第24話 憎悪と愛情
ほんの少しですが流血表現があります。
苦手な方はご注意ください。
「いたっ」
好物のナレの葉のバターソテーを咀嚼していたときだった。突如、口の中に痛みを覚えてリュシエンヌは思わず異物を吐き出す。
よくよく見てみるとそれは硝子の破片のようだった。透明だったので気付かなかったが、その破片は決して小さくはなかった。もしもリュシエンヌが途中で気付かずに飲みこんでいたら生死に関わる事態になっていただろう。
「りゅっリュシエンヌ!」
リュシエンヌはあっけにとられて破片を凝視しているとベレニスの慌てた声を聞いた。
「へレニス…?」
ベレニス、と呼んだつもりだったがうまく名前を口にすることができなかった。
じんわりと生温かいものが口の中に広がっていく。そしてそれはすぐさま口の中でかさを増やし唇の端から伝った。
「血が!」
「え?」
「しゃべらないで!……口をそっと開けて」
ハンカチを持ったベレニスに言われたとおり口を開ける。口の中を見てベレニスが顔を盛大に歪めたがリュシエンヌは気付かなかった。
「っ……医務室へ行きましょう、リュシエンヌ?」
ベレニスの声を遠くに聞きながらリュシエンヌは、そう言えば今日は見慣れぬメイドから食事を受け取ったなあ、とぼんやりとした頭で思った。
あの出血量の割にはそこまで大したことのない傷だったが、それでも小さな破片は口の中に無数の小さな傷を作り、その痛みがリュシエンヌを苦しめる。
その痛みのせいでせっかくの茶会の支度もなかなか集中して出来ない。
作業をしながら時々顔をしかめるリュシエンヌにアレクシアは気付く。
「リュシエンヌどうしたの?」
リュシエンヌの代わりにベレニスが答える。
「昼食の時食事に何かの破片が入っていたらしくて口の中を切ってしまったんですわ」
「破片なんて滅多に入る物ではないわ。リュシエンヌ、あなた心当たりある?」
アレクシアの何かを探るような問いかけにリュシエンヌは黙ってゆるゆると首を振った。その姿にアレクシアはため息をついて肩を落とした。
「リュシエンヌ、今日はもういいわ。自分の部屋で休みなさい…ベレニス、リュシエンヌを部屋に」
「はい」
リュシエンヌがベレニスと共に部屋を出て行ったあとアレクシアはぽつりと呟いた。
「本当に馬鹿なことをしでかしてくれたわ」
もうひとりで帰れるから、と渋るベレニスと説き伏せ部屋の近くで別れた。
とぼとぼと部屋に戻っていると部屋の前にリュファスを見つけた。リュシエンヌは慌てて壁の影に隠れる。
リュファスが扉から離れるまでリュシエンヌはずっと様子を窺っていた。姿が見えなくなったのを確認してリュシエンヌは息をついて部屋に戻る。
いじめと呼ばれるものを受けるようになってからリュシエンヌは何となくリュファスと距離を置いていた。訓練場にも近付かなくなり、就寝時以外は部屋に帰らないようにしていた。
しかし、それはリュファスと一緒にいることでメイド達の報復を恐れてのことではない。
ただ、いじめを受けている自分の姿はリュシエンヌ本人が堪えてなくても傍から見れば情けない姿だと理解していたので、その情けない姿をリュファスに見られたくなかったのである。
リュシエンヌはベッドに座り深いため息をついた。
次の日アレクシアの元へ行くとしばらくの間部屋からの外出禁止を言い渡された。
驚いたリュシエンヌがアレクシアに理由を聞いたところまずアレクシアに謝られた。
どうやらアレクシアやベレニスはいじめに気付いていたらしい。
たいしたことはしないと思い泳がせていたのだがこんな行動をとるとは思っていなかったと言われリュシエンヌは今日、仕えてから初めてアレクシアに謝られたのだ。
アレクシアは何とかすると言い、それまで極力部屋から出ないように注意された。
しかし、部屋にいてもすることがなく退屈で仕方がない。
普段部屋にいることがないので暇つぶし用の道具もない。口の中も痛くて仕方がない。
落ち着かないリュシエンヌがベッドの上でゴロゴロとしているとお腹が鳴った。動きを止めて自分のお腹を見る。
時計を見る、しかしまだ夕食の時間にはだいぶ早い。
どうしようかとリュシエンヌが逡巡しているとまた鳴った。駄々をこね始めたお腹はリュシエンヌでさえなだめることはできない。
我慢できなくなったのでこっそりと誰にも見つからないように厨房へ食べ物を分けてもらおうとリュシエンヌは部屋を出た。
後で空腹を我慢して部屋で大人しくしていればよかったと後悔してももう遅い。
リュシエンヌは厨房へ向かう途中の階段でひとりのメイドと対峙していた。
見覚えがある、リュシエンヌに水をかけたメイドだ。そして、リュファスに想いを寄せていた彼女だった。
メイドは憎悪の籠った眼差しでリュシエンヌを射抜く。階段の上から見下ろす形で向けられるその眼差しにひるんで後ずさろうとしたが自分のいる場所が階段の途中だということを思い出し、踏みとどまる。
「……んで」
「え?」
「何であんたなのよ!」
悲痛な叫びだった。
「リュファス様はっ……なんでなのよ!!あんたじゃなくてアレクシア王女だったらよかったのに」
自分たちの関係を知っているような口ぶりのメイドにリュシエンヌは目を見開く。リュファスと二人で話しているところでも見られたのだろうか。何にしろこのメイドは自分たちの近しい仲を確信している。
あのときリュシエンヌが見た彼女のリュファスに向けていたキラキラとした眼差しは身をひそめ、その瞳は暗く淀んでいる。
「死ねばよかったのに!!……本当にしぶとい女」
血反吐をはくような声にリュシエンヌは直感した。
ああ、今までのことは全てこの人が関わっていたことなんだろう。
確かに今回のリュファスとのことでリュシエンヌを気に食わなく思った他のメイドも多少なりとも関わっていただろう。しかし、このメイドは全てにおいて率先してリュシエンヌを陥れようとしていたのだろう。そう、感じた。
他のメイドに比べると瞳の中に映る憎しみの桁が違う。
狂ったようにメイドは言う。
「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ。…私とリュファス様の前から消えろ」
(怖い…)
自分に向けられる混じりけのない純粋な憎悪にリュシエンヌは恐怖を覚えた。
メイドが近づいてくる。メイドの身体から溢れだす悪意と憎悪に、足がすくんでリュシエンヌはその場から動くことができなかった。
メイドが笑みで顔を歪める。
「死ねよ」
胸を勢いよく押される。足場を失った身体は宙に投げ出された。
一瞬浮いた身体は重力に逆らうこともできずそのまま落下していく。
リュシエンヌは強く目を瞑った。しかし、叩きつけられるような衝撃は来なかった。
身を包み込む暖かな感触、最近やっと慣れてきた優しい匂いにリュシエンヌは思わず泣きそうになった。
ゆっくりと目を開けると凍りついた表情のメイドの顔が見えた。
頬を撫でる感触に見上げてみると思い浮かんでいたとおりの赤い髪が視界に入る。
「リュファス様…」
呼びかけるといつも微笑んでくれていたリュファスだが、今は厳しい眼差しで前を見つめていた。