10話 六巳百華という女性②
麗奈と別れた後、私は再び六巳百華の家を訪ねていた。
勿論、今日どころか次の持ち主が見つかるまで、もしくはもう永遠に留守なのはわかっている。しかし、どうしても調べたいことがあった。
私はまず証拠を残さないために手袋をして、来る途中川辺で拾ったそれなりの大きさの石をバッグから取り出した。
「……やるか」
そして覚悟を決め、石を思いっきり窓に投げた。
窓は音を立てて破片を室内に飛び散らせる。私は開いた穴から手を入れて、クレセント錠を開錠した。
「手短に済ませないとな」
平日とはいえここは住宅街のど真ん中だ。窓が割れる音を聞いた人間がすぐに通報していてもおかしくはない。
窓を開け、家の中に侵入する。
私が入ったのはどうやらリビングのようだ。
「かなり散らかってるな……」
テーブルの上にはコンビニ弁当の容器や空になったペットボトル、化粧品等が放置されている。そして掃除もほとんどしていないのか、棚の上にはホコリが積もっていた。
「ここには特に何もないか」
那由多がいつ頃までこの家にいたかわからない。もしかしたら彼女がいた痕跡は全て消されている可能性だってある。
リビングから出て、最初に目に入った扉を開くと、中は百華の寝室だった。
ここもリビング同様の散らかり具合だ。ベッドの上に百華の服が乱雑に脱ぎ捨てられている。
「これは……?」
壁に画用紙にクレヨンで書かれた絵が貼り付けられていた。
手を繋いでいる母親と子供の絵だ。恐らく母親が百華で、子供が那由多だ。
「……最低だ」
普通母親の部屋に子供の描いた絵が飾られていれば、微笑ましく思うだろう。だが、私はそう思わなかった。
画用紙はビリビリに破られていて、その部分がセロハンテープで補修されていた。百華は娘の描いた絵を一度破り捨てたのだ。
私は絵を丁寧に壁から外し、折りたたんでバッグの中に入れた。
寝室から出て、隣の部屋に入る。
……そこは子供部屋だった。
カラフルなタイルカーペットの上に、壊れた玩具や腹から綿が飛び出たぬいぐるみが置かれている。
そして、勉強机の上にはノートが何冊も積まれていた。
「懐かしいな」
そのノートは勉強用のものではなく、子供が自由に絵を描くもの、所謂自由帳だ。
興味本位でペラペラとページを捲っていく。最初の数冊は、百華の寝室にもあったような可愛らしいイラストばかりだった。しかし、途中から雰囲気が変わった。
『魔女見習いってところかしら?』
脳内で『双貌の魔女』が愉快そうに呟く。
黒いドレスを着た女の子が描かれた絵。これだけなら幼い子供にありがちな幻想への憧れなのだが、その周りに描かれているものが問題だった。
「ご丁寧にこの赤いものの名前が何か書かれているな。……『ママ』か」
女の子、恐らく那由多の絵の周りには、赤いクレヨンで丸いものがいくつも描かれていた。
『ママ』、つまりは百華だ。そして赤い物体の正体は彼女の肉塊なのだろう。
この絵が表しているのは那由多の歪み、自身が母親に向けている怨嗟だ。
寝室に飾られていた絵からもわかるが、百華も那由多に対して複雑な感情を抱いていたようだ。ただ嫌っているのなら、破り捨てたものを補修してまで壁に飾ったりしないだろう。
しかし、その想いは那由多に伝わらなかった。だからこそ、彼女にとって母親は憎むべき相手になってしまったのだ。
最後のノートを開くと、その憎悪は自身にも向けられていた。
寝室のと同じような母子を描いたイラスト、しかし那由多を描いた部分の上から黒いクレヨンで強く塗りつぶされている。そしてその周りには解読不能な文字の羅列が並んでいた。
「自分が許せないんだな……」
なんとなく、今の私にはそれが理解できるような気がした。
父親の顔が脳裏によぎる。
当然、私は母と一二三のことをあんな目に遭わせた父のことを憎んでいる。できることなら殺してやりたいとすら思っている。
だが、仮に彼が刑務所ではなく目の前にいたとしても、私は彼を殺すことができないだろう。それは私が探偵だからでも、良識があるからでもない。
……自分の手を汚す勇気が無い。そして、一二三に嫌われたくないからだ。ある意味、彼女が私の最後のストッパーなのだ。
そんな汚い自分のことが、私は許せない。
そっとノートを閉じて、調査を再開する。
本棚には小学生向けの参考書が何冊も入っていた。どうやら、最低限以下ではあるのだが教育自体は受けていたようだ。
そして本棚の一番下の段には、小さいサイズの段ボール箱が置かれていた。中を開けると、先程のような絵の他に手紙が一通入っていた。
「差出人は……、は? …四条ハジメだと⁉」
私は思わず大声で手紙に書かれている名前を読んだ。これが書かれたのはおおよそ二年前、まだハジメ本人が入院していた頃のものだ。
内容は特におかしいところはない。どうやらハジメは左利きで那由多も同じだったのだが、彼女は百華によって矯正されたようだ。
最後の行には、I県の屋敷に住まないかという提案が書かれていた。きっとこれがきっかけで那由多は屋敷に移り住んだのだろう。
この手紙も念のためバッグの中に入れる。
すると外が騒がしくなってきた。
「ちっ、これ以上は無理か」
『それでも、かなりの収穫はあったんじゃない?』
できることならまだ調査を続けたかったが贅沢を言うことはできない。私が侵入してから既に十分以上経過している。
外の様子からして、もう通報はされていると考えていいだろう。流石にこんな騒ぎに浦崎が来るとも思えない。捕まればただでは済まないだろう。
「いや、浦崎が来たとしてもそれはそれで嫌だな……」
こんな姿を彼に見られたら、しばらくの間は会うたびに笑われるに決まっている。
私は急いで家から出ると、その足で次の目的地に向かった。
スマートフォンで時刻表を確認する。
『急がないと電車間に合わないわよ』
「……うるさい」