第18話 倒れた理由
深く、深く、底に沈んでいくような感覚。
まるで海の底にいるようだった。ゆらゆらと揺れながらも身体を照らしていた光はもはや届かない。
身体は冷たく、そして本当に水の中にいるような息苦しさを感じ、咄嗟にがむしゃらにもがくが、手は虚しく周りを掻きまわすだけでどうしようもできない。
頭に酸素が回らず、目の前がだんだん霞んでいく感覚が襲ってくる。夢なのか、現実なのか、しかし、どちらでも自分はこのまま沈み朽ち果てるのだろうと諦め、もがくのをやめたとき、突如眼前が輝きだした。
その光がやがて一筋の道を作り出していく。
いつの間にか楽になっている呼吸を整え、リュシエンヌは吸い寄せられるように光の筋に触れる。その光はリュシエンヌを上へ上へと誘う。
生きる。
昇っていくとき、ふと後ろを振り返ったリュシエンヌが見たのは騎士の姿をした男だった。
「兄さま?」
自分の出した声に驚いたのだろう、リュシエンヌはぱちりと目を開いた。
「リュシエンヌ!」
ふと声をした方を見る。すぐ近くにリュファスの顔があり、思わずのけぞった。
「苦しくは…ないか?」
「へ?」
リュファスに問われ、自分の置かれている状況を理解しようとしたリュシエンヌだが、一向に理解できない。あれほど自分を避けていたリュファスが今目の前で、心配そうな顔をして、リュシエンヌの手を握っている。
リュシエンヌは呆然とリュファスを見る。
こんなに不安そうな顔をしたリュファスを見るのは初めてだった。
「もう大丈夫ですよ」
その声でこの部屋の中にもうひとり人間がいることに気付いた。
目が合うと優しそうな顔をした初老の男はにっこりと笑ってリュシエンヌに笑いかける。
「身体が丈夫だったことが幸いしましたね。本当によかったです。しかし、完治するまでには時間がかかります。薬を置いていきますので毎朝必ずお飲みください」
男の言葉にリュシエンヌは首を盛大に傾げる。
「後は俺が説明する。下がってくれ」
リュファスが言うと男は了承し、頭を下げた。
それでは失礼します、と言い男は部屋を出ていく。男が出て行ったことで部屋の中にふたりっきりにされてしまった。
リュシエンヌはわけも分からず、男の出ていった扉を見つめる。状況がまったくつかめない。
「無事で、よかった」
再びリュファスはリュシエンヌの手を力強く握る。そして、手を持ち上げ額に付ける。まるで、リュシエンヌがそこにいることを確認するような仕草だった。
「リュファス様…えっと」
まったく事態が読み込めないリュシエンヌは、リュファスらしからぬ行動にただ戸惑うしかなかった。
しばらくして落ち着いたのか、リュファスは顔を上げ、躊躇いながらも語りだした。リュシエンヌの手は握ったままで。
「アレクシア王女の御膳に毒が仕込まれていたのだ」
「えっ…」
リュシエンヌは驚愕に目を見開く。
「そのときの毒味役がお前だったので、お前が毒にあたった。遅効性の毒だったからな、しばらくして毒が身体に回って倒れた…俺のすぐ傍で」
リュシエンヌの手を握る大きな手が微かに震えている。
しかし、それには気付かず、リュシエンヌはその皿を本来食すべき主を思い、瞳を震わせた。
「アレクシア様は!」
リュシエンヌが飛び起きようとすると、リュファスがそれを押しとどめた。
「アレクシア王女はその皿に手を付けられなかったから無事だ。今は、騎士達に警備をさせている」
「よかった」
リュシエンヌは安心して、リュファスに促されるまま再び身体を横たえた。
アレクシアの無事が分かり安堵したリュシエンヌは、周りを見る余裕ができ、ずっと自分の手を握っているリュファスを戸惑いがちに見つめた。
いつも険しい表情をしていることが多いリュファスだが、今はその顔に疲労を色濃く滲ませ、心なしか青ざめてもいる。
「リュファス様」
「お前が倒れたとき心臓が止まるかと思った…本当に無事でよかった」
「リュファス様は…」
毒に倒れる前のあの決意など忘れてしまったかのようにリュシエンヌは、リュファスを目の前にして何も言えなくなってしまった。
リュファスの正反対ともいえるこの態度に、リュシエンヌは混乱し、リュファスに怯えてしまった。
「リュシエンヌ?」
「よくわかんないんです」
リュファスが眉を顰めた。こんな仕草もかっこいいと思ってしまった自分をリュシエンヌは手遅れだと思いつつ、何とか今の思いを吐露しようと努力する、がうまくいかなかった。
「だって…私をいきなり避けだしたと思ったら、今、こんなに私を心配するような様子をしたり…」
いきなり自分は何を言っているのだろう、話しだしている今がリュシエンヌの混乱の極致だった。
しかし、そんなリュシエンヌに対してリュファスは、リュシエンヌから零れた言葉を一字一句聞き逃さないように真剣に聞き入っている。
「リュファス様が何を考えて私に接しているのか分からないんです」
冷たくしたり、優しくしたり、気まぐれにしか思えない態度。それに振りまわされている自分の恨みを込めて言葉を続ける。
「リュファス様は何をしたいんですか?」
最後の方はこらえ切れなくなり、涙目になりながら言った。
言い終わったあと襲ってきたのは、喪失感だった。リュファスを責めてしまった自分。一介のメイドが尊い方にこんな言い方をしたら、ただでは済まないだろうということは重々理解していたつもりだった。
終わった。何かが終わった。
語り終えて何もかも終わった気分でいるリュシエンヌの心はやつれ果てていた。もはや、リュファスの顔を見る気も起きない。
このまま出て行ってくれないかな。
罰は後で受けるから、そんなリュシエンヌの思いも虚しく、リュファスは微動だりしない。
しばらくして、あまりにも動かなさ過ぎて不気味なリュファスの様子を窺おうとしたとき、腕を引かれた。
気付いたときは、リュファスの腕の中。
「…はっ…」
強く抱きしめられすぎて息をするものままならない。
体温が急激に上昇する。
前にもこうやって抱きしめられドキドキしたことがあるが、自分の気持ちを自覚している今の心臓の動きとは比にならない。
手をがっちりと拘束され、もがくこともできない。
きっと今、自分の顔は自分を抱きしめている人の髪と同じくらい真っ赤になっているのだろう。
ああ、この心臓の音が聞こえませんように。
「すまない」
しばらくリュシエンヌの肩に頭を預けていたリュファスはやがて一言、言った。