鯰(ナマズ)が跳ねた日
鯰は思案する。まだ、耐えられるか。耐えるべきか。
これまでも、大切な友達をあいつ等に汚され傷つけられ、たくさん怒ってたくさん泣いた。それでも、ここに留まり続けたのは、偏に、友達と離れたくなかったからだ。友達を守りたかったからだ。でも、気付いてしまった。自分がここにいるからいけないのだと。自分の存在があいつ等を勘違いさせ、ふんぞり返らせるのだと。
あいつ等は、自分勝手だ。あのちっちゃい脳味噌で森羅万象を理解できると、本気で思い込んでいる。こねくり回した数式に全てを当て嵌め、理解した気でいる。
あいつ等は強欲だ。一が充たされると億を要求してくる、そんな奴らだ。
多くの友達が、無茶苦茶な理論で力を奪われ変換させられ、姿を変えられ、心まで奪われた。心を奪われた友達は、もう二度と、元の姿に戻ることはなかった。
鯰がもっと早く気付いていれば、あんなに多くの友達を失わずに済んだかもしれない。もうこれ以上、友達が自分のせいで傷つけられるのは、耐えられなかった。友達が知れば、きっと、止めるだろう。だから、今しかなかった。みんなが寝静まり、闇が微睡はじめる、今しか。
『みんな、ごめん』
鯰は、体を数度大きく震わせると、地中から大宙へと飛び出して行った。
***
深夜三時。先ほど寝付いたばかりだというのに、スマホの緊急アラームでたたき起こされた。不協和音が、狭い自室の中で鳴り響いている。
きっと、いつものくるくる詐欺だろう。
再びに横になった瞬間、激しい揺れに襲われた。これまで経験したことのない程の大きな揺れに、ベッドにしがみ付く。必死の抵抗も空しく、俺の体はふわりと浮かんだ。そのまま、下に落ちていく。まるで、ジェットコースターにでも乗っているかのような不快感に襲われた。
こんなことなら、家賃をケチって木造のボロアパートなんか選ぶんじゃなかった。
木目調の天井とともに、俺は、奈落の底へと引きずり込まれていった。
「おーい、誰かいませんかー? 」
誰かが誰かを呼んでいる。次第に近づいてくるその声に、意識が覚醒していく。
同時に、体中に鈍い痛みが走った。訳も分からぬまま、手足に力を込めてみる。体は、ピクリとも動かなかった。
「誰かいませんかー? 聞こえたら返事をしてくださーい」
すぐそばで声が聞こえた。あれは、きっと、救助隊だ。生き埋めになった俺を、探しに来てくれたのだ。必死で、声を返そうとした。喉が痛い。カラカラに乾いていて、掠れた吐息が漏れ出るばかりだった。目と鼻の先が、巨人のソレであるかのように、とてつもなく遠くに感じられた。それでも、ここで諦める訳にはいかない。ここを逃せば、俺は、助からない。
「ここ、ここです。たすけて」
やっとこさ絞り出せたのが、たったその三音だった。それも、蚊が鳴くような小さな小さな声だ。
「いたぞ! 生存者が一名、ここにいるぞ」
それでも、救助隊員は俺に気づいてくれた。人々の歓声と、ガチャガチャとした作業音が心に響く。絶え間なく掛けられる励ましの声が、何よりもありがたかった。
俺は、まだ、神には見放されて居なかったようだ。
安堵した瞬間、涙と嗚咽が、堰を切ったようにあとからあとから溢れ出ていった。
「軽い脱水を起こしています。十分に水分補給をして安静にしていれば、すぐに回復するでしょう」
簡易医務室で診察を受けた俺は、経口補水液を処方された。段ボール製のベッドの上に寝かされ、時折、支給されてくるレトルトのおかゆを食べ、泥のようにまどろみつつ、水分補給をする。それを繰り返していると、翌日には普通に動き回れるほどまでに回復した。
幸い、打ち身程度で、目立った外傷は無い。発見された状況から考えると、奇跡に近いことらしかった。
救助された俺が運び込まれたのは、近くにある中学校の体育館だった。避難民であふれ返り、パーソナルスペースなど皆無だ。それにしたって、まだ、ベッドを使わせてもらえるだけ有難かった。健康な若い人は、床に薄手の布を敷き雑魚寝が当たり前の環境だった。
俺も、動き回れるようになってからは、ベッドを譲った。
物資が不足しているようで、支給されるものも、お茶に菓子パン一個やおにぎり一個という簡素なものだった。なにより、情報が不足していた。深夜に巨大な地震が起こったということ以外、正確なことは何もわからなかった。停電が続き、スマホの電波も入らない。俺自身、他県に住む両親や兄妹に無事であることを伝えたかったが、その手段すらなかった。
そんな最中、黄色い腕章をはめたスタッフが小袋を抱えてやってきた。各避難所には、役所から職員が数名ずつ、スタッフとして派遣されているらしい。体育館の中が、少し騒然となる。今から気象庁が緊急の記者会見を行うという。それを、みなで聞けるようにラジオを配るのだそうだ。
体育館に三つの大きな輪ができた。それぞれの中央にラジオがおかれている。スタッフが電池を入れ、周波数を調整し始めた。
『じーじー、ざーざー、ぞぜでば、ごでから、気象庁によるオセアニア大地震についての記者会見を始めます』
澄んだ男性アナウンサーの声で、会見がはじまった。
『日本時間4日午前2時58分ごろ、ユーラシアを震源とする巨大地震が発生しました』
気象庁職員のたどたどしい言葉が体育館に響く。そのたどたどしさが、却って、現実であることを印象付けた。
『マグニチュード12.0、最大震度7です。世界各国で被害が出ている模様です。日本国内でも、各地で被害が報告され始めています。現在わかっていることは以上です』
『毎朝新聞の佐々木です。震源がユーラシアとはどういうことでしょうか。大陸間を横断する程広範囲に渡る同時多発的地震ということですか』
『現在、情報を収集中です。断言はできませんが、そのように考えています』
『ありがとうございました』
『自由報道組合の田中と申します。我々がとある筋から入手した情報によると、ユーラシア大陸をえぐるような巨大な穴が観測されていると聞きましたが……』
『私共の元には、そういった情報は入っておりません』
『アメリカの人工衛星に、巨大鯰が地中から飛びだす姿が』
チン、チリーン
質問が途中で遮られ、男性アナウンサーが会見の終わりを告げた。
体育館内が一気に騒がしくなる。あちらこちらで、疑問を呈する声が上がっていた。
ユーラシアを震源とする巨大地震。国内でも各地で被害がでている。ユーラシア大陸がえぐられてできた巨大な穴。人工衛星がとらえた飛び出す巨大鯰。
得られた情報を反芻してみる。俺のちっぽけな脳味噌では、ファンタジーな世界が繰り広げられるばかりだった。
「皆さん落ち着いてください。数時間後に内閣総理大臣の記者会見が予定されています。もう少し詳しい情報がもたらされるでしょう。現在、情報が錯そうしています。くれぐれもパニックを起こさず落ち着いて行動してください」
スタッフが声を張り上げる。体育館内が少しだけ落ち着いた。
数時間後、俺たちは絶望にも近いどんよりとした重い空気に包み込まれていた。期待していた政府からの発表は、ほぼ気象庁と同じ内容だった。
『大丈夫です。心配ありません。落ち着いて行動してください』
新しく得られた情報は、総理大臣の口から繰り返される、何の信憑性もない魔法の三語だけだった。
同時多発的巨大地震。支援できる国は少なく被災国が多いのだから、これからますます物資が不足することは容易に想像できる。元気一杯な子供たちを眺める大人たちの顔色は、一様に青ざめていた。
夜中、俺はトイレへと起きた。結局、あれから、何もできぬまま時間だけがだらだらと過ぎていった。何もすることがないことが、こんなに辛いことだとは知らなかった。
仕事に行きたい。
あんなに嫌だった仕事すら恋しくなってしまうのだから、笑えた。職場の皆は、どうしているだろうか。
しゅーっ。
渡り廊下をふらふらと歩く俺の視界に、中庭の木々が急速に萎み枯れていく姿が飛び込んできた。
「終わりじゃ。我らは御鯰様の逆鱗に触れたのじゃ。何もかも、終わりじゃ」
呆然と見つめる俺の隣に、音もなく現れたお婆さんが、虚ろな目をして譫言のように呟いた。纏っている薄汚れた浴衣が、不気味さに拍車をかける。
「どういうことで……」
俺の言葉は、轟音に遮られた。地面にヒビが入り、枯れた木々ごと浮かび始める。異変に気付いた大人たちが、渡り廊下へと殺到してきた。宙へと浮かぶ土のついた木々や草花、小石をみて、呆然と立ち尽くす。
その内の一人が、もだえ苦しみ始めた。体表から水滴が滲み出し、どんどん干からびていく。隣にいる人々も次々に苦しみだした。沢山の水滴が、木や砂とともに天を目指して登っていく。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……」
隣で跪き、お祈りを捧げるお婆さんを、俺は呆然と見つめることしかできなかった。
***
小さな鯰が泳いでいる。
鯰を潤そうと、水が纏わりついた。鯰が擽ったそうに身を捩る。
鯰をふかふかにしようと、土が包み込んだ。鯰が気持ちよさそうにもぞもぞと動く。
鯰に美味しい木の実を食べさせようと、緑が育む。鯰は満腹になった。
鯰を温めようと、炎が盛る。満腹の鯰がまどろみ始めた。
鯰を休ませるため、闇が夢に誘う。鯰は夢の中でたくさん跳ねた。
鯰の新しい朝を光が照らす。鯰の楽しい一日がまた、始まった。
でも、もう、鯰はいない。ぽっかりと空いた大きな穴を見て、友達は悲しみにくれた。
一柱が、鯰を探すため大宙に飛び出した。次々に、残りの五柱もそのあとを追い始める。彼らの表情に、一切の迷いも悲しみも、そして、苦しみも、浮かんではいなかった。






