電車が来るまで
プールに行かなくなったのはいつからだったか。
ふとした瞬間、駅のホームに降り立った時に夏子は思った。
高校で引退してから――と思いつつ、指折り数えると両手で足りるほどしか行っていない。1年前は毎日飽きるほど通いつめた生活を送っていたのに、水泳一直線の生活は砂漠の砂のように呆気なくさらさらと崩れ去り、後には何も残さなかった。あれほど悩んでいたゴーグル焼けや不格好なほどの広い肩幅もない。今では白い肌と標準並みの肩幅だけがあるばかりだった。
ふ、と溜め息をつくとほんのりと口許の空気が白く濁り、夏子は少しばかり恥ずかしくなって慌ててマフラーに顎を埋めた。
寒いのは苦手だ。友達にそれを言うと、決まって「名前に夏が入ってるからね」と言われる。確かに私は夏の日が燦々と照る暑い日に産まれたから、シンプルに夏に産まれた子として「夏子」と名付けられ、その通り暑さは部活のせいでもあるかもしれないが得意な方だと思っている。秋や春もそれぞれにそれぞれに楽しい過ごし方があると思う。しかし、夏子は冬だけは受け入れがたく、毎年秋の暖かさが無くなり、雪が舞い始めると鬱々とし始めた。植物のきらきらとした生がスイッチを切ったように消え失せ、足元にはじわりじわりと突き刺さる残酷とも思える寒さ。一面の雪景色は見慣れたこの世界がやたら他人行儀で、自分だけ置いてきぼりにされたような気分にされる。
そしてなにより――と思いつつ、ためらいがちにゆっくり空気を吸い込んだ。冷たい空気が肺に入り、肺の隅々まで沁みて肺の形を浮かび上がらせる。そう、この空気。心の端に気付かれないように置いていたものまでこの冷たい空気は暴いて悲しさ、淋しさを自分のもとにすべてをさらけ出す。
会いたい。
声にならない声が白い息となってマフラーの間から漏れた。ふ、と空気を吸い込むと夏子はゆっくり目を閉じた。
あの暑い夏をもう一度過ごしたい。一番幸せと思えたあの夏を。
夏子はプールにそっと潜り、プールの中から見える青空や、遠くに水の流れや楽しそうな声の聞こえる、微妙な静寂が好きだ。
プールで泳ぐとちりちりと塩素が体に染み入っていき、練習の心地よい疲労感で充実感に満たされる。それと同時に、あの楽しかった日々を思い出してたまに一人でプールで泳ぐ度に毎に悲しさが募る。
抑揚の無いアナウンスが電車の訪れを告げた。それと同時にゆっくりとぼんやりとした日が差し始め、とうとう電車がホームへと滑り込んだ。
夏子はようやくマフラーから顔を出して電車を見つめ、そうだ、今日も授業があるんだった、と思い出す。
こうして再び春が来ようとしていた。
夏子は大学に行ってそこそこ楽しい大学生活を送るでしょう
ふとした瞬間、思い出すだけ。
いつかまた会えると信じて。