九
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私は結局彼女に悩みを打ち明けることなく帰ってきた。しかし後悔などは持ち合わせていない。私はあくまで私の意思で伝えなかったのだ。
確かに私は自分の気持ちを誰かに分かってもらいたかった。そこでシェッツヒェンが身近にいたわけであるが、いざ聞いて貰おうかという考えが頭に浮かんだ時、彼女のその純真無垢な笑顔に向けてこんなに面倒な人間(とは言っても私個人の話ではあるが)の内側を見せるのは気が引けた。その場はなんとか誤魔化して帰ってきた。しかしそうは言っても私の「気持ちを解ってほしい」という考えは依然として私の中に充満している。
気晴らしに散歩でもすることにした。もともとあまり散歩は好きではない。歩く理由が私には分からないからだ。歩いたからなんなのだ、知ってる町の景色が何なのだ。しかし今日は違った。気分転換だ。実際、散歩にそんな効能があるかどうかは知らないが、最近はあまりに頭ばかりが動いていてしょうがない。たまには体を動かそうと、そういった魂胆だ。
家の前の道を西に進んでいくと少し大きい通りに出る。似たくらいの背丈の建物が横並びで続いている住宅街である。その大通りに出てすぐ右手に地下鉄の駅がある。私は地下鉄に乗るために階段を下りた。散歩と言いながら地下鉄に乗る。まあいいだろう。
六駅乗ると市街地に出る。そこで降りて久しぶりに旧市街を歩こうと思った。久しぶり、などと言うがそれほど歩いた試しなど無く、きっと今日が初めてちゃんとその街並みを見るのではないかという程度である。
トックにもさほど大きくは無いがやはり新市街地と旧市街地がある。旧市街地には古い街並みが残っている。スーパーマーケットも無い。あるのは個人商店くらいだ。
旧市街にも教会が建っている。スラリと高く細く聳え立つ姿は、旧市街のランドマークである。教会の上の方の壁にはモートル教の紋章が描かれている。私はとりあえずそこを目指す事にした。道中、パン屋でもあればそこで一つパンを買って教会の元で食べようと思った。
きっと快晴だったら景色も違って見えるだろうが、雨の薄暗さの中ではきっと本来の美しさは出し切られていないんだろう、と全体にグレーの街並みを哀れんだ。
パン屋を見付けた。サンドイッチを一つ買った。見た目は特に華々しくも無いが、パンの匂いを町中にはなっているかのような存在感があるパン屋だった。建物自体も古そうで最近のオシャレなパン屋とは違い旧市街にピッタリである。
私はパンを齧りながら教会へ向かった。教会の下には雨宿りが出来そうな場所があったのでそこに腰を下ろした。
旅行にでも来た感覚だった。住んでいる町ではあるはずなのに、知らない事ならまだたくさんありそうだった。この旧市街だって存在は知っていた。しかしいざ来てみると、やはり見慣れない景観は新鮮である。ましてやこんなパン屋がある事など、来てみなければ分からなかったことである。石畳の道も、鳥の鳴き声も、意外と活気がある市場も来てみて初めて知った事である。
私は最近いやに内向的になり過ぎていた。外の世界に出れば知らない事がたくさんあり、知るという事の喜びをこんなに感じれるという事を私は忘れていた。私は色々と知りたくなった。パンを食べ終えた私は包み紙を丸めてゴミ箱に捨て、散策を続けた。
教会から、ほんの二三分歩いたところに目を引く建物があった。周囲の建物との調和を乱すような黄色い建物だった。それは私の今燃え盛り始めた好奇心を掻き立てるのには十分だった。看板らしいものが見当たらないのでいったい何を商っているのかがわからない。しかしトックには他にもそういう商店は少なくない。そして大抵の場合そこは占術屋であった。なので私はその黄色い建物を占術屋だと決め込んだ。ひねくれものの私は占術家の事も斜めから見がちであった。「今、心境の変化があったばかりの私を言い当てられるか腕試ししてやる。」といった具合に考えドアを開けた。この辺りにしては珍しく押戸であった。
中に入ると、真っ暗だった。しかし正面に薄く灯りが見える。その灯りに照らされているのはどうやら人の顔に見える。
「そうか、雰囲気で人間の心をまず掴もうって言う魂胆だな。そうはいくか。」
私は占術家の思惑通りになるもんかと、なんでもない顔をして灯りに近付いて行った。灯りに照らされていたのは若い女であった。その女の前に長テーブルが置かれ向かい合うように椅子があった。私はそこに腰掛けた。
「あなたが占術家か?」
そう聞いて改めて女の顔を見ると何か不安気な表情である事に気付いた。そして静かに首を振った。その間に私の体は何者かに(あるいは機械によって自動的に)椅子に固定されてしまった。
「どういう事だ?」私は女に尋ねた。
「私にも分からない。」女は震えた声でそういった。
私はあたりを見回した。ほとんど暗くて何もわからない。
「ここはあなたの商店ではないのか?」
私はもう一度聞いた。そうでないと理解が出来ない状況であった。彼女はまた首を振った。そして彼女の後方を指さして「私はあの入口から入ってきた。」と言った。どうやら私が入ってきた入口の向かいにもう一つ入口があったらしい。しかしその方向を外から見た時は黄色い建物などは無かったはずだ。
私には信じ難かったが、どうやら彼女はここの人間では無いらしく、それでも手掛かりはこの女と探さざるを得ない。
名前はセリーと言った。トックのカフェで給仕人として私と同じように職業訓練をしているらしい。反対側の外壁はどうやら周りと何ら変わらない景観だったようで、入って椅子に座って固定されるところまでは私と一緒であった。ヒントは無かった。
彼女はひどく不安そうな顔をしている。無理もない。こんなに暗く気味の悪い所、占術屋でもない限り気持ちが悪い。私も当然不安が無いわけでは無かった。しかし、二人しかおらずましてや相手が女である時に、男である私が不安がっていたらみっともないという事を私は心得ていた。あくまで平常を保ちながら、しかし不気味は不気味である。状況も理由も分からないわけである。何も「分からない」わけである。せめて気味の悪い男の声であっても、どこからか聞こえてきてさえくれた方がよっぽどましである。
私は机の上の灯りに目をやった。ただの丸い透明の器から灯りが出ているだけである。
そこで私は机の上に何か書かれている事に気が付いた。しかし私の側からではうまく読み取れない。私は涙ぐむ彼女に読んでくれとお願いした。
「モットモ…オオキイ…ナヤミヲ…イイアエ…ワタシハ…ソレヲ…ミテイル…。」
彼女の途切れ途切れの言葉を頭の中で繋ぎあわせると「最も大きい悩みを言い合え。私はそれを見ている。」となるが、なおさら意味が分からなくなった。そして、確かに誰かがどこかから見ているんだという事も分かった。
「つまり悩みを言い合ったら出られるの?」
彼女の言う事でほぼ間違いないだろう。しかし、依然として理由が解らない。言ったから何なのだ。誰とも知らぬ人どうしで各々の悩みを聞かせ合って何になるというのだ。私はそんな事を彼女に言った。きっと彼女もそんな事はとっくに考えていただろうが、口に出さずにはいられなかった。
「でも今はそれがここから出る唯一の方法はそれしかない。それが二人で悩みを言い合う私たちにとっての理由になる。」
彼女は思っていた以上に冷静であった。まさに今は二人で悩みを言い合う事に理由が生まれた。
するとテーブルの上の灯りが消えた。真っ暗になった。かと思うと、彼女にスポットライトが当てられた。どうやら彼女が先に言う番らしい。
状況はいまだに理解は出来ていないが、私は彼女の話に耳を傾けた。