八
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二週間ぶりに職場に出勤した。見慣れた顔が勢ぞろいしている。
「休暇はどうだった?」という問いが、職場の規則でもあるかのように皆に聞かれた。私はその都度「良かった。」とだけ答えた。当然、良い思いよりも悪い思いの方が多く味わったのだが、それを説明するのも面倒に思え、なにより誰がそんな気持ちを解ってくれるもんかと思って話さなかった。シェッツヒェンは相変わらず可愛がられている。
私は仕事中に、あれこれと考えずにもっとシンプルに生きられたらどれだけ楽だろうと考えた。もはやこんな事さえ一日中考えている私にとっては、ゴキブリを素手で殺す事の方がよっぽど簡単であった。なんとなく気分が上がらないままその日の仕事を終えた。
相変わらず雨が続くこの街のせいかもしれない、と外部からの刺激によるものだと自分を納得させようとしたこともあった。それで気が紛れるのはほんの少しの間で、結局頭はまた余計に働き始める。
「やっぱり。」
後ろから声を掛けてくるものがいて振り返るとシェッツヒェンであった。
「今日は元気が無かったね。」
「少し考え事をしている。」
「何を考えているの?」
なんとも図々しいやつだ。
「別に何でもない。」
「なんで?言ってよ、悩みでしょ?」
どこまで図々しいのか。話したくないから茶を濁しているに決まっているではないか。どうせ話したところでこいつだって私の気持ちの事など分かるはずがないんだ。私は段々と腹が立ってきた。
「悪いがそれ以上何も喋らないでくれ。」
彼女は口を閉じた。私の歩く速さの方が早いのでどんどんと距離が離れた。
家に帰ってきた。コーヒーを淹れた。イライラは治まっている。治まってはいるが、何かがまだ胸につっかえている。コーヒーで流し込めるかと一口に飲んだがかえって気持ちが悪くなって布団に入った。
コーヒーのせいなのか胸のつかえのせいなのか分からないが簡単に眠れなかった。天井を見ながら、この胸のつかえの正体を探っている。仕事中に考えていた感覚ともまた違っている。どうにも分からなくなって、紙に書き出す事にした。布団から起き上がり机の前に座った。キーワードのような物だけを箇条書きに書いた。人間関係だとか、悩みすぎるだとか、自分がこれまでにすでに何度も脳内で繰り返した事ばかりが連なる。そんな事は分かっている。これを知らないのは他人だけだ。
その時にハッとした。本当は私は知ってもらいたいのではないか。私の悩みや性格を正しく理解してもらいたいのではないか。そうなると私はもう一度さらに大きくハッとした。私の今のこの胸のつかえは、シェッツヒェンに打ち明けられなかった寂しさではないかと思った。せっかくもらった機会を、何かの意地で粗末に突き返し、さも立派な強い男であるかのごとく振る舞った結果生まれた寂しさではないかと思った。
胸のつかえの正体がわかった私はすぐにでも誰かに教えてあげたかった。しかし当然今は誰もいない。数十分前まではシェッツヒェンがいた。途端に悔しくなった。
次の日、私はあえて考え事をした。そしていかにも元気のない素振りをしてみせた。声を大にしては言えないが、何を隠そうシェッツヒェンにもう一度チャンスを貰うためである。こんな考えをしている時点で先輩の威厳など無くなっているが、今欲しいものがそれでは無いことくらいわかっている。
どうしたらシェッツヒェンに気付いてもらえるか、彼女のいる場所や自分の表情などを入念に作り替えながら一日を過ごした。
その帰り道、私はわざとゆっくり歩いた。きっと彼女は私より遅れて店を出るのを私は知っていた。
「お疲れ様。」
後ろから声がした。シェッツヒェンだ。私は弱弱しい声で返事をした。これも作戦のうちである。
「今日も考え事?」
案の定、彼女は質問をしてきた。私はホッとして打ち明けようと思った。ところが私は今日一日、彼女にどうしたら気付いてもらえるかという事ばかり考えていたため、それ以外の悩みなど持ち合わせていなかった。
「何のこと考えていたの?」
とても言えない。これでは本末転倒じゃないか。私は素っ気無く「何でもない」と言ってその場を後にした。
まったく、ふざけた人間である。本当に情けがない。家に着いた私は打ちひしがれた。
私がいったい何をしたいのか、自分でさえ曖昧であった。彼女に話を聞いて貰いたいという事が目的なのか、自分の考えを誰かにひけらかす事が目的なのか、自分を肯定して貰う事が目的なのか、まるで見当がつかなくなった。そしてまた自己嫌悪に陥った。
素っ気無く彼女に返答したことでさえ悩みの種には十分で、彼女はそれによって何を感じたのかが気になってしまった。嫌な気持ちを与えてしまっただろうか、だとすればもう二度と話を聞いてもらうチャンスなど訪れないだろうか。こんな悩みを馬鹿らしいと笑う第三者目線の自分もいて、しかし現実にこんな事も考えずにはいられない自分もいる。疲れてきた。眠ろう。
段々と何が何だか分からなくなって、自然とどうでもよくなった。頭の中はいまだにこんがらがったままで、仕事も単調に進めている。
こんなに面倒臭い人間にとって生きることはとても生きにくい事に思えた。他者には見えないところで自分には悪い部分が嫌ほど見える。そんなものを抱えながら生きていくのは大変に思えて仕方がない。いっそのこと五感を失ってしまいたいと思った。
帰り道、自分の前を黄色い傘が歩いていた。よりによって前である。憂鬱な気持ちになった。私はゆっくりと歩こうと意識することにした。
急にくしゃみが出た。と、同時に黄色い傘が振り向いた。そして足を止めている。遠くから見えるあの冷ややかな目はどういうつもりなんだ。私への不満を持っているのか。無理もない。昨日一昨日と続けてあまりに冷たい態度を取ってしまっている。仕事中だって同じだ。
とは言え、私まで足を止めたら不自然極まりないので恐る恐る進んでいく。彼女はどうやら私を待ち伏せているようだ。
ちょうど彼女のすぐ前までやって来た時、彼女は口を開いた。
「体調が悪かったんだね。大丈夫?」
私はハッとした。なんだ彼女は何も不満そうな顔ではないじゃないか。それどころか私に心配を向けてくれている。
そうか、彼女はきっと私が体調のせいでここのところ素っ気無かったと解釈したのか。そうではないが、彼女の安心したような顔に私の方が安心感を与えられたような気分だった。
「そうではない。ただのくしゃみだ。」
「強がり。無理はしないようにね。」
なんなんだこの安心感は。
彼女は勘違いだ。無理して強がってなどいない。そもそも風邪などひいていない。
「違う。風邪などひいていないぞ。」
「風邪はひいていなくても体調は悪いに決まってる。いつもの調子じゃないもん。」
確かに彼女の言う通りだ。いつもの調子ではないんだ。悩みによって気分が悪かったのも確かだ。
「ただの考え事だ。」
「何を考えていたの?」
「話すと長くなる。」
「聞かせて。」
私は女々しくも安堵の涙を流しそうになったがあくまで平静を装った。平静を装う事が私なりの感謝のサインだとは、きっと彼女は考えてもいないだろう。