第35話 美しい夢 2
頭上に浮かぶ太陽は容赦なく光を降り注ぎ、動かなくてもじっとり汗ばむほどの陽気だった。
しかし温度を感じさせない男の氷の瞳に見つめられリュシエンヌの周囲が冷え冷えとし、滲んでいた汗も引っ込んだ。男のえも言われぬ威圧感にリュシエンヌは驚き身体を竦ませた。
しかし、リュシエンヌはやはりリュシエンヌだった。すぐさま身体の緊張を解くと一歩前に出た。唐突に現れた見知らぬ無愛想な男に恐怖を抱くことはなく、初めて会った家族以外の人間に興味を持ったのだ。
従兄や自分の持つ暗い紺色の髪とは違う周囲を照らしてくれる炎のような真っ赤に燃えあがる髪、それとは正反対で真冬の川の流水のような澄んだ淡い水色の瞳、そのような対照の色を持つ男の姿にリュシエンヌの視線はくぎ付けになる。
今のリュシエンヌには従兄のことやそれ以外のことが全て頭から吹き飛び、ただ目の前に立つ男だけに意識が注がれていた。
黙って男を見つめてる姿が男の存在に怯えていると思ったのか、動かないリュシエンヌの頭を撫でてレイナルドはリュシエンヌを守るようにリュファスの前に出てその端正な顔を睨みつけた。その際レイナルドでリュファスの姿が隠されてしまい見ることができなくなったリュシエンヌが不満そうにしたのはレイナルドは気づいていない。
「おいリュファス、お前が凄むせいでリュシエンヌが怖がってるじゃないか。少しは笑え」
「別に凄んではいない」
リュファスと呼ばれた青年はレイナルドの言葉に耳を貸した様子もなく憮然とした態度を崩さない。
形の良い唇から紡ぎだされた声は低く、周りの空気を振動させ耳に伝わる。その心地の良い声にリュシエンヌは聞き惚れた。
「おい、リュファス」
レイナルドが苛立ちを込めて名を呼ぶ。リュファスは何も言わず視線をレイナルドに向けるだけだった。リュファスの反応にレイナルドが苛立たしそうに舌打ちをする。
周りを気にせずリュファスの持つ色彩に見とれていたリュシエンヌだったが、ふと気付くとリュファスの先ほどよりも機嫌の悪そうな態度にレイナルドの目に灯った剣呑な光、鈍いリュシエンヌでもわかるほど場の空気が重くなっていた。
リュシエンヌは咄嗟に庇うように肩に置かれていたレイナルドの手を解き、リュファスの前に出る。そして丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、兄さまのお友達のリュファス様」
物心ついたときにはすでに他人とは接していなかったのでほぼ初めてと言っていいのか、家族以外の人間と対面し緊張しながらも挨拶して頭を下げ顔を上げると、リュシエンヌを見ていたリュファスと目が合った。
リュファスは驚いたように軽く氷の瞳を見開きリュシエンヌを見る。次の瞬間には逸らされていたが。
そしてリュファスは何かを思案するように視線を地面に落とす。
顔を上げ再びリュシエンヌを見たとき、その硬い表情は崩れ眼差しも和らげられていた。その柔らかな眼差しにリュシエンヌは驚くが、それを気にすることなくリュファスは澄ました顔でレイナルドに視線を移した。
レイナルドはリュシエンヌの動作を見て多少の苛立ちはおさまっていたようだが、リュファスの視線を受けるとまた厳しい表情をした。
レイナルドを見てリュファスは唇の端を歪める。そのリュファスをレイナルドは訝しげに見つめた。
「兄さま……か」
リュファスがからかうように言うとレイナルドは途端に頬を赤らめてリュファスを睨みつける。先ほどとは違い、どこか照れと羞恥を含んでいた。
「黙れ、お前が呼ぶな」
リュファスは軽く笑う。
「柄じゃないな」
「なんだとこの野郎」
先ほどまでの剣呑な空気はすでに霧散していた。
いきなり雰囲気の変わった二人にリュシエンヌは驚く。レイナルドの乱暴だがその言葉使いが相手に気を許しているようで、またリュファスもレイナルドに親しみを込めて接しているように見える。
「副部隊長殿とあろう者がそんな甘ったるい呼称があるとはね」
「黙れってんだよ。リュシエンヌはいいんだよ。俺の可愛い従妹なんだから」
断言する男をリュファスは微妙な顔をして見る。
「……傍から見ると危ない奴だぞ」
「うるせえよ」
リュシエンヌは目の前で交わされていく会話に入ることもできず、ただ聞いていた。拒絶されているわけではないのだが、自分が入り込めない何かが二人の間にはあった。そもそも会話に入り込むつもりもなかったのだが。
「まあ、いいがな」
リュファスは会話を中断させリュシエンヌに向き直った。
「先ほどは悪かったな。こいつに無理やり連れてこられたもんでな」
眉はひそめられ不機嫌そうに見えるが、どこか困っているようにも見える。もしかしたら周囲が感じているほどには機嫌が悪いわけではないのかもしれないとリュシエンヌは思った。
「改めて紹介するよ。この男はリュファス・ブランヴィルといって俺と同じ騎士をしてる」
「レイナルド副部隊長の部下にあたる」
そうリュファスが付け加えるとレイナルドはじとりとリュファスを睨んだ。
「何が部下だ。俺の言うことなんか聞かないだろうが」
「本当のことを言っただけだろう」
「でも、本当に仲が良さそう」
同年代の子供たちとましてや家族以外の人間との交流がないリュシエンヌが羨ましそうに言うと二人は黙って小さな少女を見た。そして顔を見合わせる。
「まあ、年はリュファスの方が下だけど同期だし、気も合ったしな」
「腐れ縁だ」
そうして二人は再びリュシエンヌを置き去りにして話し出す。それでもリュシエンヌはその会話を聞いているだけで楽しかった。
傾いた太陽を見てレイナルドが呟いた。
「ああ、もうそろそろ行かなきゃなあ」
気付くとほぼ真上にあったはずの太陽は西へだいぶ傾いていた。二人といるのが楽しくて忘れていたが、レイナルドには仕事があったのではないのだろうか。
心配そうに見るリュシエンヌの視線に気づきレイナルドは曖昧に微笑んだ。
「あー、大丈夫だから」
「何が大丈夫なんだ? 仕事があるのに抜け出してきた奴が」
その言葉にリュシエンヌが反応する。
「兄さま……お仕事すっぽかしてきたの」
リュシエンヌに指摘をされてレイナルドが言葉に詰まるのをリュファスは面白いものを見るように傍観していた。
「駄目だよ」
リュシエンヌが困った顔で言う。自分に会いに来てくれるのは確かに嬉しいのだがそのためにレイナルドが仕事を放棄するのは心苦しい。
「お前が余計なこと言うから」
レイナルドはお前が失言をしたというふうに恨めしそうにリュファスを見る。それを受けてリュファスは軽く肩をすくめた。
「リュファス」
唐突にレイナルドが真面目な顔になりリュファスの名を呼ぶ。リュファスはその声にすぐに振り向いたが、レイナルドが次の言葉を発するまで微かな間があった。そして神妙な顔をして呟く。
「先ほどの話、受けてくれるか?」
いきなり振られた話にリュファスは眉を寄せ、
「いつか理由を聞かせろ」
たったそれだけ言った。
レイナルドは無言で頷く。
リュファスが了承したのを確認してレイナルドはリュシエンヌに向き直った。そしてリュシエンヌの前にしゃがみこみ、紺の髪を優しくなでた。
「リュシエンヌ、俺はもう行くよ」
リュシエンヌは寂しい気持ちを抑えて笑顔で頷いた。しかし、その寂しさはレイナルドの次の一言で消し飛んだ。
「その代わり今日はリュファスに残ってもらう。こいつは今日非番だからな」
最初レイナルドが何を言ったかわからずにリュシエンヌは首を傾げたが、意味を理解すると驚愕の表情でレイナルド、次いでリュファスを凝視した。目を向けられたリュファスは腕を組んで視線をリュシエンヌに向けず、他方を見ていた。
「これからは、本当に時々たがリュファスもここに来る。ひとりで来るときもあるかもしれない……そのときは、奴を迎えてやってくれないか」
従兄の口から飛び出す信じられない言葉の数々にリュシエンヌはただただ驚いたが、従兄の真剣な表情を見て自分も神妙な顔になり頷いた。昔から従兄は間違ったことをリュシエンヌには言わない。
「じゃあ俺は行く。リュシエンヌ、またな。リュファス……よろしく頼む」
そう言って手を挙げると従兄は嵐のように去って行った。
未だほとんど会話をしたことがない男と少女を残して。
さすがにリュシエンヌもこの後どうしていいのかわからなかった。
従兄は晴々とした顔で帰って行ったが、自分が去った後の展開は考えなかったのだろうか。一言二言しか言葉を交わしていないリュシエンヌたちがすぐに打ち解けるとでも考えているのだろうか。
リュシエンヌは遥か遠くなったレイナルドの後姿を見つめる。
昔から知っている従兄のことが少々分からなくなったリュシエンヌだった。
しかしいつまでもこうして突っ立っているわけにはいかない。自分が話しかけなければ無言で一日が終わってしまいそうだったので、リュシエンヌは思い切って切り出した。
「えと、まず呼び名を決めた方がいいと思うんです」
そんなリュシエンヌをリュファスは不審げに見る。それを見て慌てて「愛称ですかね」と付け加えた。
「呼び名? そのままでいいだろう」
「親しくなるにはまず呼び名からって本に書いてあったんです」
間違ってなくもないが、とリュファスは小さく呟きながらなおも訝しげな顔をした。リュファスの顔にリュシエンヌは自分の知識が間違っていたのかと急に不安になってきた。自分の知識は本と従兄から聞いただけの狭い視野しか持っていないのであまり自分でも自信はもっていない。
「もしかして違いました? 私、家族以外の人とこうしてお話しすることがなかったから……間違ってたら言ってほしいです」
「いや、いいだろう別に」
思わぬリュファスの肯定の言葉にリュシエンヌは勢いよくリュファスを見ると嬉しそうに微笑んだ。
リュファスを見ると目を細めながらリュシエンヌを見つめている。
「じゃあ考えますね」
そう言ってリュシエンヌは腕を組んで目を閉じた。険しい表情を顔に張り付けながら考える。
「リュファス様だから……」
「いや、無理して考えなくても」
「あっ」
気遣うリュファスの声を遮りリュシエンヌは声を上げた。
「リュー様」
我ながら良い呼び名だと思いリュファスの方を見ると、何故か唖然とした顔でリュシエンヌを見ていた。
「リュー様?」
リュシエンヌはにこにこしながらたった今決まった愛称で問いかけると、リュファスははっとし顔を引き締め、そして苦笑する。
「自分の名前がそこまで省略されるとは思っていなかった。だが、それでいい」
リュファスの反応に不安げに揺れた顔に気付いたのか、リュファスはリュシエンヌが口を開く前に頷いた。
初めてできた家族以外の親しい人にリュシエンヌは嬉しくなって、たった今できたリュファスの愛称を連呼する。
「今日、リュー様に会えてよかった」
「そうか」
早くもリュファスの存在に安心感を覚え始めているリュシエンヌはリュファスの周りをくるくると回る。
「リュー様はどうしてここに来たの?」
「さあな。俺もレイナルドにいきなり連れてこられたからな。ただ、あんなに切羽詰まった様子のあいつは……いや、なんでもない。きっとどこにも出かけないお前の話し相手として連れてこられたんだろう」
その言葉にリュシエンヌは考えるように俯き、そして顔を上げ懇願するように言った。
「リュー様は騎士様だから強いよね」
「どうした? いきなり」
「リュー様がいれば、兄さまは私がこの家から出ても怒らないかな」
「どこか行きたいところがあるのか」
「この家と城下の間の林を奥に入っていくと琥珀色に輝く湖があるって兄さまが言ってて」
話を無言で聞くリュファスの目を見ることができず俯き加減でリュシエンヌは言いにくそうに言葉を紡いだ。
「でも、兄さまは危険だからってひとりではもちろん兄さまが一緒でも行ってくれなくて」
出来れば行きたいなあ、とリュシエンヌはリュファスを恐る恐る見上げる。そして目を見開いた。
リュファスは淡く微笑んでいたのだ。口の端を軽く上げる程度だったが、不機嫌そうではなく目も柔らかく細められていた。初めて見るリュファスの笑みにリュシエンヌは何故か鼓動が激しくなり心臓が破裂してしまいそうになる。
「……リューさま」
リュファスはリュシエンヌに背を向けて歩き出す。しばらく歩くと振り返り、動けないでいるリュシエンヌを見て顎を引いて合図をした。
「それなら今から行くか……リュシィ」
慌てて後を付いて行ったリュシエンヌは歩いている途中で自分の愛称が呼ばれたことに気づき、幸せそうに微笑んだ。