第40話 美しい夢 7
この話では多少の残酷表現があります。苦手な方はお気を付けください。
母から貰った青い石をなくしてしまったと言ったら従兄はなんて言うだろうか。あんなにも手放してはいけないと口酸っぱく言われていたのに。
哀しい気持ちになりながらリュシエンヌはぼろぼろになった手で草をかき分ける。爪には土が入り、皮が剥け血が滲んでいる。それすらも気にならないほど必死に探した。
それでも目的の物は見付からない。思わず涙がこぼれそうになってリュシエンヌは唇を噛み締めた。
青い石は母から貰った最後の宝物だった。
いつもと変わらない日常の最中、長期の旅行から帰ってきた母はリュシエンヌの首にそっとかけてくれた。
「肌身離さず持っていなさい」
普段リュシエンヌがどんな悪戯をしてもいつも明るく微笑んでいる母の真剣で厳しい表情を初めて見たリュシエンヌは、その雰囲気に呑まれ、幼いながらもしっかりと頷き、約束した。
今はその約束を破っている。その事実に焦燥感が湧いてくる。
そういえば、確かそのときに従兄も母から赤い石を貰っていたことを思い出す。それは普段従兄が懐にしまっているので見る機会がなく忘れていたが、それを愛おしそうに撫でているのを見たことがある。きっと従兄も母に思いを馳せていたのだろう。
そんな従兄の姿を思い出し、なお自分の石を見付けたいと思った。
日も傾き、木の下では自分の手元も見えなくなるほど視界が悪くなったことで仕方なく捜索を中断したリュシエンヌは、今度は湖の中も探してみようと心に決め、家へと続く道を歩き始めた。
本格的に日が暮れ始める。林の中でひとり歩くと孤独感がよりいっそう感じられた。
がさりと近くの木が揺れる。動物だろうかと思い音がした方に顔を向けたリュシエンヌは突如現れた人影に驚き「ぎゃっ」と叫んで尻餅をついた。
しかし、その影を見てリュシエンヌは驚愕で目を見開いた。信じられないという思いを込めて呟く。
「お、父さん?」
それはやつれて青白くなり幽鬼のようにそこに佇んでいたが、確かに自分の父親だった。記憶とは全く違う姿、しかし面影は残しており半信半疑でリュシエンヌは父らしき人物を呼んだ。
父らしき人はリュシエンヌに気付くと近寄ろうとするが足がもつれ、そのまま倒れこんでくる。
慌てて立ち上がり支えようとしたリュシエンヌだったが、支えきれずに再び尻餅をついた。今度はふたり分の体重が尻にかかり、痛みにリュシエンヌは悶絶する。
落ち窪んだ目がぎょろりと動きリュシエンヌを見据える。
「リュシエンヌ……か?」
枯れ果てた声が問いかける。聞き慣れたその声に安堵の涙が出そうになりながらリュシエンヌは応えた。
「うん、そうだよ。お父さん」
どうやら体力が尽きてしまい動けなくなった父は木に凭れ、力なく座り込んだ。傍らに寄り添ったリュシエンヌの目には既に指さえも動かすことができないように見えた。
虚ろな目をリュシエンヌに向けて父は悲しげな顔をした。
「ずっとひとりにさせて、すまなかったな」
水分が失われたようなしわがれた声にリュシエンヌはぐっと唇を噛み締めた。
「大丈夫、ときどきレイナルド兄様が来てくれてたから」
そして今はリュファスもいる。
「そうか」と安心したように微笑み、父は目を伏せた。
「お前に話したいことはたくさんある……だが時間がない」
向けられた静謐な眼差しにリュシエンヌは不安を抱いた。
「俺たちはあいつになにもかも奪われた」
「あいつ?」
魔族、囁くような声だったが、静かな森の中で不気味に木霊した。
「あの日、突如魔族が襲って来たんだ」
リュシエンヌには父が言うあの日がいつを指さしているかわからなかった。しかし、何も言わずに父の言葉に耳を傾ける。
「襲い来る奴を石で引き寄せ、部屋に閉じ込めたが、奴にとってはただの悪あがきにか過ぎなかったんだ」
そう言って父は懐から緑色の石を出す。それを見てリュシエンヌははっとした。自分たちが持っている石に似ているのだ。
「俺は自分という格好の餌を奴に与えてしまった。この数年ずっと奴に内側から食われていった……死なないように嬲られ続けた。俺が苦しむのを見て笑い……奴は人間をまるで人形遊びをするかのように遊んでいたんだ。リゼットを引き裂いたときだって笑っていた」
母の名を呼び父は目を押さえ、嗚咽を洩らす。
一方リュシエンヌは初めて聞かされた母の死に動揺していた。
母がいなくなったあの日、魔族が現れて母は殺されていたのだという。
父は咄嗟に吸魔の石を使って引き寄せ部屋に結界を張ったらしい。その日からからずっと部屋で魔族を封じていた。自分の知らないところで起こっていた出来事にリュシエンヌは衝撃を受けた。
もしかしたらレイナルドは父のことも、母のことも知っていたのだろうか。悲しみもあったが、もしそうならばレイナルドを問いつめたい気持ちになる。
「死ぬまで地獄が続くかと思ったが、つい先ほどあいつは何かに気付いたように結界をいとも簡単に破り外へと飛び出して行った」
虚ろな目はもうリュシエンヌを映していながら見てはいなかった。
「何故出ていったのかはわからない……だが、まだ大丈夫だ。アレがあるかぎり奴はお前には気付かない」
父はリュシエンヌを抱き締める。昔、リュシエンヌを持ち上げてくれた父の力強さなど微塵も感じられず、リュシエンヌは悲しくなった。
弱い鼓動が更に弱まっていく。
「何もしてやれなくてすまなかった」
リュシエンヌは咄嗟に首を横に振る。
「ううん、お父さんは私の知らないところで守っていてくれたから」
そうか、と父は安心したように微笑んだ。
「お前の飯だけが心の支えだった。ありがとう」
リュシエンヌは涙を目に浮かべながら微笑んだ。動かない身体、弱まっていく鼓動。頭のどこかで分かっていたのかもしれないせめて笑顔を覚えていていてほしかった。
「リュシエンヌ、可愛い娘……逃げなさい」
ゆっくり目を閉じた父の呼吸は止まっていた。
温もりが徐々に失われていく。初めて直面したが、これが死というものなのだ。
聞かされた母の死、そして目の前で父が息を引き取った。
突如目の前に立ちはだかった残酷な現実を直ぐには受け入れることができず、リュシエンヌの身体が小刻みに震えだす。
「……お父さん。お父さんお父さんお母さんお父さんお母さんお母さんお母さん!」
リュシエンヌは父の膝の上でうずくまり両親を呼び続けた。
初めて知った死の痛みだった。
せめて家の近くで眠ってほしいと思い、父を背に抱えて歩き、なんとか家が見えるところまで来ることができた。
しかし、家から漂う異様な空気にリュシエンヌは困惑した。
様子を見に行こうと思い、背に抱えている父に話しかける。
「待ってて、お父さん。様子を見てくるから」
父の身体を木にもたれかけさせその身体を抱きしめるとリュシエンヌはひとり家に向かった。
近付くにつれその異様な空気は辺りを侵食しているのがわかる。
刃物で軽く切ったくらいでは到底ありえないほどのむせかえるような血の匂いにリュシエンヌは眉を寄せる。
聞こえるのは甲高い猫の鳴き声。警戒しながら家の正面の方にリュシエンヌは歩いていく。
楽しげな猫の声に何故か頭の中で警鐘が鳴る。
心臓が激しく脈打っている。自分の中の何かが訴えている。
(見てはいけない)
それでも家の正面に出て、目に飛び込んできた光景にリュシエンヌはその場に立ち尽くした。
待っていたのは世にもおぞましい光景だった。
誰かがうつ伏せて倒れている。首の辺りから大量の赤を流しながら。
うつ伏せで倒れている人間は―――。
ひゅっとリュシエンヌは息を飲んだ。
顔は見えないが、見慣れた藍色の髪、見たことのある騎士団の服、いつも笑顔でリュシエンヌを見ていてくれた従兄を間違えるはずもない。
力なく倒れているのはレイナルドだった。
うつ伏せで倒れているレイナルドの上に一匹の黒猫がいた。
その猫はまるでじゃれているかのように鋭く伸ばした爪を項にに突き立て掻きむしる。猫の鋭い爪に抉られ、血と共に肉片が周囲に飛び散る。
拷問のようなことを受けているのに従兄はぴくりとも動かない。動かなかった。
心の奥底で何かが砕ける音がした。
「……っぃあああああああああああああああああ!」
思わず顔を覆う。人間というものはこのような声を発することが出来るもなのだ、と頭の片隅で思う。
襲い来るのは絶望という名の嵐。それに心は瞬く間に蝕まれ、腐り落ちていく。
リュシエンヌを形成していたものが崩れ始める。
父の死、母の死、従兄の――死。
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて。
誰か。
ねえ誰か。
頭に過ったのは炎の色。
何か暖かなものに包まれたと感じた次の瞬間、リュシエンヌの意識は暗闇に閉ざされた。