夢の中の夢
相田頼子は見知らぬ場所を歩いていた。
全く見たことも無い初めての場所なのに―――頼子はそう思ったのだが、全く迷わずに歩ける事に驚いていた。
手には原稿の入った封筒を抱えているので、自分が仕事の為にここを歩いているのだと解った。しかし、道は全く覚えがない。
そんな状況にも関わらず、自分は迷いもなく道を進んでいる。そして……道を進むに連れ、イヤな感覚が大きくなるのを感じていた。
何故だろう?歩いていて不安に駆られる―――頼子は、自分でも理由は解らなかったが、この道を進んではいけない様な気がして嫌だった。
それでも、ビルとビルの谷間を駅に向かって真っ直ぐと延びている道を、頼子は不安に駆られながらも進んでいった。
いや、進まなければならないと言う思いにかられて歩いている、そんな感じだった。
そんな時、ふと何かに気が付き頼子は顔をあげると、前方から一人の男が歩いてくるのが目に入った。その男は、いくら最近寒くなってきたとは言え、この時期には少し大げさに感じられるコートを着ている。
なんかイヤな感じがする―――頼子はその男を見て得も言われぬ不安にかられた ……それは恐怖と言っても良いだろう、そんな感覚に一瞬足が止まりそうになった。
しかし、それでもなお、歩き続けなければいけないと言う気がしてどうしようも無かった。
どうして?これ以上進んではいけないと解っているのに―――頼子の頭の中ではこれ以上進む事への警鐘が鳴り響いていたのだが、自分でも解らない何かに引き込まれる感覚に、どうしてもうち勝つことが出来なかった。
ドンドンとこちらへ向かって歩いてくる男。
頼子は男が一歩近づくに連れて、さらに恐怖感がこみ上げてくるのを感じながらも、歩き続ける事しか出来なかった。
後少しですれ違う、あと5歩、4歩、3歩、2歩、1歩……頼子は息をのみ、恐怖の為にギュっと目をつぶってしまった。
すると、フッ―――と、無事にすれ違う感覚を横に感じ、安心して大きく息を吐いた。
良かった、何も無かったんだ―――頼子はほっとして気が抜けたのか、原稿を落としそうになったので持ち直そうとした……すると、右手がペンキでも付いたように真っ赤に染まっているのを見た。
イヤ!!
うっ―――はぁっ、はぁっ
頼子は自らのベッドの上に起きあがると、こみ上げてくる吐き気を押さえるのに苦労しなくてはならず、呼吸を整えるにもだいぶかかった。
一体、どうしたと言うのだろう……このところ、毎日のように同じ夢を見ている気がする。だけど、こうやって目が覚めてしまうと、起きた直後だと言うのにその記憶が断片的なモノになって思い出せない。
何か、何か怖いモノを見たような気はするのだけれども思い出せない。そしてそれ以上に怖いのが、自分の夢の中を誰かに見られている―――そんな感覚だった。
頼子はしばらく、自分のベッドから起きあがる気力さえ無くなっていた。
「夢って―――」
頼子は無意識に口に出していたらしい、一緒に珈琲を飲んでいた友達の貴子に
「夢がどうしたのよ?頼子」と、聞かれ
「え、何。なんか言った?」と、逆に聞き返してしまった。
「何よ頼子、自分で言ったんじゃない。夢がどうしたのよ」
「うん……なんだか最近ね、同じ夢ばかりを繰り返して見てるのよ」
頼子は、ここ最近に毎晩の様に見ている同じ内容の夢の事を考えていた。
「同じ夢って?」
「起きるとね、あんまり良く覚えてないんだけど……」
そう言いながら、最近続けて見ている夢のことを思い出そうとした。
「ふ〜やっぱりダメ、思い出そうとすると、追いつきそうで追いつけない陽炎の様に、記憶が逃げていくの」
「ふ〜ん、でも同じ夢なんだ」
「そうなの……なんだか怖い夢って事は覚えてるんだけど、細かい事は全く思い出せなくて」
そう、そうなのだ。同じ夢だと言うことは解っているのだ。怖い夢である事も。だけどそれ以上を思い出す事が出来ず、不安がふくらむばかりだ。
「でもね、何回か見ている内に、断片的にでも覚えている事もあるの……」
「そりゃぁ〜何回も見てれば覚えてるでしょうね。で、どんなこと?」
貴子は気軽に聞いていたのだろう、しかし、頼子にはどうしてもその夢の中の事が、まるで実際にあった事の様に感じられて嫌だった。
「ナイフと男……」
頼子は断片的に覚えている事を口に出していた。
「それって?」
「解らない。解らないけど―――とても怖いのよ」
頼子は見えない闇に捕らわれてしまいそうで、とても怖かった……
クックッ……
そうだよ頼子……君はもっと悩むんだ……。一歩一歩近づいてくる恐怖に、君はどんな顔をしてくれるんだい?
クックッ……
たまらないよ……頼子
男の頭の中は自分の妄想でいっぱいだった。そしてその妄想の中で、頼子が恐怖に歪む顔がハッキリと見て取れるのか、闇の奥底から聞こえてくるような、そんな喜びの声を心の中であげるのだった。
男がこの夢を見だしたのはいつだっただろう……それ程昔の事ではなかったハズだ。
それに、見始めた時は頼子の事も知らなかったし、夢の中に登場する場所も解らなかった。しかし、たまたま入った喫茶店で頼子を見つけ、仕事で偶然に通りかかった場所を見て確信したのだ。
俺は夢の通りにしなければならないんだ!―――男はそう思い込むのに時間はいらなかった。それからと言うもの、男は、夢の中と確実に同じ様にしなければならないと、ナイフも買ったしコートも用意した。
準備は出来たのだ。
「後は、時を待つだけだ」―――男の顔がまた、醜く歪んだ。
クックッ―――頼子、待ってるよ
その男は頼子達よりも先に、同じ喫茶店を出ていった。
その日も頼子は、あの夢のせいで目覚めの悪い朝を迎えていた。
なんだか、ドンドンと夢が強くなっていく気がする―――頼子は夢の中で感じられる薄気味の悪い意志の様なモノが、日に日に増している気がした。
しかし、それでも細かい部分が思い出せない。
ナイフと男……それすらもうっすらとした印象しか無かった。
「会社に……行かなきゃ」
頼子は悪夢を振り払うかのように頭を振り、何とかベッドから起き出した。
「おい相田!」
「はい」
こちらの方を見ずに「ちょっと来い」と言った手招きするだけの男のところまで、頼子はゴミゴミとした通路を苦労して進むと
「なんですか編集長?」と、聞いた。
頼子は都内の出版社で編集の仕事をしていたのだが、会社の中はいつもゴミゴミとしていて歩くのも苦労する。
「ここに原稿を取りに行け」
と、頼子は、相手との待ち合わせの場所の住所と電話番号、そして相手の名前が書いてあるメモ用紙を渡された。
見れば、編集長はもう用は無いと言った風に、手で追い払うポーズをしている。
この編集長は、人にモノを頼むのに絶対に頭を下げない事で有名で、頼子も仕事の事なら文句は言わないのだが、たまに私用での頼み事でも全く頭を下げないことがあって嫌いだった。
しかも、自分の命令に対して質問される事を嫌っていて、つい「どうしてですか?」などと聞こうものなら、「仕事に決まってるだろ!」などと文句が飛んでくる。だから、今では編集部の誰もが聞き返さない様になっていた。
頼子も、このメモを見て余計なことを聞こうなどとは思わなかった。
「この住所だと……初めての場所ね。地図で調べないと解らないわ……」
最近疲れる事が多い頼子は、これ以上編集長のご機嫌を損ねて無駄な体力を使いたく無かったので、早速地図のページをめくるのだった。
当初、待ち合わせが全く初めて行く場所でしかもどこだかのマンションの一室だので、多少迷っても良いようにと早めに出てきたのだが、案外簡単に見つける事が出来た。
いや、その場所が、駅を出てからほとんど真っ直ぐに歩いた所にあったので、迷いようが無かったと言った方が正確だったのだが。
だけど……本当に私はここに来るのが初めてだろうか?―――頼子は指定された場所へと向かう途中、ふと、どこかで見たことのあるような気がし、そしてなんだかイヤな感覚に捕らわれていた。
そう、どこかで一度、この道を通っている様な……そんな気がしてならないのだ。
頼子は、魚の骨がのどに引っかかっているかのようなもどかしさと共に、どこか、頭の隅の方で危険を告げている気がする。
とは言えこれは仕事だ―――頼子は不安を振り切る為に自分に言い聞かせると、足取りは重くなるばかりだが待ち合わせの場所へと向かって歩き出すのだった。
「すいませんね、わざわざ原稿を取りに来てもらって。どうしても今日中に渡さなければならなかったので」
そう言うと男は「どうぞ」と言って、珈琲を出してくれた。
横柄な編集長と違い、物腰の柔らかい丁寧な男だったので頼子はありがたい。
「それじゃ、この原稿を編集長へ渡して下さい」
男は、そう言うと原稿の入った厚い封筒を差し出してきた。そんな時にも申し訳なさそうな顔をしている。
会社からしてみると、この男には頭を下げてでも原稿をもらいたい相手だったので、どんなに横柄な態度をとられても全く文句を言えなかったのだが、生来の性格なのか、この男はあくまでも対等な関係を保っている。
仕事を始めたばかりのライターはそれこそ腰の低い者が多いのだが、人気が出始め、それが売れっ子作家になると、ここまで変われるのか?と思いたくなるくらいに態度が変わる人がいる。
そんな人間を数多く見てきた頼子にとって、この男は希有な存在に思えた。
こういう人の為なら、こちらとしても気持ちよく仕事が出来る―――頼子はそう思いつつ
「はい。お預かりします」
と言って、笑顔で封筒を受け取ろうと手を伸ばした―――瞬間、頼子の頭の中に「受け取ってはいけない!」と言う意識が走り抜けた。
ガチャン!
「す、すいません」
頼子は無意識のうちに原稿から手を引っ込め、珈琲のカップの上に落としてしまった。
「おっと、大丈夫ですか? 珈琲が洋服に付きませんでしたか?」
男は直ぐに封筒を取り上げると、中身の事よりも頼子の事を気遣った。
「い、いえ、こちらこそすいません。原稿の方は大丈夫ですか?」
「ええ、原稿は別に濡れても構わないんですよ。それよりも、気分でも悪いんじゃないですか?顔色が……」
頼子の顔色は、男が指摘したように悪かった。
「だ、大丈夫です」
頼子はかろうじてそう答えたが、その不安は消えて無くなるばかりか、益々酷くなるばかりである。
「本当に大丈夫ですか?なんだかさっきよりも酷く……」
「いえ、本当に」
「……そうですか」男はまだ心配そうに頼子を見ていたが「それじゃあ、封筒を入れ替えますね」と言って、奥の部屋へ原稿を入れ替えに行った。
どうして?―――頼子は自分でも解らなかったが、あの原稿を受け取ろうとした瞬間、自分がこの原稿を受け取ってはいけないと言う思いにかられた。
私はこれからどうなってしまうの?
頼子の頭の中は、どうしようもない黒い霧に覆われる気がしてドンドンと気分が悪くなっていった……
「それじゃ、これを」
「はい確かに……」
頼子は新しい封筒へ入れ直してくれた原稿を、今度はしっかりと受け取ると、不安にかられながらも
「それでは私はこれで失礼させていただきます」と言って、立ち上がった。
すると、男の方が「あ、これから私も駅に向かうんです。ご一緒しましょう」と、腰を上げた。
「はい!」
頼子はそんな男の申し出に、何故だかしらないが救いのようなモノを感じ取り、自然、声が高くなる。
「じゃ、行きましょう」
男は上着を手にすると、頼子と共に玄関へと向かうのだった。
その男は今日と言う日を、一日千秋の思いで待ちわびていた。
唇をゆがめる様にして男は―――クックッとのどを鳴らす。
もう少し、もう少しで夢の中と同じ事をしてあげられるんだ……そうだよ、頼子だって思ってるハズさ、きっと夢と同じ様になりたいってさぁ。
男はコートのポケットに手を入れると、革のケースに入った堅いモノの感触を確かめていた。
後少しだよ頼子……君がここを歩いてくれば、後少しで夢の中と同じになれるんだ。一緒に達成感を味わおうじゃないか
男が自己陶酔に浸たりながら、頼子がやってくるのを待ちかまえていた。
すると、その男の濁った瞳に鈍い光が揺らめいた。
「来た!……頼子、待ってたよ……」
男は自らの夢が実現するのだと思い、食い入るように頼子の姿を見つめた…… が、そこに夢とは違うものを見つけると、失望と怒りの表情に変わった。 頼子の隣には、夢の中には居なかった男の姿があったからだ。
「違う!違うじゃないか頼子!!」
と、男は狂った様に心の中で叫んだ。
どうしてだ!どうして夢と違うことをするんだ頼子!
男は、自らの夢を汚されたことを知った。
何故君はボクの夢を壊すんだ!君自身の夢でもあるんだ、それなのに……
強引にやるか?―――男は怒り狂う心のままに、どうしても夢を完結させたいと思った。
頼子の恐怖に歪んだ顔が見たい―――ただただそれだけを思う男に理性が残っているハズはなかったのだ。しかし、そうだよ、もっともっと頼子の恐怖に歪む顔を見ようじゃないか―――男はある事を思いついていた。
そうだよ、もっと頼子を恐怖のどん底に落とすんだ。
そう、すれ違いざまに声を掛けてやるんだ……「夢と違うじゃ無いか」ってね ……
その時頼子は気が付くはずさ、俺が夢の執行者だって事が……そして恐怖に顔をゆがめるのさ、そうさ、今回はその為にあったんだ。
男はもう、迷わなかった。
ドンドンと近づいてくる頼子を、ビルとビルの隙間に身を潜めながら待ち、もう少しと言う所まで来たときに、そこから出て歩み始めた。
クックッ、頼子は俺に気が付いたか? でもダメさ、君はそのあゆみを止める事は出来ないんだ……後少し、後少しで君とすれ違うんだよ……そしてボクは―――
「夢と違うじゃ無いか……」
その男はすれ違う瞬間、頼子の耳元にささやいた。
さあ、どんな表情を見せてくれるんだ!!
恐怖に歪んだその顔を……さぁ見せておくれ
男は今までに無い興奮を感じながら、頼子の表情を伺おうとした。
―――!!
がしかし、その男は今日二度目の裏切りを知った。
「何故だ! 何故お前は笑っている!!」
そう、頼子は口元をゆがめ、笑っていたのである。
「どうしたっていうんだ、これじゃ本当に夢と違うじゃ無いか!!」
その男は期待を裏切られたと言うよりも、頼子のその表情に『自らが』恐怖を感じて声が高くなっていた。
そして、いつの間にか頼子の隣にいた男までもが消えて無くなっていた事が、さらに恐怖感を煽っていた。
「あなたの夢は……いつもここまでで終わっていたものね……」
頼子の表情が妖しく輝いていく。
「でもね、私の夢には続きがあるの……」
「つ、続きだと!」
「そう、そうよ……そして悲しいけれど、私はその夢を完結させなければならないわ。だって、あなたもそう望んでるんでしょ?」
いよいよ頼子の表情が、妖しく、そしてエロティックなモノさえ感じられるものへと変化すると、男は耐えられない程の恐怖に呼吸が早くなった。
「そんな馬鹿な!」
「ふふっ、これがあの夢の結末よ」
言葉が直接脳へと響いて来るようだ―――男はそう感じながら、頼子の手に握られているモノを信じられない表情で見つめていた。
それは、自分が用意したナイフだった。
「さあ、夢を完結させましょう」
頼子の最後の言葉を、自らの腹に吸い込まれていくナイフと共に聞いていた。
それはまるで、映画か何かのスローモーションの様にゆっくりとしたものに感じられる瞬間だった。
鋭い刃物なのか、ナイフが食い込んでいる間はあまり血と言うモノが出なかったが、引き抜かれた瞬間、溢れる様に吹きす血をその男はどうすることも出来ずに眺めていたのだ。
「なんだよ……そんなに血が出たら死んじゃうじゃないか」
男はつぶやきながら、冷えたコンクリートへと膝から崩れる様にして倒れ込む。
「冷たいじゃ……」
薄れ行く意識の中、男はコンクリートの冷たさを感じつつ、最後に頼子の笑い声を聞いた気がした。
フフッ―――
男がこの先にどんな夢を見るのか……それは誰も知りえない。
短い文章量で、どれだけ雰囲気を伝えられるのか―――を元に、随分昔に書いたものなのですが、今回載せてみました。
初めに書いたのが1998年と言う事なので、随分古いですね……。
ちょっとした恐怖―――そんな感じで書いたのですが、読んでいただければ幸いです。