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望遠鏡  作者: オノマトペ
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 あの晩から今日に至るまで、これと言って面白い出来事も無かったので誠に勝手ではあるが省略させてもらおうと思う。強いて挙げるならば、修了試験を無事終えたという事であるが、身構えていた程の困難ではなく思っていたよりもずっとリラックスして終える事が出来た。結果の通達が来るのは一カ月後という話だ。


 かくして時は九月に差し掛かろうとしている。朝晩は日中の暑さが嘘のように冷え込むようになった。


 私は秋が好きであった。別段、人に説明がつくような理由は持ち合わせていない。しかしそれでも何故かと聞かれる事が屡あるのでその時私は決まって「雰囲気」とだけ答える。これも別に適当に言っているわけではない。秋の風やら、空の変わり具合、何となくであるが赤っぽい空気等を伝わりやすく言おうと思うと「雰囲気」と言う言葉の他に私は知らなかった。


 当然Fはとっくにセデルに戻った。結局、両親に会わないまま戻ったらしく、それではあまりに可哀想だと彼の両親に同情した。


 試験を終えて二週間の有給休暇を取った私は、仕事を忘れ大いに羽を伸ばそうと旅行を企てた。そして今まさにその真っ只中である。試験も終え幾らか開放的な気分になった私は旅行の候補地に日本を考えた。しかし何せ距離と金が問題であった。かと言ってイタリアに飛ぼうにもイタリア語も英語も喋られない私にはあまりに無謀と見え、結局国内旅行に落ち着いた。とは言え、私の人生において初めての一人旅である。十分な冒険だ。


 南の端のトックを飛び出し向かったのは、その正反対とも言える北の端に位置する街、プロク。隣国のメリジャトーレとすぐ隣り合わせの所だ。


 私がこの街を選んだ理由はほとんど無く、唯一ジャル・シモンスの出生の地であるという事だけが私の興味を呼んだ。十四時間バスに揺られて着いた大きいバスの停留所のすぐ脇にはシモンスの銅像が建っていた。


 この街を含むキセという地域は、クランナの中で最も芸術の歴史が長いらしく、有名な美術館やコンサートホール等が沢山建っている。それと合わせてどことなくこのプロクの街も全体に色味が鮮やかである。道の石畳も所々カラフルに彩られているし、建物一つ一つも色が違っている。ちょうど、イタリアにあるブラーノ島をもう少し淡くした、と言えば分かりやすいような風である。


 ここに私は一週間滞在するつもりだ。先程「真っ只中」などと言いはしたがまだ二日目。初日の昨日は夕方四時に到着した時点ですでにヘトヘトであったため、真っ直ぐ宿に向かい体を休めただけであった。そういえば夕飯さえ取らなかった。道理で今朝、宿の朝食をこれでもかと言うくらい腹に詰め込んだわけだ。


 一週間あるが、これと言って計画は立てていない。この後、少し街中を散策しようと思っているがそれ以外の予定は白紙である。とは言え芸術の本場である。幾つか本場の芸術に触れようという目的は漠然と頭の中にあった。


 カラフル、と言うだけで気分が良いのは何故だろうなどと考えながら歩いた。トックでは異様に目立って見えた青いポストさえ、この街ではむしろ影が薄い。建物の壁には所々落書きがされている。落書きは何処に行っても上手いもんだと感心していると、その落書きさえ写真に収めている人がいた。いくら上手とは言え落書きである。それをわざわざ写真に収めるとは、芸術の街の過大評価も甚だしいものだと心の中の鼻で笑った。見た所、顔立ちからしてアジア人である。どこの国からかまでは分からないが、言葉を踏まえると大方日本人で間違いないだろう。大きい荷物を背負った女である。歳は自分と似たくらいかそれより下、眼鏡を掛けて首から一丁前にカメラをぶら提げている。と言った具合に人間観察をしているうちに女は何処か別の場所へ向かって行った。私も散歩を続けた。


 しばらく歩くと大きな黄色い建物が目の前に現れた。地図を見るのが苦手な私はいつもこうしてばったりと何かに出くわす。立て看板を読むとどうやら劇場らしい。それにしても観光客なのか地元民なのか分からない人間の群れでごった返している。私は何事かと思い近くの人間の会話に耳を澄ませた。どうやらクランナで最も古い事で有名な劇場なのだそうだ。さらに何が有名なのかと言うと、その建物の大きさと鮮やかな黄色い外壁、屋根の上に並んだフラミンゴをモチーフにしたモニュメント、と何れも外観の話である。劇場なのだから中身を楽しむべきであるのに、多くの人間は外観を写真に収めて満足して帰って行くらしい。とことんふざけている。私は今晩、この劇場で劇を観る事に決めた。掲示板に貼りだされた週間プログラムを見ると、今晩七時から一つあった。とりあえずそれまでブラブラとして時間になったらまた来よう、と周辺で目印になりそうなものを探したが、特に目立ったものは無く、よく考えたら屋根の上の黄色いフラミンゴの群れが何より目立つと納得しその劇場を後にした。


 六時を回った事を確認し、コーヒー代をテーブルの上に置いて店を出た私は夕日に染まって一層目立つフラミンゴを頼りに劇場へ向かった。幾つかの店はすでに閉店の準備をすすめている。そして何処からともなく路上演奏会の音色が聞こえてくる。キャンバスに絵を描いている者もいる。芸術の街である。


 劇場へは迷うことなく辿り着いた。改めて外観を見てみると、なるほど確かにカメラを回したくなるほど独創的であった。建物のちょうど半分くらいの高さから上に向かって等間隔で人間の形をした像が壁から斜め前にせり出すように造られている。それもただの人間ではない。一つ置きに逆様になっていたり、表情もめちゃくちゃで舌が腰まで伸びているモノや満面の笑みで頭を抱えているモノもあった。何となく気持ちが悪い。これが芸術なら私には難しすぎる。


劇場はもう開場されているようで、正面の重たそうな扉の片側が開け放たれていた。入り口前の券売所で入場券を買った。三十リップだった。そして演目の解説書のようなパンフレットも貰った。開演まであと二十分という段階で客席は三分の一程空いていた。息も詰まるくらいぎゅうぎゅうになって観るような事はなさそうだなと安心した。私は舞台の正面の列の両側に誰も座っていない席を取った。


 この一人旅が初めてなら、一人で演劇を観るのも初めてであった。子供の頃はよく両親に連れられて観に行ったもんだったが、親元を離れてからはめっきりであった。休暇に時間があるとすれば、本を読んだり、音楽を聴きに行ったり、美術館で絵を眺めたりはするが、演劇は行かなかった。そこにも理由は無かった。恐らく、人が沢山敷き詰まっているような所が好きではないからだと思う。音楽のコンサートなどは好きなので我慢が出来るが、演劇は別段好きと言うわけでもないのでそれならば行かない、とそういう風である。身の回りに演劇が好きな人間もいないし、あまり触れる機会も無かった。


 開演までの間、パンフレットに目を通す事にした。劇場内は暗いが文字を読む事は出来た。


 オノマトペ、と名乗る二人組の舞台らしい。舞台演劇はたいてい十人くらいは人を要すると考えていた私はハズレを引いてしまったと思った。が、きっと駆け出しの苦労人なのだろう、と見守ってやろうという気持ちを持ち直した。改めて客の入りを考えると、二人でこの量なら上出来だ、と心の中で簡単に拍手をした。


 劇場の内側もやはり独創的であった。正面を見て左の壁には一面ビッシリとアルファベットがごちゃ混ぜに書かれている。右の側には大きな眼鏡が天井からぶら下がっており、そこに戯れる猿が幾つかいた。動かない所を見ると作り物の猿である。体の模様があべこべになった作り物の牛とイルカも居た。ステージの真上の壁には、ここにも六羽のフラミンゴの絵が描かれていた。


 開演のブザーとほぼ同時くらいに「ここ空いてますか?」と問う声が右側から聞こえた。私は「空いている。」と答えた。せっかく空きの両側が片方埋まってしまった。私は、いったいどんな人間が私の領土に足を踏み入れたのか見てやれと思い、ちらと右の方を見た。首からカメラを下げて眼鏡を掛けた例の女であった。



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