杜都の民は黒山羊を崇拝する
古の時代、陸奥の太平洋側。
平原に存在していた1つの農村。
その農村で暮らす人々は、毎年のように作物が豊かに収穫できるため、食に困らない生活を送っていた。
農民たちに対して豊作が続く理由を問うと、彼らは口々に「森に棲む女神様のおかげ」だと答える。
農村の近くには黒く深い森が広がっていた。
その森の奥地には豊穣多産を司る女神が棲んでいるという。
森の女神は黒い蹄と雲のような肉体を持つといわれ、その容姿から、彼らは親しみを込めて『御山羊様』と呼んでいた。
年月が経つにつれて女神の棲む森は『御山羊森』と呼ばれるようになった。
女神を崇拝し、女神の加護を受ける人々。
彼らに倣って女神を崇拝する者たちは他の村でも見られるようになっていった。
やがて地域一帯の全ての村が御山羊信仰をするようになり、他所の地域の人々は、その地域を『御山羊国』と呼ぶようになった。
女神に対する豊作祈願の儀式。
それは、村民が皆で酒を飲んで踊りながら、御山羊様を讃える言葉を唱えるというものだった。
どの村でも似た儀式を行っていたが、ある村の儀式だけは違っていた。
御山羊森に最も近い、御山羊信仰発祥の村である。
その村だけは、穢れを知らない若い男を御山羊森に送り、女神への奉仕を行わせるという儀式が存在していたのだ。
穀物が豊かに実ったという報告とともに、若い男は秋の終わりに女神の元へと向かう。
冬を越し、春が来て、若い男は赤子を抱えて村に帰ってくる。
赤子を抱えて村に帰ってきた男は「御山羊様との交わりによって生まれた子だ」と話す。
御山羊様という呼び名は、遥か彼方、日沈む国より先の土地に住むとされる生物に因んだものだったのだが、奉仕に向かった男によると、御山羊様は若く見目麗しい少女の姿をしているという。
しかし、神聖なる御山羊森に勝手に侵入り、命からがら逃げてきた賊は、「黒い蹄と蠢く角を持つ、異形の神の怒りを買った」と話す。
村民と女神との交わりによって生まれた赤子は、村の子として育てられ、やがては他の者と同じように成人する。
成人した子は村の者との間に新たな子を成す。
そして村の血は、少しずつ女神の血が濃くなっていくのであった。
幾百幾千の仔を胎んだとされる多産の女神・御山羊様。
御山羊信仰発祥の村は、御山羊様の千の胎み仔たちが住むとされ、いつの日か『千胎村』と呼ばれるようになった。
◆◆◆
千胎村を中心に広がる御山羊国。
時が経ち、人々からの女神に対する信仰心は薄れ、いつの日か黒々と広がっていた御山羊森は失われていた。
御山羊森が失われた平原には木が生えず、女神の存在を忘れた民は土地の名の由来も忘れ、自らが住まう土地を『宮城野』と呼ぶようになった。
ある日、千胎村の血筋を引き継ぐ子が、その血に目覚めた。
その者の名は梵天丸、後の伊達政宗である。
血に目覚めた代償として右眼の視力を失った梵天丸。
政宗として伊達家の家督を継いでからは、御山羊様の御姿を模した甲冑を身に付け、戦場を駆けるようになった。
御山羊様が黒山羊のような容姿をしていたとことから、鎧兜は黒漆塗り、兜の前面には山羊角を模した装飾品を取り付けた。
戦場を駆ける漆黒の政宗を戦場で見た者たちは、政宗を『狂気の黒山羊』と呼んだという。
また、政宗の旗印は、黒山羊を連想させる紺地。
千の仔を胎んだという御山羊様の逸話に因み、母胎の慈悲を意味する金色の日輪を組み合わせた。
政宗が御山羊様の招来に向けて本格的に動き出すのは関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)のことである。
かつて千胎村のあった地の近くの山に、女神を喚ぶための祭壇を兼ねた居城として仙台城を築城することになった。
その地に広がっていた御山羊森を取り戻すため、城下町に暮らす家臣たちには、武家屋敷での植林を推奨した。
だが、植林が進み、以前は木の生えていなかった平原に屋敷林が広がるようになっても、女神が仙台に帰ってくることはなかった。
政宗は、御山羊様を喚び戻すためには何らかの儀式が必要であると考え、儀式に関する知識を得るために、西班牙(スペイン)からの使節と交流するようになった。
しかし、基督教において山羊は悪魔の象徴とされていたことから、西班牙の使節からは儀式に関する知識は得られなかった。
中世ヨーロッパにおいて、サバト――悪魔崇拝の集会――で崇拝の対象となっていた黒山羊の悪魔。
その正体を探ることに尽力した政宗であったが、亡くなるまでに識ることのできたのは「Iä! Shub-Niggurath!」という女神を讃える言葉の一節だけであった。
政宗の没後も、仙台藩では御山羊様招来の術を調査し続けたが、徳川幕府が鎖国政策を推し進めたこともあって、成果は得られなかった。
◆◆◆
武士の時代が終わり、仙台城が廃城となった時代。
この時代になっても伊達政宗の遺志を継ぐ千胎村の末裔たちは御山羊森の復活を目指し、植林を続けた。
彼らは植林、植樹を続け、昭和の時代には仙台の一般市民たちの中にも『森の都』『杜の都』という意識が芽生えるようになっていった。
かつて御山羊国の中心、千胎村のあった土地。
現在は宮城県の中心、仙台市と呼ばれている土地。
環境の保全を望む者。
美しい景観を望む者。
“千匹の仔を孕みし森の黒山羊”を崇拝する者。
目的は違えど、彼らは『杜の都・仙台』をつくり続ける。
そして、少しずつではあるが、彼らの努力に応えるような変化が起きていた。
1本、また1本と仙台の街路樹が黒山羊の落とし仔へと姿を変えていく。
森の黒山羊が仙台の地に再びやって来る日も遠くはないのかもしれない。
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