14話 ナユと魔女
ワタシは家から外に出ることを許されなかった。その理由はわからない。ただ、理由を聞こうとすると母は毎回こう言ってワタシのことを殴った。
『那由多は余計なことを考えなくていい』
だから、ワタシは母に外のことを聞くのをやめた。
……痛いのは嫌いだ。
とは言っても、家の中でやることは限られている。延々と天井を見ながら一日を終えることも少なくなかった。
ある日、母が一冊の本を買ってきた。それによってはじめて知識というものを得たワタシはそれを何回も、何十回も読んだ。
その本はシリーズの上巻で、物語は途中で終わってしまう。しかし続きをねだればまた殴られるだろう。だから私は途中で終わる物語を幾度と最初からまた読んでいた。
ある日、母が泣きながらワタシに謝ってきた。心当たりがありすぎるが、知らないフリをした。
すると「お詫びに好きなものを買ってあげる」と言ってきたので、ワタシは当時たまたま見ていたアニメの玩具が欲しいと言った。母は了承して翌日それを買ってきた。
しかし、後日その玩具は機嫌を損ねた母によって壊され、庭に捨てられた。別に珍しくもないことだ。
母はワタシよりも恋人の方が大切なようで、平気で恋人の家に何日も泊まってワタシを家に放置した。
その間の食事は家に残っているパンと水道水。別に普段もそれを食べているのだが、パンが無くなる頃に母が帰ってくる保証はどこにもない。だからワタシは空腹をできるだけ我慢して、少しずつ千切ってパンを食べた。
やろうと思えば外に出ることもできた。しかし、それをすれば母に何をされるかわからない。ワタシは結局自らの意思で一度も外に出ようとはしなかった。
ある夜、母はやけに上機嫌だった。きっと当時付き合っていた恋人との関係がうまくいっていたのだろう。
母はワタシの手を握り、初めて外へ出た。ただ真っ暗な空を今でも覚えている。そしてワタシは庭に停めてあった自転車の後ろに乗せられた。
時刻は大体深夜二時頃。静かな住宅街を二人で走った。
しかし次の日、母はワタシのことをなじり、そして殴った。どうやら自転車で走っている姿を近所の人間に目撃されたのだ。
『お前がワガママを言うから』
別にワタシは外に出ることを望んでいない。あれは母が勝手にやったことだ。
それでも母の中ではワタシがねだったことになっているのだろう。母にとってはそれが真実で、悪いのはワタシなのだ。
また母が数日間家を留守にしていた時、ワタシは母の部屋でたくさんの本を見つけた。それを片っ端から読み始めた。
恋愛小説、推理小説、漫画、ジャンルはバラバラだが全て知識として吸収した。
本を読むのは好きだ。自身のちっぽけで狭い世界が広がるような淡い錯覚を覚えるから。
勿論教育というものをまともに受けていないワタシでは読めない字も多数あった。その都度母の部屋の本棚に収められていた辞書で調べ、そして知識として蓄えた。
そしていつものように本を読んでいた時、ワタシは一人の少女と出会った。その子は貧しくて学校に通えないという設定で、主人公たちからも可哀想な子だという扱いをされていた。
そこで、ワタシは一つ疑問を抱いてしまった。
……なら、ワタシも可哀想な子なのだろうか?
当時ワタシは七歳程度、本来なら小学校に通っている年齢だ。しかし、ワタシは学校になんて通っていない。
当然その存在は知っているのだが、それは知識としてだけの話だ。実際にその校舎の様子を見たことなんて一度もない。
だが、それを不幸に思ったことなんて一度もない。これがワタシの日常であり、逃げることはできないのだから。
……否、ワタシは既に普通の生活というものを諦め、それを幻想だと認識していたのだ。
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「なに…これ……?」
「さぁ? アンタ宛てに来てたから」
母がワタシの部屋に一通の封筒を投げ捨てた。ワタシはそれを拾い、中身を開けた。
中には一枚の便箋が入っていた。ワタシは首を傾げ、差出人を見た。
「四条一……」
名前は聞いたことがある。母の父親、つまりワタシの祖父だ。
一度も顔を見たことはないのだが、一体彼がワタシに何故手紙を出したのだろうか。
内容はただの世間話。ただ単に会話相手を求めているだけのようにも見えた。
「てきとうに書こ……」
ワタシは自由帳を一枚破り、そこに返事を書いた。母の機嫌がいい時にでも、送ってもらおう。もしダメならそれでもいい。最初はその程度の考えだった。
気づくとそれから一年ほど、手紙で祖父と会話する生活が続いた。
ワタシが手紙を出すと、すぐに返事が届く。逆にワタシの返事は母の機嫌のタイミングもあり、かなり遅くなってしまう。それでも祖父は催促することなんてなかった。
祖父はワタシの描いた絵を褒め、母の日に絵をプレゼントすることを提案してきた。ワタシは母が喜ぶという妄想のような期待を抱いて、母のために絵を描いた。
だが、結果は失敗だ。
「何これ、…気持ち悪い」
そう言って母はワタシの描いた絵をビリビリに破り捨てた。そして紙片を拾い、憎らしそうに握りつぶした。
「アンタなんて、産まなきゃよかった」
……母のその言葉で、ワタシの心は砕けた。
それから祖父に手紙を出すことはなくなった。
その代わりに、必死に絵を描くようになった。絵は母に破られた仲の良い親子ではなく、母を肉塊に変えるワタシの姿だ。
ワタシに母を殺すような力はない。きっとこの殺意を実行に移したところで返り討ちにあうだけだ。
だから、これはただのストレス発散でしかない。こんなことでしか気を紛らわせることができない自分が嫌になる。
そう思うと、自身の存在すら汚らわしく思えてしまう。
汚い感情にまみれた自分とそれを俯瞰している自分。気づけばワタシの心は二つに分かれてしまっていた。
大人しい少女のナユ、そして人の不幸を望む『那由多の魔女』だ。
「気持ち悪い、気持ち悪い……」
ブツブツと呟きながら、ナユは絵の中の魔女を黒く塗りつぶした。それでも、自身の中に芽生えたもう一人のワタシは消えることなく、ナユに囁き続けた。……母を呪えと。
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それから更に年月が経ち、ワタシが本当なら中学生になるくらいの頃、祖父からひさしぶりの手紙が届いた。
そこには、四条家の屋敷で暮らさないかという旨が書かれていた。
ワタシは勇気を出して母にそのことを伝え、そして最終的にこの家を出ていくことになった。
屋敷での生活は楽しかったが、一つ疑問に残ることがあった。
退院してきたハジメが、あの手紙を書いた人物には到底思えなかったのだ。
だから、事件が起きてハジメが偽物という可能性を一二三に告げられた時、ワタシは当時の疑問に納得することができた。
手紙を書いたのは本物のハジメだったのだと。……しかし、それも真実ではなかったのだ。
「まあまず事件のことについてなんて、何も書いてはないと思いますが……え?」
ワタシの脳が理解を拒んだ。だが、億斗の手帳の中には真実が刻まれていた。
見間違えるはずがない。それでも否定したくなる。……手帳に書かれている文字が、あの手紙の文字とそっくりだったのだ。