対向車
掲載日:2026/10/03
狭い道で、対向車が来た。
男は、少しだけ反対側にふくらんだ。
「なんで俺ばっかり避けなきゃいけないんだ」
対向車が慌ててハンドルを切った。
電話では、男は小さな声で話した。
「え? 聞こえない?」
「そっちが音量を上げればいいだろ」
「こっちは精一杯、大きい声で話しているんだ」
そして、さらに小声で話した。
ある夜、男は豪華客船に乗っていた。
突然、船が氷山にぶつかった。
船は沈み、大勢の乗客とともに男は暗い海へ投げ出された。
冷たい海だった。
手足の感覚が、少しずつなくなっていった。
やがて、救助船が来た。
救助隊員が、海に漂う乗客たちへ手を伸ばした。
無数の手が、その手に伸びた。
救助隊員が男を見つけた。
「手を!」
男は手を伸ばした。
あと少しだった。
男は、さらに身を乗り出した。
救助隊員の手が、男の指先に触れた。
男は、ほんの少し手を引いた。
――俺ばっかり伸ばすのは、おかしいだろ。
かじかんだ手が、お互いの手をつかむことはなかった。
次の瞬間、別の乗客の手が救助隊員の手をつかんだ。
男の手は、そのまま冷たい海へ落ちて、二度と浮かび上がらなかった。




