第41話 美しい夢 8
この話には残酷表現があります。苦手な方はお気をつけください。
彼女の震えが手から伝わり自分の手も震える。否、自分の手が震えているのか最早区別がつかない。
彼女にとって最も残酷で、絶望をもたらす光景を見せないように顔を手で覆い胸に抱き込むとリュシエンヌの身体から力が抜けた。気を失ってなお、重みを感じない細い身体にリュファスは苦しくなった。
「クソッ……!」
絶えられるはずがない。このような残酷な場面を見せられたのだ。
魔族の鋭利な爪によって裂かれ肉片が周囲に飛び散っている。傷口からとめどなく流れ出る鮮血が彼が生きていたときから嬲られていたことを思い知らされる。
地に伏すレイナルドの姿を見てリュファスは唇を噛み締めた。目の前が赤く染まる。ブチリと音がして唇が裂けたのを感じたが、痛みはなかった。
魔族に対して目眩がしそうなほどの憎悪が涌き出る。
(憎悪に身を染めるな。人ではなくなるぞ)
リュファスの中で急激に膨れ上がる憎悪を感じとった剣が警告する。
しかし、そう言われてもリュファスはなかなか憎悪を静めることができない。突如心の中で膨れ上がった憎悪はリュファスの理性を容易く焼き、ただの獣に変えていく。
――憎い。
その感情に全てを委ねようとしたその時、
(そのような姿を騎士達に見せる気か?)
天から降る雷鳴の如く、頭の中に響き渡った声にリュファスは我に返る。剣とは違う中性的な声だった。
(冷静さも保てない人間が団長人を導く標となろうというのか?)
脳天を貫くような厳しい声は何の感情も込もっていなかった。だからこそ、リュファスは冷静を取り戻した。
沸騰しそうだった頭の熱が驚くほど早く冷めていく。
我に返ると周りの様子が見えてくる。
レイナルドの惨状を見て取り乱す声、恐怖に慄く声、悲しみに暮れる声、怒りを露わにする声。どれも先ほどまでのリュファスのように冷静さを欠いていた。
リュシエンヌを抱えなおし、猫の姿をした魔族を改めて見る。
猫のような愛らしい姿をしているが、光の剣を得た今のリュファスはその真性を感覚で理解する。
まるで沼の底のような暗く淀んだ闇。そこに美しいものなど一片たりともありはせず、幾重にも暗い澱が積み重なり、猫の薄い皮を押し上げている。
恐ろしく強大な闇が猫の皮の毛穴から絶え間なく噴出している。こうして対峙しているだけでも張詰めた空気に多大な緊張を強いられる。
騎士の視線を感じながらも、闇の化け物は嬉々としてレイナルドの身体を侮辱する。
レイナルドの有様を見て絶望する騎士の声。
挫けてしまいそうな自分を奮い立たせるために彼女の手を握りしめた。暖かな体温に安らぎを覚えながら、後ろに控えていた部下に声をかける。
「ギデオン、彼女を」
「はっ」
直属の上司であるレイナルドの死に直面し、リュファスと同じく腸が煮えくり返っているだろうギデオンは、それでも表情を崩さず静かにリュシエンヌを受け取り、下がった。
リュファスは先ほどから声を発しない剣に発破をかけるために柄を強く握り締め、魔族を睨み付けた。
騎士たちを押しのけてリュファスの横に立ったジェルマンは現状を見ると吐息のような溜息を吐いた。
「これはまずいな」
ジェルマンが髭をさすりながら言った。飄々とした態度の奥に潜む焦りと苛立ち、そして怒りがレイナルドに向ける視線に含まれている。
リュファスはすらりと剣を鞘から抜く。大勢の騎士に囲まれていても反応せず愉しげに死を冒涜していた魔族が動きを止めた。
リュファスを見て、そして常に淡い輝きを放っている剣を見て目を細める。
裂けるように口が開き、そこから透き通るような美しい声が漏れる。
「聖剣か、忌々しいね」
周囲が猫が喋っていると理解したと同時に猫の輪郭は揺らぎ、人によく似た姿になった。
再び騎士がざわめく。しかし、それは恐れからくるざわめきではないだろうことはわかった。
濡れたように艶のある黒い髪がしっとりと白い首に張り付き色めいており、妖しい光を灯す双眸は人間が普段抑え込んでいる欲を引きずり出すように無防備で妖艶だった。
その中性的な容姿は男女関係なく魅了し、誘惑するような色気を纏わせている。
人型に変化した魔族はリュファスたちを挑発するようにレイナルドの身体の上に腰掛けた。その重みでレイナルドの体はひしゃげる。
全身の血の気が引き、耳鳴りがする。
(落ち着け)
静かな憎悪がリュファスの身を焦がす。
(落ち着け)
どうしたら良いかわからず、赤く染まった剣の柄を更に固く握る。
粗ぶる呼吸を整えるためにゆっくりと息を吐く。
魔族と目が合うと深い闇の中に引きずり込まれそうになる。様子を伺っていた剣がリュファスに警告する。
(気をつけろ、奴は深淵から出でし暗きもの。並みの魔族ではない)
言われなくても、並みの魔族でないことはわかっている。
魔族に全神経を集中させるリュファスに対して余裕の笑みを浮かべる魔族の視線が交差する。
睨み合いが続くと思われたとき、
「リュファス・ブランヴィル! 何故動かないんだ?」
いつの間にか傍らに出てきた騎士がリュファスを蔑むように睨み付けた。
第6部隊副部隊長ジブリル・バロー、この男にはリュファスが聖騎士となってからずっと敵意ばかり向けてくる男だった。何かにつけてリュファスを批判し、聖騎士に相応しくないと糾弾する。
リュファスは魔族から視線を外さず、歪に笑う。自嘲の笑みだった。
勝手なことを言う。
この男はこの魔族の危険さを理解していないのだろうか。下手に攻撃すれば自分は一瞬で滅されるだろう。愉しそうにレイナルドの身体を侮辱しているが、自分たちのどんな機微も逃さないように神経の糸を魔族は張り巡らせている。それはリュファスを貫き、すでにこの場にいる人間全ては魔族の手の中にいる。
その身に受けてみるがいい、濃密すぎる負の感情を。視線を向けられるだけで、絶望を感じる。
リュファスの笑みを侮辱ととったジブリルは怒りで顔を赤くし、憎しみに満ちた眼差しを向けた。
「貴様が動かないなら俺が動く!」
ジブリルが剣を抜いた。それに習ってジブリルの部下である第6部隊員たちも剣を抜く。
太陽を反射し、大量に煌く剣の光に魔族は眩しそうに目を細めた。
リュファスはジブリルの行動に驚愕し、止めようとする。
「やめっ……」
「今だ! 突撃」
怒号が響き渡ったと理解したとき、数人の騎士たちは走り出していた。
リュファスに不満を持っていた者たちだと気付くが、時は既に遅かった。
座り込む魔族目掛けて無数の剣が向かう。
「下がれっ!」
咄嗟に怒鳴ったが、押し寄せるように魔族へ向かっていく騎士たちを止めることができなかった。
無数の殺気を向けられた魔族は、にやりと笑みを浮かべると手を軽く前に突き出した。
「うぇ……?」
ひとりの騎士が気の抜けた声を出す。その騎士の下半身は無くなっていた。
掌から放たれた闇の刃が騎士たちを貫いていく。真っ二つになる身体、吹き出る血液、撒き散らされる手足や臓物。
まさに、阿鼻叫喚だった。
「う、うあああああっ!」
騎士たちを扇動したジブリルは最初に魔族の闇の刃を出す衝撃によって吹き飛ばされて転び、傷を負いつつも生きていた。
しかし、仲間たちに起こる惨劇を見て腰砕けになり、無様に尻を地面に付けたまま後ずさる。
「リュファスっ!」
ジェルマンの怒号でリュファスは動いた。
騎士の間から抜け出したジェルマンが、腰が抜け立てないジブリルの襟首を掴み乱暴に後方へ引きずり倒す。
リュファスは剣を構え、魔族の前に躍り出た。魔族の意識を自分だけに向けるために。
「息がある者の保護を最優先にしろ!」
リュファスの命を守り後方で待機していた騎士たちに怒鳴った。そしてリュファスは騎士たちが行動できるように自ら魔族と対峙する。
「人間風情が」
「その人間風情に傷を負わされておいて何を言っている」
猫の姿のときはわからなかったが、その肌には幾重もの筋が走っている。痛みはなさそうだが、回復していないところを見ると浅い傷ではないようだ。
レイナルドは充分過ぎるほどの恩恵を遺してくれた。
孤独だっただろう、想像を絶する恐怖であっただろう。たったひとりでこの魔族を相手にしたのだ。
ひとりで魔族と対峙するその姿を想像し、悔しくなった。
ジェルマンが投げナイフを魔族に向ける。
ナイフが目にも留まらない速さで魔族に一直線に向かう。それを軽く結界で弾こうとした魔族だったが高度な聖なる呪を刻んである刃は、結界に浅く亀裂を入れた。同じ場所を縫うように放たれた二つ目のナイフが結界を砕き、三つ目のナイフが魔族を的確に狙い飛ぶ。
魔族は三つ目のナイフを舌打ちをして手で振り払う。
そしてそのナイフの軌道を辿り、ジェルマンを見ると唇を歪め、闇の刃をしならせた。
手から鋭く放たれたそれは構えていたジェルマンの大剣を折り、そのまま肩から腹まで引き裂いた。真っ赤な血が勢いよく吹き出し、呻き声を上げジェルマンが片膝を付いた。
魔族がジェルマンに気をとられた一瞬の隙を逃さずリュファスは全身で跳躍させ魔族の懐に飛び込んだ。
光の剣を心臓に突き刺そうとしたが、周囲に頑丈な結界を張っており、弾かれた。しかし、逸れたままその勢いで鳩尾に剣を捩じ込んだ。致命傷にならなくとも傷を付けられればよかった。
剣の聖なる輝きに内側から身を焼かれ、魔族が目を見開く。
「がっああああ」
喉の奥から絞り出すように絶叫する。
「おのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれェっ!」
塵のように見ていた人間に大きな傷を負わされ、矜持を傷付けられたのか、魔族は憤怒に染まった顔でリュファスを睨み付ける。
目は血走り、先程までの優美な雰囲気など微塵もなかった。身体から剣を生やしたまま、魔族はリュファスの腹に手を翳す。
しまった、と思ったときにはリュファスは木に身体を強かに打ちつけられていた。腹が異常に熱い。
掠れる視界に魔族を捉えると剣には触れずに身体から抜き去っていた。地面に落ちた剣を踏みつけると舌打ちをする。
「折れないのが忌々しいな」
光の剣を踏んでいる魔族の足から何かが焼けるような音がする。
「聖なる騎士、覚えてろよ。いずれ貴様の内臓を引きずり出してやるから」
そう言い残し、魔族は大地を蹴り、姿をかき消した。
残ったのは作られてしまった惨状。
飛び交う怒号、悲鳴、呻き声、いつかに見た地獄絵図が目の前で繰り広げられている。
それらを横目に見ながら、リュファスは力なく目を閉じた。