当然そのことを知らされて、兄妹は驚愕した。だが、母は違った。ただ落ち着いた様子で、警察から事情を聞く。まるで最初から全部知っていたみたいに。
もし、父が死ぬことを未来予知で知っていたとしたら。そして、その景色が今とは違うものだとしたら。
……あの時死ぬのが、父だけではなく、俺たちも含まれていたとしたら。
そう考えると、震えが止まらなくなる。
自分が危うく死ぬところだったからではない。
……母がその未来を見たうえで、父だけを見捨てたからだ。
勿論ただの偶然だった可能性の方が高い。
だがこのことがきっかけで、俺は父のような人間にはならないと誓った。誓ったはずなのに……。
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蓋を開けてみればこのざまだ。
赤崎新太は己の地位に縋り、怠惰を極め、そしてすべてを失おうとしている。
今になって、これまでのことを後悔する羽目になるとは。もっと早く気づくことができれば、加奈子と蔵之介が死ぬことはなかったのだろうか。
「うぅ……」
桐子が目を開く。
思えば彼女にも散々苦労をかけさせてしまった。こんなことにならなければ、それに気づくこともなかったのだろう。
「新太…さん……?」
「良かった。どこか痛いところはないか?」
蔵之介の遺体を見て、彼女は倒れてしまった。その時にどこかぶつけて痣になったりしてないかが心配だった。
「えっと……、その、手が……」
そう言って俺が握りしめている手を見つめる。慌てて離すと桐子はクスクスと笑った。こんな表情、ひさしぶりに見た。
「おっ、俺は本気で心配して……」
「フフッ、新太さんが自分のこと俺って言ってるの、結婚してから初めて聞きました」
結婚してから十数年。俺はずっと周囲に仮面をかぶって生きていた。誰にも本当の自分を見せずにいた。
それは他者を警戒していたわけではない。その方が楽だったからだ。
本当の自分、醜い姿を晒すのが怖い。そのくせ他者からの温もりを求めている。
「他の人たちは……?」
「栄一と総一郎は広間に、一二三さんは母の部屋だ。樹里は……また探偵ごっこかな」
「どうして一二三さんがサチヱさんの部屋に?」
俺はこれまでの経緯を説明した。と言っても俺は桐子を運ぶためにすぐ現場を離れたので、これは栄一と総一郎から聞いた話だ。
「本当に一二三さんが……?」
「俺もあまり信じたくないけど、証拠があるからね……」
現場のシアタールームに落ちていた一二三のスマートフォン。どうしても彼女に疑いの目が向いてしまう。
「どうして家族を疑わないといけないんでしょうか……」
「そうだね……」
もし犯人が俺たちとは何の縁もない第三者だったら。その方がよっぽど楽だ。
だが、そうやって気が楽な方へ思考を誘導させるのは、ただの怠惰だ。遅かれ早かれ、俺たちは現実と向き合わなくてはならなかった。
「さて、俺……コホン、私たちも広間へ行こうか」
桐子から目を逸らす。彼女の笑い声が、しばらく耳から離れなかった。
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「みなさんは明日、黒須様が来るまで広間でお過ごしください。外には出ないようお願いします」
「一二三ちゃんが義母さんの部屋に閉じこもった以上、俺たちは安全じゃないのか?」
「……念のためです」
栄一は今までの緊張から解放されたせいか、一気にだらけきった姿勢でソファーに倒れていた。そんな彼の様子を呆れながら総一郎が見ている。
「樹里さんはいつ戻ってくるのでしょうか……」
桐子が心配そうに言う。確かに、単独行動を続ける彼女はいつ襲われてもおかしくない。そしてもし彼女が真犯人だとしたら……。そう考えてしまう自分がいた。
「ま、あいつなら大丈夫だろ」
「……娘のことが心配じゃないのか?」
「あいつにとって、こんなのただのゲームだよ。あれは俺の娘なんかじゃねぇ、正真正銘の魔女だ」
「お前っ!」
気づけば俺は栄一の胸ぐらをつかんでいた。どうしてこんなにイラついているのだろう。
栄一の意見もわかる。島での樹里の行動は異常そのものだ。だがそうだとしても、彼の先程の言動は父親として間違っている。
……そうか。俺は栄一を見て、昔死んだ父親を思い出したのだ。
すると、どこかで窓の割れる音がした。
「話は後だ!」
一二三の身に何かが起きたら……。そう考えると、俺の足は勝手に動き出していた。
できることなら、彼女は加害者でも被害者でもあってほしくない。そうでなければ、俺は武司と加奈子に申し訳が立たない。
「きっとサチヱ様のお部屋です」
そう言って総一郎が先頭を走る。
島で起きている連続殺人。それが間もなく終わる予感がした。
……俺には母のような未来予知の能力はない。だからこそ、これは願いに近かった。