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望遠鏡  作者: オノマトペ
10/10

 十


 彼女は自分の中に「悩み」を探し始めた。時折私の方を見てくるが、私に君の悩みが分かるはずがないじゃないかと言う目で見つめ返した。すると彼女は目を逸らした。そういった事を二三繰り返した後で、ようやく彼女は口を開いた。私などはもうとっくに人生のテーマともなりえぬ悩みを持っているというのに、この女は悩みを見つけ出すのにどれだけの時間を費やすのだ、と私は胸の内でひそかに思っていた。



――約二カ月前に「死」、もっと言えば「自殺」を考えていた時期があった。仕事以外にほとんど誰に会う事も無く、ひたすら家に閉じこもっていた。きっかけはいわゆる失恋であった。


 私にはそれまで三年という長い時間を共に過ごした恋人がいた。彼は私よりも年上で、すでに某玩具製造会社の重役を担うような優秀な人だった。週末や長期休暇の時には必ず私と過ごしてくれていた。誕生日やモートルの終焉祭の日も大切に過ごしてくれていた。


 私は彼に絶大な信頼を寄せていた。いつしか結婚というものも考えるようになって、教会へ出向きモートルに祈る事も多くなっていった。


 ところが先日、彼が浮気をしている事を知ってしまった。厳密に言えば、私はこの目でその浮気を見てしまった。相手の女は私よりも派手な格好をしていて、彼よりも年上のように見えた。その瞬間は、悲しさよりも怒りの方が強かった。私はその後彼と会った時に問い詰めた。


 彼に話を聞くと、すでに一年くらいは一緒にいたという事であった。それどころか彼女は彼の家で同棲をしていたらしい。私が時折彼の家に行く時、彼女はどこかホテルを借りていたらしい。その話を聞いた時は怒りよりも悲しみが強かった。そして悲しみよりも呆れてしまった。

 

 私は即座に別れを告げた。彼は困った顔のひとつもせずに頷いた。彼と恋人関係でいた時に、部屋で一人で過ごす時間と、彼をなくしてからの部屋で一人過ごす時間の違いを身にしみて感じた。物質的には何も変わっていないのだが、全く違っていた。そして私は涙を流した。一日中、流し続けた。悲しみだけがあった。そしてその悲しみは次第に後悔に変わっていった。感情的に彼を切り捨てた過去の自分の寛容の無さを悔やんだ。話し合うという手を全く打たなかった自分を責めた。しかしいくらせめても彼は二度と私を思い出す事は無く、あの女を私にしてくれたのと同じように大切にする。その二人には全く関係のないままに私の生活も続いていく。そこに意味を見いだせなかった。その時に私は人生で初めて「死」を考えた。


 私がいなくなった時に、悲しむ人はいるだろうか。私の両親、それから。そこで私の頭はそれ以上の候補を挙げなかった。私がいなくなっても変わらずに進んでいく世界なら、私の存在に意味など無い。彼といた時にようやく私の存在に価値があった。しかしもうない。


 その時、私の親友とも呼べる友人が私を訪ねてきた。何と言う理由があったわけではないらしかったが、突然私を訪れてきて二人で少し出掛けた。私には、私といてくれるこんな素敵な友人がいたじゃないかと気付かされた。そして自殺は思い留まった。




 セリーは話し終えると「これが私の最も大きい悩み。」と付け足して、一呼吸ついた。と、次の瞬間私の目の前から彼女が消えた。ガタンという音がして見失った。そして私の脳が理解に追いつく前にどこからともなく不気味な男の声がした。


「失格だ。あんなものは世間に溢れ返っているごく有り触れた失恋話に過ぎない。それが最大の悩みで、ましてや死まで考えたなど馬鹿げている。下らない。」


 声が止むとスポットライトが消え、机の上の灯りが再び点いた。照らされた机の上には「しばらく待て」と書かれていた。文字が変わっている。状況を理解しきる前に私は十分に怯えている。恐る恐る私は状況を整理し始めた。


 まず彼女の話はどうやらこの場においては失格であったようだ。その時点で私には理解が出来ない。他人の悩みなどそもそも理解できるものではない。だからこそ誰も評価さえできないはずじゃないか。「死」と名の付く桶が満杯になった時に自殺をするとして、その容量は人それぞれじゃないか。失恋で死を考える事だって何も下らなくない。その個人個人がもつ死桶の容量は誰にも解り得ないはずじゃないか。それを馬鹿にする事の方が馬鹿げている。


 そしてそれよりも彼女、セリーの行方である。私の動体視力が確かであれば、きっと彼女は落ちていった。きっと床が開いて椅子ごと落ちていった。死んでしまったのだろうか。それともどこか別の出口に繋がっていて彼女は無事なのだろうか。


 最後に机の上の文字。もしかすると私はこのまま、次に誰かが入ってくるのを待たなければいけないようだ。


 どれをとっても不気味である。そして恐怖である。誰か知らない人に悩みを打ち明ける恐怖に始まり、終わりが見えない恐怖、そしてもしも下らない悩みを話してしまえばきっと死ぬかもしれないという恐怖。駄目だ、冷静にはいられない。


 自分の最大の悩みに評価が下る。しかし言わなければこの場所を出る事も出来ない。その悩みも傍観者が下らないと判断すれば地獄に落ちてしまう。何かに似ている。


 私の悩みは大丈夫だろうか。間違っていないだろうか。ちゃんと「悩み」だろうか。


 そもそも「ちゃんとした悩み」とは何だ。「下らなくない悩み」とは何だ。誰が持っているんだ。いや全員が持っているだろう。「ちゃんとしていない悩み」とは何だ。「下らない悩み」とは何だ。誰が判断しているんだ。誰がそれを決める権利を持っているんだ。誰なんだ。


 私の「悩み」もこれから天秤に掛けられてしまう。私の「最大の悩み」が。判断基準も分からないまま判断されてしまう。私がいくら自分の悩みを吟味したところで「悩み」は「悩み」である。それは変わらない。しかし「そんな事で悩んでいるのか」と思われてしまえば床下へ落ちていく。そう考えているとどうも自分の「悩み」は「そんな事」に思えてきてしまう。しかししっかり私はその件に向き合った。嘘や夢ではない。とは言え、他人から見たその「悩み」を私は知らない。いや知る必要が今までは、あるいは普通は無いのだ。ところが今は違う。


 

恐怖だ。恐怖である。悩みを打ち明けるという事が恐怖である。



 私はその恐怖に襲われたまますでに一日経った。いまだに誰も正面の扉を開けない。そして不気味な男の声さえしない。何度か恐る恐る話し掛けてはみたが応答はない。


 椅子に縛り付けられたままの生活は続く。用を足したい時だけはボタンを押せば外れるようになっている。しかしそれ以外は椅子の上である。逃げようと思っても扉は開かないだろうし、そもそもどこかから誰かが見ているわけである。下手な真似は出来ない。


 恐怖に満ちた窮屈な状況であるが食事だけは山ほど出される。机に向かって右の方から、一日三回流れてくるのだ。果物やパンだけではなく、しっかりと調理された肉料理や魚料理、サラダやパスタなど、食事に関してはすごく充実している。とは言えこんな恐怖の中では快く食べる事など不可能なわけで、時折その豪勢な食事を前にしても一切手を伸ばさない時もある。


 そんな生活が実に三日経った時、正面の扉が動いた。久しぶりに見た外の光は眩しかった。ゆっくりと恐る恐る誰かが近付いてくる。


 ふと気付くと机の上の文字が変わっている。


「ここの事は一切言うな」


 なるほど、きっとセリーも知らないふりをしていたんだなと思った。どうりで震えながら、泣きながらも冷静にいたわけだ。


 目の前に来たのは中年の男であった。当然彼は私に色々と尋ねてきた。私はセリーと同じように振る舞った。そして一度見てきた光景をデジャブのように一通り震えながら見ていた。


 スポットライトはやはり私に当たった。最大の悩みを披露する番である。最大の悩みに判決が下る番である。私は本当にこれを話して間違いないだろうかと迷った。私にとっては「悩み」であるが、不気味な声の男はどう見るだろうか。そんな事を考えていたらセリー同様五分ほど時間を費やした。そして私は一呼吸ついてから話し始めた。懺悔をするような気分だった。




 見切り発車で書き始めた処女作でした。

 あまりに拙い文章とフラフラしていた物語でしたが、最終的には私の思っている事は表現できたように思えました。この小説には当初から「悩み」というテーマがあったわけではありませんでしたが、小説を書いている私と普段生活している私の脳みそは繋がっていますので、だんだんと「悩み」にスポットを当てていくようになっていきました。読んでくださった方、ありがとうございました。

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