1話 プロローグ:出航①
これから来る地獄を見た。
それはいつも唐突に訪れる。昔はもっと正確に見ることができたのだが、今はとても曖昧で、夢と大して変わらない。
その地獄の景色は、血と憎悪にまみれていた。
子供たちは私の言うことを信じないだろう。それほどまでに、私の力は衰えてしまった。だからこそ、もう一度筆を執った。
「もう後は若い世代に任せて、安心して逝けると思ってたのにねぇ……」
予知なんかに頼らなくても、わかってしまうのだ。もう、私は長くないということを……。
……私の死から始まる惨劇、私たちの罪の清算。
その光景がただの夢、杞憂であることを信じて。
扉をノックする音がした。
「母さん、具合はどうだい?」
愛する子供の一人が、私を心配している。
だが彼が本当に心配しているのは、私の身体のことではないだろう。
はてさて、この扉を開いたら彼は、傾いた会社を経営するための資金を要求してくるだろうか。それとも、愛人に貢ぐための骨董品や宝石を要求してくるのだろうか。
今まで散々、神に未来を楽しむ権利を奪われ続けた人生だ。こんな時くらい、少し先のあれこれを想像して楽しもうではないか。
……後は頼んだよ。一二三、樹里。
「あぁ、大丈夫だよ新太。今、そっちへ行くからね」
老いぼれから金品を毟ることしか考えてない息子へ優しく話しかけ、私は扉を開けた。
さて、サイコロはどの面を出すのだろう。
……どちらにせよ、残酷な神は賽を既に振ってしまったのだ。
●
東京から電車で数時間、もう少しで目的地だ。
私は車窓から外の風景を見た。
見渡す限りの綺麗な海。
季節は夏。毎日のように最高気温を更新する日々だ。
こんな暑い日に、海で泳いだらどんなに気持ちいいことだろう。
大学は先週から夏休みだ。本当なら友人や家族と海に出かける機会もあったかもしれない。しかし、私は結局そんな予定を組むことはなかった。
「お父さんと一緒に見たかったなぁ……」
一ヵ月前、父が死んだ。元々身体が弱かったから覚悟はしていた。それなのに、心にポッカリと空いてしまった穴は一月という短い時間では埋まらない。
多分、何年も時間をかけて現実と向き合っていくしかないのだろう。
私は母親の顔を知らない。産まれてからずっと、父と二人で暮らしてきた。それでも、生活に困窮することは一度もなかった。
自慢ではないが、家は結構裕福だ。だから大学を卒業するまで、お金に困ることはないだろう。勿論それ以外にもお金はかかるし、バイトの量は増やさないといけないかもしれないのだが。
ただ一つ気になることがあるとすれば、父が働いていた姿を私は見たことがない。ずっと家で大人しくしているか、病院で寝ているかのどちらかだった。
今までそのことから目を逸らしていたが、先日届いた手紙を見て、私はその理由を悟った。
バッグから手紙を取り出し、何度も読んだ文をもう一度読む。
仰々しい内容の文面、要約するとこういった内容だ。
赤崎家当主である、赤崎サチヱが先日亡くなった。そのため親族を集めて送別会、及び遺言書の開封を行うことになった。
場所は某県に位置する小さな離島。そこに建てられた赤崎家の屋敷だ。
期間は三日間。
赤崎武司は赤崎家を追放された身分だが、サチヱの生前の希望で参加を許可された。
そこで今後の四条家への援助等への話し合いも行うそうだ。
武司というのは私の父の名前だ。だが、名字が違う。
私の名前は四条一二三。赤崎家なんて、父から一度も聞いたことがない。そのため最初は宛先を間違えたのではないかと疑った。
だが、後半に書かれていた『四条家への援助』という言葉で、これは父に送られたもので間違いないと確信した。そして同時に、今まで謎だった我が家の貯金の出所も判明したわけだ。
『次は~……』
電車のアナウンスが流れる。私は財布からICカードを取り出して、降りる準備をした。
……赤崎家、一体どんなところなんだろう。
「……あっつ」
自然と言葉が出ていた。そんな私を煽るように、蝉たちの鳴き声が耳に響く。
私が降りたのは無人駅。ICカード専用の、簡易的な自動改札機がポツンと設置されている。駅員もいないので、切符は回収箱に入れる仕組みになっている。
カードをかざし、駅から出る。
「ここから歩かないといけないのかぁ……」
タクシー乗り場なんて存在しない。ただ閑散とした街並みが広がっている。ここからフェリー乗り場まで、数キロほど歩かなくてはならない。
できるだけ日陰の下を歩いていると、小さな駄菓子屋が見えた。
少しでも涼みたい。ここでアイスでも買おう。
そう考え近づくと、店の前に設置されたベンチに一人の少女が座っていた。
「……あっ」
思わず見惚れてしまった。
白い肌、白色のロングヘア、白のワンピース。まるで全身に雪をまとったかのように真っ白な少女。
「……私に何か用か?」
少女が私の存在に気づき、深紅の瞳で私のことを捉える。
彼女の姿を見て、なんとなく遠い国のお姫様、もしくは創作物に出てくるような吸血鬼を想像してしまう。
「ご、ごめんっ! えっと……、君ってここら辺に住んでいる人?」
「いや、違う」
「そうなんだ……」
……会話が続かない。これじゃまるで不審者だ。
冷凍庫からアイスを取り出し、レジへ持っていく。店主の老婆に代金を支払い、少女の隣に座った。
少女は私のことを一瞥すると、ラムネを口に放り込んだ。
彼女の首筋に汗がたらりと流れる。その様子に邪な気持ちを抱いてしまう自分を恥じながら、買ったアイスをかじった。アイスの冷たさとソーダの清涼感が全身を駆け巡る。
「じゃあ、君も旅行で来たの?」
「まあ、そんなところだな」
そこでまた会話が途切れる。何か別の話題はないだろうか。
……どうして、私はこんなにムキになっているのだろう。
「私、これからフェリー乗り場に行くんだ。君は?」
「私も同じだよ、四条一二三」
「え?」
どうして彼女が私の名前を知っているのだろう。その答えはすぐにわかった。
「私は赤崎樹里。お前と同じ赤崎家の人間だ」
赤崎家の人間。それを聞いて心臓を鷲掴みにされた気分になる。
……そうか、私も一応は赤崎家の人間ということになるんだ。
そして樹里という名前を聞いて、何故か懐かしい気持ちになってしまう。私はどこかで彼女の名前を聞いたことがある……。そんな気がした。
「樹里ちゃんは一人で来たの?」
「いや、栄一と加奈子……、両親が先にフェリー乗り場で待っている」
「加奈子……って、もしかして加奈子おばさん⁉」
加奈子おばさん。幼い頃何度か会ったことがある。その時は父の友人と言っていたのだが……。まさか親族だったとは。
「お前が言っているのと同一人物かは知らないが、少なくとも四条一二三のことは加奈子から聞いたぞ」
樹里は淡々と言った後、ジュースを口にした。
……穏やかな時間が流れる。できることなら、もう少しだけこうしていたいほどだ。
「おばさんと会うの、十年ぶりだなぁ……。気づいてくれるかな?」
「別にどうでもいい。……そんなことより、そろそろ行かないと間に合わないぞ」
時計を見ると、集合時間の十分ほど前だった。
「ほんとだっ! 急がなきゃ!」
そう叫び、樹里の手を掴んだ。すると彼女は不思議そうに首を傾げる。
「早く行こ!」
「あ、あぁ……」
そしてまだ休みたがっている身体を無理矢理動かす。
樹里の気持ちもわからなくはない。
私の通っている女子大でも友人から、「一二三は距離感の詰め方がおかしい」とよく言われた。ただ、今回は少しだけ違う。
少しでも早く樹里と仲良くなりたい。自分でもその理由がわからない。
……この気持ちの正体がわかるのは、少しだけ後になる。