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望遠鏡  作者: オノマトペ
2/10


 二


 深夜の一時から私の仕事は始まる。パン職人である。もっとも修業の身なので「職人」と名乗るのはいささか烏滸がましいが、間もなく修了試験があるのですでに殆ど職人である。何やらドイツから伝来してきたらしいアウスビルドゥングと言う育成システムでは、いかなる職業であっても三年間の修業が義務付けられている。無論、彼も語学教師の修業を修了している身で、即ち語学教師の職人である。


 職場までは電車に乗っておおよそ三十分程で着く。同僚などは「車があれば十分そこらで来れるのに。」などと言ってくるが、車等の贅沢品を持たない私はその三十分が好きな時間であった。電車に乗って三十分とは言っても、実際に電車に揺られているのは十分そこらで、その前後の移動は徒歩だ。


 周囲の景色がいい。最寄りの駅(これは彼を迎えに行った駅とはまた別の駅である。)までの世界と、そこから四つ先の駅からの世界を電車が繋いでいるという感覚。事実、その二つの地域はたった四駅しか離れていないというのに景観が全く違った。どちらも田舎である事には変わりないが、例えるなら前者は温かく、後者は冷たかった。


 職場ではすでに何人かの上司が仕事を始めている。着替えを終え、トイレを済ませたら仕事場に入った。

 同僚は全部で五人。店主を含めて「職人」が四人と、今年から私と同じ修業の身である者が他に一人いる。その修業生は私よりも年齢が六つも下の少女だ。この職場ではいわゆる紅一点の存在で、何かとちやほやされることが多いが本人はあまりそれを良く思わなかった。それを知っている私はあまり彼女を特別扱いすることは無かった。


 深夜の一時に始まる仕事が終わるのは午前十時くらいだ。朝六時から店主の奥さんが出勤してきて店頭に立ち販売の仕事をし始める。あくまで自分は工房でのみの仕事だ。


 仕事が終わると休憩室でコーヒーを飲むのがもはや日課となっている。他の同僚は直ぐに着替えて帰るが、何故そんなに急ぐのか私には分からなかった。


 コーヒーを飲み終え着替えを済ませ、駅へと向かった。大抵雨降りなので傘はいつも携えている。少し歩いていると前を黄色い傘が歩いている。歩くペースはどうやら私の方が速く、見る見るうちにすぐそこまで来た。狭い道をすれ違いざまにチラッと脇目で黄色い傘を覗き込むと同僚の例の少女だった。普段この道で見かける事の無かった私はなぜかと聞こうとしたが、それよりも先に彼女は私だと気付いて「お疲れ様。」と言ってきたので、質問より先に「お疲れ様。」と返した。


 「帰り道こっちなの?」と聞いたのは彼女の方だった。それは私のセリフだ、と思いながら「そう。」とだけ答えた。


 よく見ると彼女の首に木製のネックレスが掛かっていた。私はそれがモートル教の物であると直ぐに分かった。クランナに生きる大多数の人間がモートル教を信仰しているので、二つの手に覆われるようにして人間が描かれているそのマークは至る所で目にする。そのマークの絵を「人間」としたが、実際には体は人間の形をしているが頭はどうも人間とは違った良くわからない風に描かれていて、近頃では若者の間でそのマークを「オシャレ」だとして身に着ける者が増えてきているらしい。私は特に熱心な信者なわけではないが丁度いい話のタネだと思い聞いてみた。その時点で「いつもこの道では見かけないのに今日はどうしたの?」という質問は忘れていた。


「君もモートル教の熱心な信者なんだね。」

「君も」と言ったのは私もという事ではなく一般の多数派の人たちと一緒で、という意味で言った。

「そう。あなたも?」

案の定、彼女は誤解をしたので「違う」と言ったら小さく笑った。

「母さんの影響なの。」

彼女は自分から話し始めた。

「小さい頃には絵本もいっぱい呼んでもらって、私、その頃の夢が宇宙へ行くことだったの。モートルに会いたくて。」

なるほどそれでは熱心になるのも合点がいくな、と頷いていた。

「実際、宇宙まで行ってもモートルは宇宙も含めた世界のその外側にいるから会えないんだって知った時はすごく悲しくて大泣きしたの。」

彼女は笑っている。職場で見る顔と今の顔がとても同一人物だとは思えないほど違って見えた。職場での真剣な姿しか知らなかった私は、彼女が少女であるという事を再認識させられた。


 「今日、図書館に行くんだ。」

突然彼女は、私が投げそびれた問いの答えを差し出してきた。

「借りてた本を返さないといけないから。」

そこで私は彼女の鞄が大きく膨れているのに気が付いた。私は作業服だとばかり思っていた。女の子らしい身なりに似付かわしくない、まるで祖父から受け継ぎましたというような大きい革の鞄を開いて本を見せてきた。本は三冊あってどれもモートル教関連の分厚い本であった。その本の重厚感も彼女には似付かわしくなかった。ふと自分の鞄の中身を思い出すと、着替えと水と財布だけで、それでいて偉そうに肩からぶら下がっているのが少し恥ずかしく思えた。


 私たちはすでに駅まで到着した。それじゃあまた明日、と言おうとしたがどうやら彼女も電車に乗るようだった。

「図書館はここら辺じゃないの?」

「うん。トックにある。」

まったく同じ所に行こうとしている。トックの図書館なら私も知っている。クランナという国の中の、ショペルという市の中の、トックという町にしか図書館が無いわけではないだろう。なぜ彼女はその中からトックの図書館までわざわざ出向くのか。神・モートルの暇潰しではないのか。と、余計な詮索を始めてしまうのは私の悪い癖だ。どうせ、トックの図書館が家から一番便がいいとかその程度の理由であるという事くらいわかってはいるが、どうも勝手にシナリオを作り上げたくなってしまう。


 彼女はトックまでの十分程、終始話し続けていた。女性はやはりお喋りが好きな生き物だと考えてはいたが、決して嫌な気持ちにはならなかった。寧ろ、自由に生き生きと話をするその姿を見ているのが心地良かった。私よりも六つも年下であるのに、あるいは六つも年下であるからこそなのかもしれないが、この堂々と「自分」を生きている姿に好感を覚えた。とはいえ、彼女の全てを知ったわけではない。ただ、彼女の話を聞いていただけである。それでこの過大評価は、見えない力でもって彼女に圧を掛けることになるかもしれない。それもまた憶測である。私はその辺で切り上げた。と、同時にトックの駅に着いた。


 私の知っている図書館であれば、私の家とは逆方向である。案の定彼女はその方向に進もうとした。その別れ際になって彼女は突然「あなた、トックに住んでるんだ。」と今さら気付いて嬉しそうに言ってきた。「嬉しそう」と言うのはあくまでその「発見」に対する物だという意味で。

「あなた、じゃなくて、君、でいいよ。」

正しい返答ではないがそんな事を伝えて別れた。


 時刻は午前十一時前。私は、キヨスクに寄って適当な雑誌を買った。それから小さい喫茶店に腰を下ろしコーヒーを注文した。


 買った雑誌は、モートル教の雑誌だった。信者の声であるとか、催される行事の日付や場所といった詳細情報であるとかが書かれていた。コーヒーを飲みながら最後まで一通り目を通した。雑誌を閉じる頃には思っていた以上に時間が過ぎていた。私は何の迷いもなく五リップを支払い、家路を急いだ。なぜ急いだのか、今思うと分からないが足早に帰った。


 家に帰ると彼は寝転がって天井を眺めながら考え事をしているようだった。

「今帰った。腹減ったか?」

私はそう聞きながら、まず始めに鶏に餌をやった。彼は「減った。」と言い、「食べられるものなら何でもいい。」と加えた。


 私は彼にモートル教の話を始めた。彼も信者ではあったが、別段熱心ではない様子だった。


 私は気付いた。私はコーヒーが飲みたかったわけでも、雑誌が読みたかったわけでも、ましてやモートル教の事を知りたかったわけでも無かった。それではなぜそうしたのかと問われれば、私には「何となく気分が良かったから。」としか答える事が出来ない程、シンプルで実態の難しい心持だった。


 私は冷蔵庫の中身を空っぽにして彼と私二人分の昼食を作った。


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