上
初めに視界に入ったのは、一面の青色だった。
何秒か時間をかけて、青色が空だと認識する。
空には雲ひとつなかった。
太陽はほぼ真上にあった。
カンカンに照っているのに、暑くは感じなかった。むしろ丁度いい温度だった。気持ちわるいくらいだ。
ゆっくりと軋む体を起こした。
俺は大きい道の真ん中に座っていた。その道に沿うようにいくつものの建物が並んでいた。
その建物群は異様に白い。
なんと言えばいいのか、コンクリートの上からペンキを塗った白ではない。自然物ではない異様な白だ。そしてひび割れ、壊れ、傾いている。その残骸が今いる場所にいくつも転がっていた。
もちろん見覚えなどなかった。
目覚める前の記憶も全くと言っていいほど残っていない。
頭の中で考えるが、空気に手を回しているようなだけで、何も出てこなかった。
仕方ない。とりあえず歩くか。
ゆっくりと足を踏ん張り立ち上がろうとする。一瞬視界がグラっと揺れるが、どうにか踏みとどまることができた。
自分の黒い服全体に薄く覆われていた砂埃を、両手で払い落した。
僕は歩き始めた。
一歩進むごとに足がズンと地面に吸いつく感じに重い。
それでも辛うじて歩くことができている。
道にはいくつもひび割れがあり、所々切れて茶色の土が現れている。窓ガラスの破片がばら撒かれ、タイヤが取れた寂れた車もあった。
人の気配なんてなかった。
音の伝わらない真空の宇宙にいるような感覚。
今聞こえるのは自分の足音と息遣いぐらいだった。
ひとしきり歩いていると目の前に瓦礫の山が現れた。
五メートルぐらいの高さの岩山が、両端の建物に繋がるように大きな道を塞いでいた。
登ろうかと考えたが、体がそこまで元気でなかったので、直前の十字路を右手に折れた。
するとひとつの建造物に目を奪われた。
大通りの正面奥に紫色の大きい建造物が立っていた。
色が濃くもなく薄くもなく、くすんでいることもなかった。妙に新しい色だった。
それゆえにその建物は異彩を放っていた。
引き寄せられるように、その建物に向かって足を進めた。
道路のひび割れや瓦礫を超えながら歩いていくと、両側から建物がなくなり開けた場所に出た。
丁字路の先が広場になっていた。地面はレンガみたいな褐色のブロックで敷き詰められており、中央には円形に囲まれた噴水台があった。
水は出ていなかった。
全体的に砂を被っており、雑草が突き破って生えてきていた。
もう何年も手付かずのようだ。
軽く確認したあと、異質なる紫色の建造物の入口に到着する。
近くに来ても再度認識する。紫色の壁は傷など見えず、新築そのものと言える綺麗さだ。
だが綺麗なのは壁だけで、窓ガラスやドアなどはなく、ただの四角い穴だけがある。
見れば見るほど、不思議であった。
その異質なものに探究心の衝動を駆り立てられ、躊躇うことなく中に入った。
中は天井が高く広い空間が広がっていた。
床には当然、瓦礫やガラスが転がっている。
歩いた跡をがくっきりと床に残るほど塵も積もっている。
ガラスのない窓枠だけとなった壁穴から、砂や塵を反射して光の道となって差し込み、空間を明るく照らしていた。
古びれた置物や錆びれたシャンデリア、傷だらけの柱、奥には赤い絨毯が敷かれた階段がある。過去は綺麗で高級なビルだったのが容易に想像つく。
しかし、建物の外と中で状態に違いがありすぎる。
表向きは綺麗に繕っているように見えて内側は荒んでしまった。
ふとそんなこと思った。
もう一度、赤い絨毯が敷かれた階段を見つめた。
階段は中央から奥に伸びて壁に突き当たり、そこから左右に別れて伸び、終着点には扉が両方にあった。
この建物は確か他の建物より高かったはずだ。
上に昇れば何か見えるかもしれない。この世界の広い景色が。自分が今いる場所がどこなのか、その手がかりがあるかもしれない。
階段を一歩ずつ上っていく。一段上に上がるたびに足が悲鳴を上げ、痛みと重さがひどくなる。それでも上がりきるまで持ってくれと祈りつつ、僕は左の階段を上った。
扉を開けると正面と右に伸びる廊下と、左には鉄骨で出来た、例えるならオーソドックスな階段といえばいいだろうか。
迷うことなくその階段に足をかける。壁に右手を当てながらゆっくりと進んでいく。
心臓の鼓動が早くなり、呼吸感覚が短くなる。
汗が体をべっとりさせ、余計に重圧が大きく感じる。
それでも四階分は昇った。
その上は階段が途中で途切れて崩れ、上に行くことができなかった。
物理的に無理なのと、体力的な限界を感じたため、この階で外を眺める場所を探した。
あまり時間もかからず、廊下にある一つの扉を開けたらすぐに見つけた。
棒になりそうな足を引きずりながら、光が差し込む穴から顔を覗かせた。
下を見ていた時と同じように白いコンクリートの廃墟がひたすら周りを埋め尽くしていた。
奥の方には緑色の地面が見えたが、それが何か分かることはなかった。
もっと奥の方には深緑の塀っぽいのを確認するも、同じく何かを判明することができなかった。
人の気配など無い。
青一色の空と、無機質の白建物、殺風景な景色。
僕は何故ここにいるのだろう。
答えなど出るはずもない。
「……」
湧きでる感情もない。
喜ぶ気持ちもない。悲しみの涙もない。痛みもない。恐怖もない。
「ぐー」
流れた唯一の音、お腹が鳴る。
出てきたのは空腹感。
ああ。人間なんだ。
とはいえ、こんな所に食べ物などあると思えない。
見当もつかない。
埃っぽい部屋を見て回るが、都合よく食べ物などあるはずもなかった。どこか歩いていれば、何か見つけるだろう。楽観的に考えて、一歩足を踏み出したら、ピリッと脚が痺れた。
そうだった。もう限界に近かった。
食糧問題は急を要するが、脚が回復するまでは少しこの部屋で休むことにするか。
壁に背中を預けて、ズルズルともたれながら体を床に下ろした。ザラザラとした感触に温度も愛想もない床。同じように硬く容赦のない押し返しを続ける壁。とてもではないけど整った環境ではない。
けど僕は、だるくなった体から出てくる壮絶な疲労感と睡魔によって、急速に意識が遠のいていった。
目が覚めたら部屋は暗くなっていた。残っている明るさは、部屋唯一の窓穴からオレンジ色の光が差し込むだけだ。
岩のような体を持ち上げて、その穴から外を覗く。あまりにも眩しい光に目を手で覆ってしまう。
寝起きすぐで目が慣れてなかった。
徐々に目を光に慣らしていき、ゆっくりと手を放していった。
辺り一面がオレンジ色に染まっていた。建物が白だったからか、光の色をそのまま反射していた。
雲もない。鳥もいない。人もいない。動くものはない。
ただ眩い日の光がこの無機質な世界を包んでいた。
片肘をついて眺める。
神秘的なのに、感動するや心が震えるなどの感情など全くなかった。
ただ眺める。眺める。眺める。眺める。
何も変わりのない風景に飽きる。
日の光が少しずつ地平線に下がっていく。
景色を変えようと上を見上げる。
光が届かない暗い青色の夜空が覗いていた。いくつかの星もチラつき始めた。
徐々に青黒の空がオレンジの空を侵食していく。
昼は夜に食われ、夜は朝に食われる。
朝は昼に食われると考えて、それだけは違うなと変に詩的に繕ってみた自分を鼻で笑った。
もう一度空を見つめる。
ポツ。
「……?」
今何か液体のようなものが落ちてきた。
雨?
でも空には雲一つない。頻りに空を眺めるが特にそれらしきなものは見えない。
ポツ。ポツ。
二回聞こえた。
今度はコンクリートの壁に一つ、自分の手の甲に纏わりつくように一つ。
自分の白色よりの肌に不気味な程目立つ赤く濁った液体が付着する。
真上?
今度は身を外に乗り出して上を覗いた。
暗い夜空に夕日に反射して光る何かが蠢いている。
何か水粒を撒き散らし回転しながら、落ちてくる。
落下物が増えてくる。
雨のように赤い液体が辺りに飛来し、ポツポツと壁と自分の肌を赤く染めていく。
「うっ」
鼻をつまむような、悪臭。血生臭い。腐った臭い。
徐々に物体は大きくなり、肉眼ではっきりと映った。
全身に駆け巡った悪寒。全力で顔を引っ込んで、中に逃げ込み反対側の壁に張り付き、外に背を向けて座り込む。
自分が見たモノが信じられない。ガタガタ手の震えが止まらない。体が変に寒くなった。
数秒後、空間に広がった破裂音。
グチャッと、柔らかいものが弾け、ビチャッと血がばら撒かれた音。
ガクガクと震える体。
後ろを振りかえったら、惨状が広がっているのは分かる。
「振り返るな。振り返るな。振り返るな。振り返るな。振り返るな」
そう唱え続けているのに、怖いもの見たさが心を支配する。
何か分からないで逃げるより、何かを知って逃げたほうがいい。
震える腕を抑え、縛り付けられた体を必死に振りほどく。
「う、ああああ」
意を決して、思い切って振りかえったその先は……。
何もいなかった。