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人間はその生物学的本性に根ざす創造的能力によって、いつまでも進化していくと考える生態的態度が必要である。
( ルネ・デュボス『人間であるために』野島徳吉 遠藤三喜子共訳 )
「早くコロナに、かかりたいな」
彼女が言った。僕は、コーヒーが気管に入りそうになった。鼻腔の奥がツンとする。
僕たちは、駅中の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。久しぶりのデートだ。
窓際の席。僕たちは並んで大きなガラスに向かい、ホームから改札へと流れる人を見ていた。みんな濡れた傘を持って、コンクリートを黒く染めて歩く。
僕たちは、ここで待ち合わせて、どこかへ行こうと思っていたけれど、電車が止まっているので、暇を潰していた。
「コロナに?」
彼女は「ええ」と当然の顔で答える。何かおかしなこと言った? と疑問の顔で僕を見た。
彼女とは、市民オケで知り合った。僕がバイオリン、彼女はクラリネット。一昨年まで、彼女は大学で心理学を学んでいたが、今は、専攻を変えて、微生物学を学んでいるらしい。
「なんで、また、急に」
今、世間はコロナの感染拡大防止に躍起だ。
うつらない、うつさないをモットーに、国を挙げて対策に取り組んでいる。テレビでも新聞でも、毎日、何人が感染したと言っては、一喜一憂している状態だ。
やっと緊急事態宣言が解除されたというのに、何を言っているのかと、僕は思った。
「え? 感染しないと抗体が得られないでしょ」
「抗体?」
PCR検査で調べるヤツだ。
「そうよ、コロナウイルスに対して免疫が出来れば、もう、感染の心配がなくなるじゃない」
「それは、無事だったらの話だね。回復するかも分からないのに」
窓のすぐ外には、紫陽花の描かれた立て看板がある。
その向こうから、中年の男が僕たちに視線を向けていた。黒縁眼鏡とフェイスシールド、白いマスクをつけている。Tシャツには、何だか分からないキャラクターのイラストがプリントされていた。きっと、ひと昔前の漫画だろう。
「感染したら、私たちが死ぬかもしれないって思ってるの?」
「リスクはゼロじゃないよね」
彼女は「はあっ」とため息をついた。
「車に轢かれるかもしれないから、道路歩かない? 事故を起こすかもしれないから、電車乗らない? 何もできなくなっちゃうじゃない」
「今の時点で、1300万の人が感染して、59万の人が死んでるんだよ。日本でも、2万人以上の人が感染して、これだけ皆が騒いでいるのに」
彼女は、憐れむような目で僕を見た。
「死亡した人の半分以上は80歳以上でしょ、4分の1が70歳代、10%くらいが60代、私たちなら、ほとんど危険はないじゃない」
「自分が安全なら、年寄りは、死んだっていいって言うのかい」
「そんなこと言ってないでしょ! 若年層のリスクは低いって話でしょ」
その時、「ちょっと、お宅たち」と後ろから声をかけられた。振り向くと、さっき窓の外にいた中年男が立っていた。
「はい?」
「離れなよ」
「え?」
僕と彼女は「なんだろう?」見つめあうと、男は「ソーシャルディスタンスを保てよ」と言った。僕たちは並んで座っている。
どうも、席を空けて座れ、と言っているようだ。
「お宅らみたいのがいるから、感染拡大が止まらないんだよ。どうせ、他人の事なんて、何にも考えてないんだろ」
彼女は喧嘩腰に突っかかろうとしたが、僕は慌ててそれを止めた。
「すみません。僕がひとつ、ずれますから」
僕は、彼女との間に一席あけて、彼に謝った。
愛想笑いをして、彼が立ち去るのを見送る。
彼はスマホをいじりながら、何度も僕たちを嘗め回すように見て、店を出て行った。
「なんでデートなのに距離をとるのよ」
彼女は憮然とする。
「無駄な対立は避けようかなと」
「なにがソーシャルディスタンスよ。恋人は近づいちゃいけないの? 手をつないじゃいけないの?」
「外では我慢すればいいじゃないか」
「外でだけ我慢しても、なんの意味もないじゃない。母親は自分の赤ちゃんに2メートル離れて、おっぱいをあげなきゃいけないの? あなた、私に触りたくないの」
僕は、ちょっとHなことを考えそうになって、頭を振った。
「だいたいね、高齢者でも、95%の人は軽症か無症状でしょ。今じゃ、心血管系や糖尿病、呼吸器などの基礎疾患がある人が、重症化するって分かってるじゃない。だったら、そういう人に、うつさないように対策するべきで、お年寄りと会うとき以外は、私たち普通に生活するべきよね」
僕は「まあ、それも一理あるね」と言った。
「なによ、風見鶏みたいな無難な受け答えして、男らしくない」
「男らしくなくてごめんね」
僕は「しかしだよ」と言った。
「一度感染して抗体を持ったら、絶対に再び感染しないなんて言えないんだろ」
「絶対なんてあるわけないじゃない。でも、リスクは大幅に減る。リスクは天秤にかけなきゃだめでしょ。東京でのコロナウイスの抗体保有率は0.1%よ。まだ千人にひとりしか抗体を持ってないじゃない」
「感染が広がってない証拠なんだから、いいじゃないか」
彼女は「はあ」とため息をついた。
「もしかして、コロナがこれで終わりだなんて思ってない?」
「第二波とか三波だよね」
「ああ、分かってない」
彼女は頭を振った。