18話 エピローグ:side H
事件が解決してから数日経ったある日、私は元交際相手である楠瀬美鈴の部屋を訪ねていた。
「一二三が一人で来るなんて珍しいね」
美鈴がタバコの副流煙を口から吐き出す。たしかに最近は樹里と一緒に行く機会が多かった。しかし今は彼女と行動を共にしても余計に苦しくなってしまうだけだ。
私は彼女が銜えているタバコを見つめた。
「……一本ちょうだい」
「え? まぁいいけど、止めたんじゃなかったの?」
「そんなことないよ。樹里ちゃんの前では吸わないようにしてるだけ」
……嘘だ。
本当はタバコなんて二度と吸うつもりはなかった。ただ、今の私は心の拠り所を探していた。
「じゃあ、これ」
美鈴がニヤニヤしながら、自身が今まで吸っていたタバコを私に向けた。
恐らく軽い嫌がらせのようなものなのだろうが、私は気にせずにそれを手に取って自身の口に銜えた。ひさしぶりに肺が有害物質の塊で満たされていくのを感じる。
「……相談があるなら乗るけど?」
私の様子を異常に思ったのか、美鈴が心配そうに訊いてきた。私としてはそんなつもりは微塵もなかったのだが、やはりこの前のことを未だに引きずっているらしい。
樹里のことを疑ってしまっている。信じなくては、そう言い聞かせても焦りのような感情が消えることはない。
彼女のためにできることは何か。それを延々と考え続けている。その答えは他人には到底出せるようなものではない。
「大丈夫、なんでもないから」
「あの時と同じ」
美鈴が急に真剣な顔になって私の顔をじっと見つめる。
あの時と言われて思い浮かぶ光景は、一つしかなかった。
「別れる直前もそんな感じだったよ。今だから言えるけど、正直重い」
「……は?」
「あの探偵に好かれたいって気持ちは十分伝わってくるけど、そうやって必死に好かれようとして無理しても空回りしちゃうだけだよ。……まあ一二三のことをフった私が言えた義理でもないけど」
……図星だった。当時の私も美鈴に捨てられないように必死になっていた。それが逆効果であることも理解していたが、何もしていない時常に感じていた焦りに負けてしまったのだ。
タバコもその時に始めたことの一つだ。今でも何故美鈴がいつもこれを吸っているのか理解できない。
今も同じだ。こんな状態の私では、ただ余計に樹里の負担になってしまうだけだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
これで焦りが完全に消えたわけではない。だが、僅かだが余裕のようなものが生まれていた。
一度深く息を吸う。すると再び煙で肺が満たされた。
「……まっず」
思わず本音が出てしまった。
今後タバコは二度と吸わない。私は美鈴と別れた時に決めたことを、改めて心の中で誓った。
●
「ただいまぁ」
美鈴の部屋から自宅に帰ってきた私は、すぐに着ていた衣服を脱いで洗濯機に入れた。タバコの臭いが染みついた服を今すぐに洗いたかったからだ。
「おかえり、……ん?」
「な、何してるの⁉」
脱衣所に入ってきた樹里が首を傾げ、そして私の胸に顔をうずめた。突然の出来事に恥ずかしさで顔が熱くなったのだが、樹里は私のにおいを嗅ぐとすぐに離れた。
……なんか、猫みたいだなぁ。
目の前にいる小動物を撫でたいという気持ちを抑えつつ、私は「どうかしたの」と冷静を装って訊ねた。
「……楠瀬美鈴の家に行ってたな?」
「やっぱりわかっちゃう?」
「臭いですぐにわかる。美鈴のことは嫌いではないが、あのタバコの臭いだけは苦手だ」
「ご、ごめんね…すぐになんとかするから」
流石に私が吸っていたことまでは気づかなかったようだ。
しかし、予想以上にタバコの臭いが私の身体に染みついているらしい。臭いを消すためにシャワーを浴びることを決めた私は、樹里を脱衣所から追い出した。
お湯で身体を洗い流しながら、先程美鈴に真剣な顔で言われたことを考える。
「まぁ、そりゃ重いよなぁ……」
今まで私がしてきたことを思えば、そう言われても仕方がなかった。
美鈴に嫌われないように我慢してタバコを吸った。好かれるように彼女の好きそうな服を着た。自分の好みを殺して彼女の好みに合わせた。
そうやった結果、私たちは別れた。
私はこの年齢になるまで、他人に好きを表現する方法がわからずにいた。だから空回りしてしまった……というのは言い訳でしかない。
また同じことを繰り返そうとしている。ならどうすればこの焦りを無くせるのか。そう考えていると、扉の向こうから樹里の声がした。
「ここに着替え置いておくからな」
私に謎を解くことはできない。屋敷での事件でそのことは理解した。
しかし、だからといって私が樹里の力になれないというわけではない。私にしかできないことがあるはずだ。
扉を開け、びしょ濡れの身体を気にせずに樹里のことを抱きしめた。
「お、おいっ! 何をして……」
「少しだけ、こうさせて」
「……少しだけだからな」
恥ずかしそうにしながら、樹里が私の身体に体重を預けた。
私に何ができるのか、今の私にはわからない。
それでも、私はあの日誓ったのだ。赤崎樹里のことを絶対に守ると。
……しかし、私は後悔することになる。自身の無力さから目を逸らし、耳障りの良い言葉を垂れ流し続けていた。
私に力があれば、樹里があんな目に遭わずに済んだというのに。彼女が私のことを守ろうとして、私のことを置いて一人で行ってしまうこともなかったのに。
あの事件から二年経っても、私は嘆いていた。自身の愚かさ、そして赤崎樹里のいない世界の虚しさを。
──私は彼女のいない世界で、必死に心を殺して生きている。