第2話 苦手なもの
「リュシエンヌ」
自分を呼ぶ声に我に返った。
そういえば、ベレニスと話している途中だった。
「ベレニス」
かすれるようなリュシエンヌの声にベレニスは柳眉をひそめる。
「あなた、具合悪いの?」
愛想はあまりよくないが、ちゃんと心配してくれるベレニスにリュシエンヌは胸が暖かくなった。
「ううん、大丈夫なんでもない」
いらぬ心配をかけないようにすぐさまリュシエンヌは首を横に振る。
「あなたドジだからまたどこかで転んで頭でも打ったんじゃないの? 気をつけなさいよね」
「もう、危ないから早く片付けてしまうわよ」とベレニスは箒を取りに行ってくれる。本当は割ったリュシエンヌが取りに行くべきだったのだが。
「ありがと! ベレニス」
聞こえるように言ったつもりだったが、リュシエンヌの言葉にベレニスは何も答えず、さっさとその場から立ち去ってしまった。
照れてるのねー。
そうリュシエンヌは解釈した。
残されたリュシエンヌはとりあえず床に飛び散った大きな破片を集めようと破片に近づく。近くに人がいなくてよかった安堵しながら。
破片を拾い集めようとしゃがんだそのとき、何故かリュシエンヌは風を感じて、顔を上げる。
リュシエンヌの長い紺色の髪がなびいた。
「え?」
顔を上げたリュシエンヌの視界に飛び込んできたものにリュシエンヌは目を見開いた。
。・@。・@。・@。・@・。
ベレニスは、箒と集めるための板を持って歩いていた。
まったく、なんで私がこんなことを。
苛立ちながら心の中でリュシエンヌを罵る。リュシエンヌは大変アレクシアに気に入られている。ぱっと突然現れアレクシアの興味を惹いたリュシエンヌの存在が許せなかった。要するに嫉妬なのであるが。
だから、仕事も満足にできず、へらへらと笑っているリュシエンヌが余計憎らしい。
仕事はできないし、ドジですぐへまをするリュシエンヌであるが、いつも一生懸命なのをベレニスは、一緒に仕事をしているうちに知ってしまった。
だから、彼女に憎悪という感情は湧かない。
私は、あのこを知っているから。
リュシエンヌと出会ってまだ日は浅いが、彼女の飾らない性格だけは気に入っているかもしれない。 リュシエンヌを本当に心底嫌いだと思っているのは、リュシエンヌと交流しておらず、彼女の人となりを知らないメイドだけである。
その気持ちも分からなくもないが、本人がいないときにこそこそと悪口を言い合うのは実に陰湿で、そういうことをしているメイドたちにベレニスは辟易する。
でも、アレクシアのこともあってリュシエンヌが憎たらしいので、ついいじめてしまうのだ。
こう、ベレニスが何か言った時に、困った顔をするリュシエンヌに心を震わせる。もっと言いたい。もっと困らせたい。
ベレニスは、自分にかなりの嗜虐趣味があることを、本人はまだ気づいていない。
片付けてるかしら。まさか、破片で手を切ったとかないでしょうね。
不安に思い、急ぎ足で歩いていたベレニスは、突如聞こえてきた絹を引き裂くような悲鳴に走り出した。
。・@。・@。・@。・@・。
「リュシエンヌ!!どうしたの」
リュシエンヌはその場に倒れるようにうずくまっており、顔を上げない。
慌てたベレニスはリュシエンヌに駆け寄る。
「リュシエンヌ、何があったの?」
肩を掴んで、聞くがリュシエンヌは答えない。
身を丸めてカタカタと震えているリュシエンヌは、頭を抱えている。そんなリュシエンヌをベレニスは身をかがめ、下からのぞきこむ。
「落ち着きなさいリュシエンヌ。何か言わないとわからないわ。とりあえず、部屋に戻りましょう。片付けは他の人に頼んでおくから」
リュシエンヌの手を引いて立ちあがろうとしたベレニスは、その手を振り払われ驚いて、振り払ったリュシエンヌを見た。
「いや!」
「リュシエンヌ?」
「そっちに行きたくない」
とりあえず自分だけでも立ち上がろうとしたベレニスはリュシエンヌの伸びてきた手によって阻まれる。
幼子のように首を振りながら、いやいやとベレニスに懇願する。
お願い、行きたくない、まだ、リュシエンヌはそんな言葉を繰り返す。
「何? どうしたの」
「ね、」
「ね?」
「猫が…」
その言葉に、ベレニスが顔を上げると通路の先にはちょこんと小さな愛らしい子猫が座っている。大きな瞳をこちらに向け、大人しくその場に座っているその様子からはとても害があるようには思えない。ベレニスが顔を歪ませた。
「あれ?猫が怖いの?」
こくこくとリュシエンヌは何度も頷く。
驚かせるな、と怒鳴りたい所だったが、尋常ではない怯え方をするリュシエンヌの様子にベレニスは「わかったわ」と言って立ち上がる。
「猫を王宮の外に連れていくから、あなたはここにいなさい」
「ご、ごめんなさい。猫だけは…」
泣きそうにリュシエンヌはベレニスを見る。
「わかったから、そしてあなたは落ち着いたら部屋に戻りなさい」
ベレニスの通常では考えられないほど優しい声が響く。リュシエンヌは、それに少し安心したように頷いた。
「ありがとう」
ベレニスが、その場から動かない猫の所に行こうとした時。
突如現れた青いマントによって猫は、ベレニスの視界から隠された。
誰にでも苦手なものってありますよね。