家政婦現る
第1章「家政婦、現る」
田中ののが自分の部屋のドアを開けるたびに、微妙に気が重くなるようになったのは、いつ頃からだろう。
シンク横に積まれた食器、床に脱ぎっぱなしのパーカー、テーブルの上のコンビニ袋。「あとで片付ける」と言い続けた結果が、今このリビングに結晶している。
十月の繁忙期。営業事務の田中ののは、毎朝七時に家を出て、帰りは夜の十時を過ぎる。それが三週間続いていた。
別に、散らかっていても死にはしない。
でも、ある朝、洗う食器がなくてインスタントラーメンを鍋から直接すすったとき、さすがに「これはまずい」と思った。人として、ではなく、ラーメンが文字どおり不味かった。
その日の昼休み、スマートフォンで「家政婦 派遣 世田谷」と検索した。
ヒットしたのは「ハッピーホーム」という会社だった。
◇ ◇ ◇
電話口のオペレーターは、やたらと丁寧だった。
「ご要望に合わせた、最適なスタッフをご紹介いたします。ご安心ください」
「一週間だけでいいんですけど。料理と掃除ができれば」
「もちろんでございます。明後日の午前十時にいかがでしょうか」
のの は「はい」と答えた。
スタッフの名前を教えてもらったとき、メモに「W.H.Gates」と書いた。
(……ゲイツさん? 外国の方かな)
まあ、掃除ができれば国籍は関係ない。
のの はメモをポケットに突っ込み、午後の仕事に戻った。
◇ ◇ ◇
二日後、午前十時ちょうど。
インターフォンが鳴った。
のの がモニターをのぞくと、そこに映っていたのは、細身で背の高い老人だった。丸眼鏡。白髪。ストライプのスリーピーススーツ。チーフまで胸ポケットに入っている。
(……家政婦さん?)
のの は首をかしげながら、ドアを開けた。
「田中のの様でいらっしゃいますか」
男は穏やかな声で言った。日本語は流暢だった。ただ、なにか微妙にズレている。機械翻訳を人間が読み上げているような、不思議な正確さがあった。
「はい、そうです。ゲイツさん?」
「ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ三世と申します。本日よりお世話になります」
フルネームで名乗る家政婦さん、初めて見た。
のの は「よろしくお願いします」と言いながら、男を部屋に通した。
◇ ◇ ◇
玄関に入った瞬間、ゲイツさんの動きが止まった。
正確には、止まったのではなく——何かを計算し始めたような顔になった、という表現が近い。眼鏡の奥の目が、すっと細くなる。
「拝見してもよろしいでしょうか」
「え、あ、どうぞ」
ゲイツさんはゆっくりとリビングを歩き回った。キッチンをのぞき、洗面所を確認し、廊下の長さを目測するように数秒立ち止まる。
のの は玄関先でその様子を眺めながら、なんとなく自分が面接を受けているような気分になった。
「一点、確認させてください」
「は、はい」
「現在の掃除機の使用パターンはどのようなものですか」
「……パターン?」
「どのルートで、どの順番で、週に何回かけていらっしゃいますか」
のの は三秒考えた。
「……思い出したときに、なんとなく」
「なるほど」
ゲイツさんは手帳を取り出し、なにかを書き始めた。
(なんか……怖い)
◇ ◇ ◇
ゲイツさんは仕事が早かった。
のの が着替えて戻ってくると、シンクの食器はすべて洗われ、テーブルの上が空になっていた。所要時間、二十二分。
「すごい」と思わず言うと、ゲイツさんは振り向いて「ありがとうございます。ただ」と続けた。
「ただ?」
「掃除機のルートを最適化すれば、現在の所要時間を三十七パーセント短縮できます」
「……は?」
ゲイツさんはすでに手帳を広げていた。リビングの簡易的な見取り図が描かれている。矢印がいくつも走っていた。
「現在の間取りを考慮すると、南西の角から反時計回りに進むルートが最短です。また、掃除機のヘッドの幅から計算すると、一往復あたりの有効面積は——」
「ちょ、ちょっと待ってください」
のの はゲイツさんの手帳を両手でそっと閉じた。
「ゲイツさん、うちは普通の一人暮らしの部屋です。最適化とか、パーセントとか、そういうのはいらないので」
「……より効率的な方法があります」
「普通にかけてもらえれば十分です」
ゲイツさんはしばらくのの を見つめた。どこか、「解けない方程式を前にした数学者」みたいな顔だった。
「普通、とは何でしょうか」
「えっ」
「『普通』という言葉は定義が曖昧です。何をもって普通と——」
「右から左に向かって、一往復でいいです!」
ゲイツさんは一秒間静止したあと、「了解いたしました」と言って掃除機を取り出した。
のの は額に手を当てながら、仕事へ行く準備を続けた。
◇ ◇ ◇
夜、帰宅するとリビングは別の部屋のようだった。
床が見える。テーブルが見える。シンクが輝いている。冷蔵庫の前には買い物の控えメモが貼ってあって、「消費期限切れの食品リスト(廃棄済み):計七点」と書かれていた。
のの は冷蔵庫を開けた。きれいに整理された野菜と、新しい食材が並んでいる。
ゲイツさんは帰り際、玄関で「明日の夕食の食材は購入済みです。冷蔵庫の上段左に配置しました」とだけ言った。
「……ありがとうございます」
「お役に立てれば幸いです」
ゲイツさんは頭を下げて、マンションの廊下へ消えた。
のの は閉まったドアを眺めて、深呼吸した。
(変な人だ。すごく変な人だ。でも……部屋がきれいだ)
まあ、一週間だけ様子見よう。
のの はソファに座って、缶チューハイを開けた。テーブルに足を乗せようとして——テーブルがきれいすぎて、なんとなく乗せられなかった。
それが少し、悔しかった。




