第36話 美しい夢 3
それからリュシエンヌの楽しみは倍以上になった。レイナルドだけではなくリュファスも仕事が休みのとき、非番のときに来てくれるようになったのだ。
それぞれがひとりで訪れてくれることもあれば本当に稀だが二人で一緒に来てくれることもあった。
レイナルドは訪れる前日に鷲を飛ばして知らせてくれるが、リュファスは前もって来るということを言わないので毎日期待しながら過ごすことができた。
リュファスといるときはレイナルドの話、レイナルドといるときはリュファスの話、二人がいるときはリュシエンヌが二人の会話を聞くということが当たり前になった。しかし、リュファスと一緒のとき色々な所に連れて行ってもらっているのはレイナルドには内緒だった。
リュファスと一緒なら許してくれるかもしれないと思ったが、心のどこかで反対されるのが怖かったのかも知れない。そう思ったリュシエンヌはレイナルドに内緒にしてほしいとそれとなくリュファスにも口止めをしてしまった。
湖に行った後何度かレイナルドが来たが、何も言ってこないところを見るとリュファスも内緒にしてくれているのだろう。
従兄に出来た初めての秘密にリュシエンヌはドキドキした。
「お久しぶりです、リュー様」
忙しかったのか、半月ぶりにリュファスの姿を見たリュシエンヌは飛びつくような勢いで駆け寄った。リュファスの前に着くなりリュシエンヌは言う。
「また湖行ってもいいですか」
リュファスは呆れたようにリュシエンヌを見た。
「本当にあの湖が気に入ったんだな」
「はいっ私あんなにたくさんの水の塊を見たのは初めてです」
林の中にある琥珀色の大きな湖、前にリュファスと一緒に行ったとき一周したのだが、ゆっくり歩いていたとはいえ二十分もかかってしまったのだ。
リュシエンヌの裏に流れているのは小川で歩いて渡れてしまうほど浅いのだ。料理や洗濯にはそれで十分なのだが、湖を見てしまうと何となく小川では物足りなくなってしまった。
久しぶりに湖へ行けることに興奮しているリュシエンヌを見てリュファスはぽそりと呟く。
「……海を見たらどうなるか」
リュシエンヌはリュファスが苦笑しながら言った言葉に目を輝かせる。
「海! 海ですか。大陸を囲む水の塊。絵でしか見たことがないんですが、この湖よりも広いなんて想像もつかないです」
「いつか、連れて行こう。ここからは近いから」
「本当ですか!」
期待を込めた眼差しを向けられリュファスの瞳は柔らかく細められる。
「ああ」
細い道に入った。もうそろそろで緩やかな勾配が見えてくる。
ようやく見慣れてきた道、その上に今日は見慣れぬ鳥がいた。赤く炎のような身体に翼の先に行くにつれ緑に変化している酷く不思議な色彩をした鳥だった。
「綺麗な鳥」
「ああ、パァンだ」
「パーン……」
初めて見る美しい鳥にリュシエンヌは見とれる。威厳すら感じられる鳥はリュシエンヌの不躾な視線など気にした様子もなく、空を見ていた。
よそ見をしながら歩いていたせいか、足を動かす意識が疎かになり、靴の底を変な擦り方をしてしまった。がくんと前のめりになる。いつもならそのまま転んで済んでいたのだが、倒れそうになったところに生まれて間もないだろう子犬がよたよたと歩いていたのだ。なんという嫌な偶然なのか、咄嗟に避けようと身体をひねると足元から鈍い音がした。
痛みに顔を顰め、そのまま重力に従って地に倒れこむ。気付いたとき目の前は湖に向かう坂道だった。
「あっ」
「リュシエンヌっ」
リュファスが手を伸ばす。しかしリュシエンヌの身体には届かず、無情にも坂道を転がり落ちて行った。
横向きで回りながら転がっていくリュシエンヌは、完全に目が回ってしまい自分で止まることができない。
そのまま派手な音を立てて湖に落ちる。
リュファスとともに何度か湖に来ても、今までは足を浸すだけで身体ごと水の中に入ったことはなかった。思いのほか深い湖と転げ回ったせいで今だ戻っていない平衡感覚、極めつけにリュシエンヌは一度も泳いだことがなかった。
リュシエンヌは無我夢中でもがくが一向に浮かび上がることができない。むしろ上がっているのかさえも判断できなかった。
絡みつく水の塊、重くなる衣服、手や足をがむしゃらに動かしながらこんなにも水というものは恐ろしいものだったのかと思い知った。
薄れゆく景色の中で母の顔が思い浮かんだ。
「リュシエンヌっ」
転げて行ったリュシエンヌの後を追ってきたリュファスが激しい水音を聞き、慌てて湖の傍に駆け寄った。
浮かんでこないリュシエンヌにリュファスは眉をひそめ、マントの留め具を素早く外すと湖の中に飛び込んだ。
冷たい水中に眉をひそめる。地上から見ると琥珀色に輝く湖も底に近づくにつれ暗くなっていく。リュファスは目を凝らしながらリュシエンヌの姿を探した。
闇の中でぼんやりと浮かび上がる白。リュシエンヌが来ていたワンピースの色だった。リュファスはそこに手を伸ばしリュシエンヌの身体を引き寄せると勢いよく浮上した。
水面から顔を出すとリュシエンヌの身体を抱えながら岸へと泳ぐ。
リュシエンヌの身体を湖の傍に横たえると様子をうかがう。
しかし、その顔色は青白く、ピクリとも動かなかった。
リュファスは慌ててリュシエンヌの息を確認する。そして顔を歪めた。
「リュシエンヌ」
リュファスはリュシエンヌの名を呼ぶと頭に手を添え、軌道を確保し少し空いた唇に自分の唇を押しあて息を吹き込む。
唇を離すと心臓の上に手をあてる。一定の間隔で衝撃を与える。
「リュシィ……リュシエンヌ! 起きろ」
もう一度唇を押しあて息を吹き込む。
リュシエンヌに微かな反応があった。水を吐き出すと咳をする。
「リュシエンヌ」
軽く頬を叩きながら呼び掛ける。
うっすらと目を開けたリュシエンヌにほっと息をつく。開けられた瞳はリュファスを映してはいるが、まだ思考が働いていないようでその中に感情を読み取ることができない。
「大丈夫か」
リュシエンヌの喉が震えた。何かを言っている。リュファスは耳を近づけ言葉を聞き取ろうとする。
「子犬は……大丈夫でした?」
掠れた声で紡いだ言葉はすでに逃げてしまった子犬の心配だった。
そのどこかずれた言葉にリュファスは烈火のごとく激しい怒りがこみ上げる。
「お前は死にかけたんだぞ! 分かっているのか。犬のことよりも自分の心配をしろ」
あまりの危機感のなさに、思わず大きな声でリュシエンヌを責めてしまう。それにリュシエンヌは情けない顔をする。
「だって一番最初に思い浮かんだのが、子犬のことだったんです」
そして苦い笑みを浮かべるリュシエンヌ、しかしその言葉や表情にリュファスは胸が締め付けられた。
「お前に何かあったら残された者たちのことを考えてくれ」
リュファスは諭すように言った。
「レイナルドはきっと号泣してお前を守ってやれなかったと、これから悔やみ続け一生を過ごすだろう。想像してみろ」
想像した結果可笑しかったのだろう、リュシエンヌが笑いをこらえるように唇を引き結んだ。その表情にリュファスは呆れ、そして幾らかの安心をおぼえる。自然とリュファスの表情も緩んだ。
「俺もお前の息がなかったとき心臓が止まるかと思った」
傍らに置いてあったマントっで身体を包んでやりながら渋い顔を作り、リュシエンヌを見る。
「だから自分を大切にしてくれ」
リュファスがそう言うとリュシエンヌは不思議そうに首を傾げ、そして悲しそうな顔をする。
「ごめんなさい」
きっと自分が伝えたいことはこの少女にはあまり伝わっていないのだろうなと思いながら不安そうにしているリュシエンヌの濡れた頭を乱暴にかき混ぜた。
特殊な環境に身を置いていた少女にすぐに理解してもらおうなどとは思っていなかった。自分よりも他のことを優先させることを悪いことだとは言わない。自分の利益や保身のことしか考えない人間をリュファスは嫌というほど知っている。ただ、少しずつでいい、自分が他人から必要とされているのだと知っていってほしい。
リュファスは帰り道ずっと何かを考えているようで、リュシエンヌが話しかけてもうわの空だった。
怒らせてしまったのかと思ったが、そういう感じではなかった。
リュシエンヌが湖に落っこちるという出来事があったが、思い返してみると今日会ったときからどこか様子がおかしかったかも知れない。
リュシエンヌたちは家に帰るとリュファスにレイナルドが泊まりに来たとき用の着替えを渡し、自分も着替えた。
何か豆のようなものが浮いている深緑のお茶をリュファスに出し、リュシエンヌも椅子に座り一息つく。
今だリュファスはずっと何かを考えているようだった。
「お前は他人の為に懸命になれるのだな」
そして、ふと声を漏らす。
いきなり呟かれた言葉にリュシエンヌは反応することが出来なかった。
「犬の為にその身を投げ出す。きっと困っている奴がいたらどんな人間の為にでも簡単にその身を投げ出すんだろうな」
「私、そんなすごい人間じゃ」
「言っておくが、褒めてるわけじゃない」
リュファスの言葉に「そうですか」と言ってリュシエンヌは肩を落とす。
「俺はあまり他人のことをよく考えたことがない」
唐突にリュファスは話し始めた。リュファスを見るとその瞳は揺れ、何かを懸命に耐えているように見えた。
「どこかで壁を作っているのかもしれない。だから、他人に何かがあっても所詮他人だから自分には関係ないと割り切っているのだろうな。だからあまり他人を助けるといったことを思い浮かばない」
初めてリュファス自身のことを聞いた気がして、リュシエンヌの鼓動が速くなる。しかし、投げやりな言葉と自嘲しているような表情にすぐに悲しくなった。
「それってなんか寂しいですよね」
思わず出てしまった言葉に、リュファスが顔をしかめたのでリュシエンヌは身を縮こまらせた。しかし、リュファスが続きを促す。
「続けろ」
「……だって知らない人でも困っていて、手助けしてあげたらそこから知り合いになれるじゃないですか。もしかしたら自分が困っているときに助けてくれるかもしれない。変な言い方ですけど、人を助けて得はすれども損はしないと思うんです」
リュファスは何かを言おうと口を開く。しかし、それには気付かずにリュシエンヌは言葉を続ける。
「他人に関わらなかったらそれで終わってしまいます。もしかしたらその人が自分に大切なことを伝えてくれるかもしれない。そう考えたら苦じゃなくなりませんか? リュー様ならきっと色々な人のお役に立てると思うんです」
ただリュファスに人と接して欲しいだけなのだ。自分は他人とは関わることができないから、せめてリュファスやレイナルドには多くの人間と関わってほしい。
「人と関わることができないから……動物や植物たちが私の前で犠牲になるの嫌なんです」
うまく言葉にすることができなかった。自分の考えが伝わっているのか分からず、リュシエンヌは不安そうな顔でリュファスを見る。
否定されてしまったら多分何も言い返すことができない。
「人の為に、自分の為に、そうすれば苦じゃない……か」
リュファスは目を伏せ、その言葉をかみ砕くように復唱する。
「そうか……大きいな」
そう言ってリュファスは淡い笑みを浮かべる。
「何か、可笑しいですか?」
「いや、そのままでいい」
「お前と話していると時間を忘れるな」
(これは褒めてる気がする!)
拳を握り静かに喜びを表す。
不審な動作をするリュシエンヌを気にせずリュファスは立ち上がり、家の外に出る。もう陽は完全に落ちていた。
「リュシエンヌ……」
「はい」
名を呼ばれリュファスを見ると戸惑いの表情を浮かべていた。躊躇うように口を開き、言葉を発する前につぐんだ。
「いや、なんでもない。また来る」
そう言ってリュシエンヌから顔を逸らし、背を向けた。