三
三
彼の名前を以後、Fと呼ぶことにする。これでは某名作家の某名小説を真似ていると思われてしまいそうだが、仮に彼の名前を毎度文字に起こそうと思うととても面倒な名前を持っているのでFと呼ぶことにする。ちなみに本名はシンド・オルステート・フォルディストである。フォルディストからFを拝借した。
今日の仕事を終えたらFと二人で盛大に酒盛りをする予定だ。念を押してそれを再確認すると、彼は日中、散歩をするんだと話した。だから私が帰宅する頃には家を空けていると思うが、そういう事だからと言った。私は勝手にしていいと言った。
彼もまたジャル・シモンスを知らない男であった。私がコーヒーの肴に流した音楽を「退屈」だと一蹴した。しかし眠るのにはちょうどいいと、布団の上に横になって目をつむった。私は暫くしてから家を出た。
三年も働けばある程度の事は目を瞑っていてもそれとなく分かってくる。店主の足音であるとか、作るパンの順番であるとか、成形に関してはもはや退屈に思う時さえあった。
しかしそれは三年という時間によって生まれたものであり、働き始めの頃は全てが分からずに意味のない焦りと責任感に齷齪していた。当時を振り返ると恥ずかしくなる。シェッツヒェンもまた同じだろうと、仕事中の彼女の動きや表情を見て時々思う。シェッツヒェンとはドイツ語で「恋人」やら「かわいい人」の事を指す言葉らしく、同僚達は彼女の事をそう呼ぶ。この国のパンの文化もドイツ由来の物であるし、その時に紛れて伝わってきた言葉なんだろうと思うが、紛れ方までは想像がつかない。そしてみっともない事にこの同僚の中にドイツ語でシェッツヒェンと書ける者はいなかった。無論、私もその内の一人であるが。
私は彼女に最も年齢の近い同僚であるため、大体の事は私が教えなければならない。これまでもそうであったが、例え働き始めて数カ月と経とうと彼女の方が私よりも経験が増えることは無いので、これからも色々な事を教えなければいけない義務があった。
パンを醗酵室に運ぶついでに、彼女の様子を伺うことにした。小型のパンの焼成の準備に入っている。私は醗酵室のドアを閉め去る間際に彼女のミスに気付いた。さほど重要なミスと言うわけではなく、もうちょっとこうした方がいい、というようないわば職場内の独自のルールに則っていないやり方をしていたのだ。
私はハッとした。
何も言わずに自分の持ち場に帰って来ている自分にハッとした。
ふと目をやると彼女はすでにオーブンを閉じていた。彼女はきっと店主に注意を受けるだろう。
三十分後に彼女は店主から注意を受けていた。私はそうなる事を知っていた。しかし私がそれを知っていた事は誰も知らない。
私は急に罪悪感に襲われた。誰からともなく、何処からともなく。
私があそこで注意を促していたら彼女のミスは防げた。しかし私はそれをしなかった。
彼女は自らのミスには気付いていなかったのと同時に、私がそのミスに気付いた、という事もまた知り得なかった。
他人から見たらこれは単純に彼女のミス、なのであるが私はそう割り切ることが難しかった。何故なら私は知っていたから。急に申し訳なくなったが、謝る事でもない。何故なら彼女は自分のミスであるとしか思っていないから。いや、それはまさしく正しいのである。紛れもなく彼女のミスなのだ。しかし、彼女だけのミスではないのだ。誰も知らないところにもう一つ原因があるのだ。
ダメだ、また悪い癖が出てしまっている。深く考え過ぎである。表面的に「彼女個人のミス」であるのならばそれでいいんだ。それで済む話なんだ。幸いさほど大きなミスでは無かった。その日の私は、途端に口数が減った。こうもその事で考えすぎてしまっているという事実さえ、理由が解らなかった。気分転換に舐めた飴はいつもより酸味が強いような気がした。
帰りの時間になると、すでにその事も忘れていた。というのも、今日はいつにも増して忙しかった。仕事時間もいつもより少し長引いた。週末である事も相まって体に疲労感を強く感じる。もし今日Fと酒を飲む約束が無かったら、職場で眠ってしまってもいいような気さえしていた。
薄っぺらい鞄に着替えと、余っていたパンを幾つか詰め込み職場を出た。雨が降っている。言わずもがなである。
私は目を疑った。しかし紛れもなく目の前を黄色い傘が進んでいる。そこで私は今日あったあの件を思い出した。そしてまた謎の罪悪感に襲われた。
当然今日も歩くスピードは私の方が早かった。しかし今日は勝手な後ろめたさがあった私は途中からスピードを緩めた。が、私はある事に気付いた。彼女と私は向かう所は一緒ではないか。トックまで同じように行くじゃないか。スピードを緩めても意味がないと思ったその時、黄色い傘は振り向いた。振り向いたかと思うとその足を止め私を待ち始めた。まったくもってモートルの暇潰しは鋭い。私がモートルの立場であっても、必ずこのような運命を与えそれを天から見下ろして楽しむに違いない。
「今日忙しかったね。」
何の悪気もないその一言で、私の勝手な罪悪感はさらに活性化した。「そうだな。」と面白くない返事をした。それに間髪入れず彼女は更なる攻撃を繰り出してきた。
「私が失敗しなければもう少し早めに仕事を終えられたかもしれない。」
私は持っていた傘を落としそうになり、勢いで鞄からパンが一つ転がり落ちた。私は拾って鞄の中に戻した。今度は返事が出来なかった。彼女は笑ってそれを話す。
先輩である私には、真実をさて置いても掛けるべき言葉という物があったはずだ。それは励ましかもしれないし、慰めかもしれない。しかしその時の私の頭の中にはそのどちらでもない「謝る」という選択肢しか無かった。しかし表面的には私が謝ることでは無いし、しかし内面的には私が彼女を励ますなんて御門違いもいいとこであった。
私はこのような場合の解決策を知らない。また、今までに誰かの失敗を見逃すなんて事が全く無かったわけではない。その都度、言っておけばよかった、と思ってそれでおしまいであった。これ程、必要以上に悩んでいるのは今回に限った話である。しかしそれが何故なのかが分からないでいる。
私は決心した。彼女に、覚えたてのコーヒーでも御馳走して、彼女にこの面倒臭い内情を説明せずに自分の中でキリをつけようと。
「今日も図書館?」
電車の中でそう聞いた私は彼女の顔を見ていただろうか。不自然では無かっただろうか。
「ううん。今日は散歩。週末だし。」
あまりに好都合じゃないかと、今度はモートルを心の中でいつも以上に拝んだ。そして彼女と少し喫茶店に寄ることになった。彼女は喫茶店は初めてだと言った。
私はコーヒーを二つ頼んだ。その時の私の声は震えていなかっただろうか。店員は男だっただろうか、女だっただろうか。
彼女は物珍しそうに店内を見渡している。あまりに無邪気な顔をしている。それによって罪悪感が肥大化する。
結局話した事など覚えていない。きっと頭の中は他の物を詰め込む余地など無かったのだ。しかし彼女が確かに「嬉しい」と言った事だけは記憶している。その「嬉しい」は何に対してのものかまでは解らなかったが、その一言で罪を償ったような気持ちになったのは事実で、それだけで十分だった。喫茶店を出てしばらく散歩をした事など、むしろ必要以上に貰ってしまって、返さなくてはいけないという気を持ってしまった。何を貰って何を返さなければいけないのか。それも分からないまま家に着いたのは午後二時だった。やはりFはおらず、鶏にのみ出迎えられた。




