六
六
女の名前はアヤカといった。やはり日本人の女で日本では芸術について勉強をしているらしい。そして何より驚いたのは、いよいよジャル・シモンスを知っている人間に出会った事であった。
オノマトペという二人組の演劇はとても素晴らしかった。下手な仕掛けの無いシンプルなステージの上には、何の派手さも無いたった二人の男がいるだけであるにも関わらず、そこには様々な景色があり、景色の中には二人以上の人間が確かにいた。鳴り止まない終焉の拍手の中、私は余韻に身を委ねてそれまでの二時間を思い返していた。こんなにも感動をしているのにそれを伝える相手がいない事に気付いた時、私はようやく寂しさを感じた。その感動は吐き出せないまま大きくなり、各内臓を押し退けて体の中いっぱいに広がっていた。誰も見ていないのであれば、今にも踊りだしてやろうかとも思い、周囲に目を向けてみた。すると隣にいた彼女と目が合ってしまった。私は急に恥ずかしくなり目を逸らさんとした時に「素晴らしかったですね、オノマトペ。」と彼女から私に話し掛けてきた来た。激しく同意したかった私であったが、初めての相手に自分を曝け出してなるものか、と「素晴らしかった。」とだけ答えた。すると彼女はさらに話を繋げてきた。
「私、オノマトペって知らなかったんですけど、物凄い感動しました。」などと、聞いてもいない話をしてきた事にいい思いはしなかったが、その意見は私の思っていたそれと全く同じであったために、今度は返事すら忘れてただ頷くばかりであった。
「プロクにはジャル・シモンスっていう音楽家の故郷っていう事で来たんですけど、思いもよらない芸術に触れられました。」
彼女が嬉々として話す内容などどうでもいいと思うくらいに、私の耳には「ジャル・シモンス」という名前だけが残った。
「ジャル・シモンス知ってるのか。」
「知ってます。私は彼の音楽が好きでいつも聴いてるんです。」
さっきまで、初対面なのに図々しい態度をとる女だな、くらいにしか思っていなかった印象が一変した。もう一度言うが、この時私はいよいよ私以外にジャル・シモンスを好きな人間に出会った。
きっとそこからしばらくシモンス談議になっていたのだとは思うが、明確に覚えていない間にすっかり意気投合していた。まるで映画や小説に見るドラマチックな出会いではあったが、これは確かに現実の話である。私たちは劇場を後にし、少し散歩をすることにした。
すでに警戒心を取り払った私の心はそれはそれは晴れやかであった。体中いっぱいに広がっていた演劇に受けた感動も、破裂する前に吐き出す事が出来た。私は平静を装っていたつもりであったが、実際はどうだったのかも分からない程に話に夢中になっていた。話した内容などは本当はどうでもよく、私にとっては、シモンスの出生地へ人生で初めて一人旅をし、そこで出会った外国人と「ジャル・シモンスが好き」という共通点のもと意気投合したという事実が、ワクワクするように面白く感じられてそれが何より重要な話であった。
しばらく歩くと川沿いの道に出た。私たちはその川沿いのベンチに腰掛けた。川と言ってもその幅は2メートル程度の小さい川で流れも穏やかであった。彼女はすでに下調べをしていたようで、その川沿いを川上に向かって進んでいくと城に着くと教えてくれた。もう訪ねたかと聞くと彼女はまだだと答えた。
「もし明日暇があれば行ってみないか。今日はもう暗い。」
私は無意識のうちにそんな提案をして、急に恥ずかしくなった。私がそんな自分の行動を省みる隙も無いほどすぐに彼女は「ぜひ行きましょう。」と言ってきた。その笑顔は夜の暗闇の中でもひどく光って見えた。
翌日の午前十時に、劇場の前で待ち合わせをした。十分前に到着した私は、不思議とワクワクしている自分の心持に気付いていた。私はFに教えてやりたかった。これが恋であると。シェッツヒェンに感じていた感情とは全く別物である。昨日、宿に帰った後、いくら考えても彼女の顔を思い出せなかったのが何よりの証拠である。私は私で、自分の恋愛感情の分別くらい付けられるんだと誰かに教えてやりたいような気持ちだった。
そのうち彼女も到着した。ああそうだったこんな顔をしていた、と思うのと同時に心が高鳴るのが分かった。どことなく昨日よりも美しく見えるのも、こっちの気持ちの変化によるものだろうと気付きながらも、その意識はしないように心掛けた。
二人は昨日の夜の復習のように同じ道を歩いた。昨日の夜に見ていた街の景観とはまた違って見えた。
昨日のベンチに着くと、今日もまた少し休む事にした。
私は恋愛感情を持ってしまうとあれこれ考え過ぎる癖があった。そして考えているうちに口数が極端に少なくなる事も分かっている。この日、アヤカにもそれを言われた。言われたといっても昨日の今日である。昨日の夜に比べると口数が少ないという程度にしか感じていないはずであるが、私からすると大異変である。そしてそれに気付かれてしまった事もどこか嫌な気持ちになった。
結局、城を回っている間もその帰り道も、自己評価をすると最低な立ち居振る舞いになってしまった。彼女は終始、笑顔であった。
「クランナ人の方とこんな仲良くなれるなんて嬉しかったです。」などとも言ってきてくれる。それに対して、なんと答えるのが正解なのか私には分からなかった。
私は馬鹿だ。ただ、偶然知り合っただけの旅行客に恋愛感情を抱いてしまっている。そしてそれだけではなく、頭の中で一人で勝手に悩んでしまっている。この人にも日本に帰れば好きな人がいるかもしれない。この人が私と好意的に接してきてくれるのは単純に外国人と仲良くなれたからであって、それ以上ではない。しかし、私はその反対の可能性も考えてしまう。何故なら彼女の態度が素晴らしく優しいからである。そうは言っても昨日の今日である。そこに恋愛感情など本来生まれるべきではないのである。私は知っている。しかし、知っていても生まれたものは生まれたものである。
そうあれこれと考える私は、それでは実際彼女に対する態度はどうだったのか。頭の中で考えるばっかりで、彼女には不愛想で気さえ配れてなかったのではないか。上手に笑えてさえいなかったのではないか。これはすでに疑問ではなく確実である。そんな態度で、好意を持って貰おうなど到底無理に決まっている。しかし、好意を持って貰うような行動を取れなかったのはすでに過去である。ここから挽回など出来るものか。いや、そもそも彼女の中に恋愛感情など生まれるわけがないのだ。何度も言わせるな。しかし私の中にはその感情は生まれてしまっている。生まれてしまっている以上、考え過ぎるのと不愛想になるのはしょうがない事だ。しかし、その態度では好意など持って貰えない。いや、そもそも・・・。
「好きだ。」
無意識に口を突いて出たのは、お別れをする直前であった。内臓も感動も押し退けて体中に広がっていた恋愛感情が爆発した。彼女がどんな顔をしていたのかは、自分の表情さえ操れない私にはとても知れなかった。
「嬉しいです。でももうこれで帰らないといけないので、またどこかで会えたらいいですね。楽しかったです。ありがとうございました。」
きっと私は「冗談だ」と誤魔化す事も出来ない表情をしていたんだと思う。挨拶をして彼女と別れた。私はまっすぐに宿に帰った。
次の日も、その次の日も私は気晴らしに積極的に美術館などを回った。しかし、まったく楽しめなかった。それどころか、一人でいる分考える時間が十分に取れ、絵を見ていても何をしていても頭の中では反省ばかりしていた。
何をしていたんだろうか、私は。
楽しくないまま旅行を終えた。自分以外何も誰も悪くない。
私は馬鹿だ。情けなくて、恥ずかしくて、見っともなくて、体に悪い事を全部やりたいような気持ちになった。