第29話 呑まれゆく日常
しかし、周りはそう簡単にはリュシエンヌを落ち込ませてはくれないらしい。
「最近大人しくしてたと思ったら…またあんたかい!」
メイド長の怒声がリュシエンヌの耳につんざく。メイド長の大きすぎる声に体を竦ませるリュシエンヌの足元には倒れたバケツと大量の水、水、水。
「ひいいいっ!ごめんなさいっわざとじゃないんです」
そして、前髪から雫を滴らせたメイド長が壮絶な表情でリュシエンヌの前に立っていた。
「わざとだったらとっととあんたをクビにしているよ!王女付きのメイドだって構うもんか」
恐ろしい剣幕でメイド長すごまれたリュシエンヌは壁にもたれかかりながらしおしおと小さくなる。
「罰として今日一日食事抜きだよ」
そんな、とリュシエンヌは、悲痛な叫び声をあげた。
「そんなことされたら死んじゃいます!」
リュシエンヌの必死の懇願をメイド長は鼻で笑う。
「あんたがそのくらいで死ぬたまかい…少しでも何か腹に入れたら明日も食事抜きだからね」
収まりきらない怒りを床にぶつけながらメイド長は去って行った。
「リュシエンヌ…あなたってまた」
通りすがりのベレニスが呆れ果てたようにリュシエンヌを見つめる。しかし、その呆れた表情のどこかに安堵しているように見えたのはリュシエンヌの気のせいだったのか。
「とりあえず、ここは私が片づけておくからあなたはこの壷を図書室に持って行ってくれないかしら」
リュシエンヌに任せるとこの水で滑って転んでさらに大惨事を引き起こしそうだし、と呟いたのはこの際気にしないでおこうとリュシエンヌは思いつつ、壷を受け取った。
壷を持っていこうとしたリュシエンヌにベレニスは声をかける。
「いい?ちゃんと下を見てゆっくり歩くのよ。後、回廊の中心を歩きなさい。横から誰が飛び出してくるかわからないから」
念に念を押されて壷を持って行く。
そんなに信用ない?
そのことにちょっぴり落ち込みつつリュシエンヌはベレニスに礼を言って歩き始めた。
「リュシエンヌちゃん、ちょっといい?」
振り向くとそこには笑顔のアベルが立っていた。片手に小さな荷物を抱えて。
「リュシエンヌちゃんに頼みたいことがあるんだ」
そう言って持っていた包みをリュシエンヌに認識させるように軽く掲げる。
「それは?」
「王宮のとある場所にしか生殖していない特別な薬草さ。ここのお抱えの医者がこいつを研究するために毎月取りに来てるんだけど、運悪く足を痛めてしまったらしくてね…今月は取りに来れないんだよ。研究命の医者だからね、這ってでもくるって言ってるのを弟子が取り押さえているらしい。何するかわからないので目が離せないって弟子から書きなぐったような文書が来たよ」
手紙の内容を思い浮かべているのか、おかしそうにアベルは、笑った。
「はあ…?」
「だからリュシエンヌちゃんこいつをその医者に届けて安心させてやってほしいんだ」
訪ねるような言い方ではなかった。行って来いということらしい。
アベルはそう言うとリュシエンヌからまず壷を奪い取った。リュシエンヌは、あからさま嫌そうな顔をする。それを見てアベルは微笑みを浮かべた。
「普段なら部下にでも渡せばいいんだけど今はほぼ休みなしで城の警備にあたっているから難しくてね…ごめんね?」
言葉とは裏腹に全く申し訳ないと思っていない顔でアベルはリュシエンヌから壷の代わりに小さな包みと紙切れを渡す。紙切れには手書きで地図が書いてあった。
リュシエンヌは、取り上げられた壷を見て自分が仕事の途中だったことを思い出した。
「えっと、今は仕事の途中なので、この壷を図書室に持って行って終わってからアレクシア様に言って…」
「ああ、アレクシア王女には俺から言っておくし、リュシエンヌちゃんは行ってくれる?ちょっと急ぎなんだ」
アベルはリュシエンヌの言葉を遮り、門の方へ促す。有無を言わせないような強引さにリュシエンヌは少し眉をひそめた。
「この壷もちゃんと持って行くよ。心配しないで割ったりなんかしないよ。リュシエンヌちゃんが持っていくよりも安心だと思うけどね」
さらりと酷いことを言われて拗ねながらリュシエンヌはアレクシア様に言っておいてくださいね、とアベルに念を押し門の方へ歩いた。
しかし、アベルも貴族であるから自分の従者がいるはずなのに何故わざわざ自分に頼んだのだろうか?それとも、たまたま自分を見つけたので頼んだのだろうか?と疑問を浮かべつつ、リュシエンヌは歩く。
このときひとりで城下に出てはいけないときつく言われていたことをリュシエンヌの頭からは完全にすっぽ抜けていた。
「城下も久しぶりだなあ」
前に城下に来たときは賑わっていたのだが、今は閑散としていた。
しかし、それも仕方がないことだった。
魔物たちが急激に増加し、死人も出ている。
加えて国を守る騎士が魔物討伐のため半分も城を開けているのだから人々が警戒し外出しなくなるのも無理はないだろう。
人通りのない城下、そしてひとり歩いている自分、まるでこの世界で自分ひとりだけになってしまったような錯覚を受ける。
取り残された自分。それは何かの罰のようにも思えた。
ひとりっきりでいるとどうも考えが後ろ向きになってしまって仕方がない。
リュシエンヌは、何気なく地図を見ると目を見開き、かぶりつくように見つめた。思わず地図を持つ手に力が入ってしまい地図にしわがついてしまったがそんなことよりも重大なことが地図には描かれていた。
「えっ」
地図は、おおざっぱに描かれてはいるが重点はしっかり描きこまれており思ったよりも見やすい。
「西の森の目の前…」
そこに着いたとき、陽は落ちかけあたりは夕闇に呑まれようとしていた。
荒い息を整えリュシエンヌは前を見据える。
「やっと着いた」
目の前に見えるのは簡素な小屋のような家。だが、地図を見る限りこの家で間違いないだろう。
簡素な家の目と鼻の先には西の森が、その深い闇に繋がる口を開けて構えている。
森の入口を見ていると頭の中にじわりじわりと蘇ってきてリュシエンヌは思わず頭を押さえる。少女を追いかけて魔物対峙した記憶はまだ新しい。
きっとその医者はとんでもなく偏屈な人間に違いない。でなければ好き好んで西の森の近くになど住まいなど構えないだろうとリュシエンヌは、そう思った。
リュシエンヌの頭がズキリと痛む。
「え?」
痛みは一瞬だけでもう痛くはなかった。首を傾げながらリュシエンヌは家に近づいて行った。
とりあえず扉を叩く。
「どうぞ」
中から返事が聞こえた。偏屈な医者と決めつけていたリュシエンヌは思いのほか若い声に扉を開けるのを戸惑った。しかし、すぐ弟子がいることを思い出し、これはきっと弟子の声なのだろうと思い扉を開けた。
中は真っ暗だった。その部屋の中だけが外の世界の仄明るい光さえも遮断しているかのような暗黒。
目の前にはすぐ闇の世界が広がっておりリュシエンヌは顔を強張らせた。足を一歩踏み入れただけで歩みは止まってしまった。
この中に入るのが恐ろしかった。
その闇の中で浮かび上がる赤い二つの目玉を見つけリュシエンヌはとっさに後ずさった。
しかし、無情にも自分のすぐ後ろでけたたましい音を立てて扉が閉まる。
「こんばんは、リュシエンヌ」
先ほどの声がした。