一〇年寝ていたら面倒を見ていた男の子が大きくなったようですが、ちょっと記憶にございません
「どうか早く目を覚ましてください」
小さく呟いた誰かの声が、鼓膜を震わせた。
随分と久方ぶりに聞いた音のような気がする。
だが誰の声なのかは分からない。聞き覚えの無い知らない者の声だ。
しかし祈りを捧げるように呟かれるその声は、耳元で何度も繰り返される。
「貴女は不死の魔女だと自分で言っていたではないですか。だから言われた通り灰を集めました。それからも貴女の為に大人にもなったし、頑張ったんですよ……」
低い声は語りかけてくるが、目を開けようにも瞼が重い。
体は溶けて無くなっているかのように動かない。
しかし体が動かないと感じられるということは、感覚が戻りつつあるという事でもある。
その証拠に、左の手のひらが何か温かいものに包まれていることが感じ取れた。
「ずっと、待っているんです。貴女が死んでからもう十年ですよ。まさか、このまま生き返らないつもりですか?いえ、そんなことないですよね。だったらあまり待たせないでくださいよ……」
感じている熱に意識を集めると、ぴくりと指が動かせた。
そして同時に石のように固まっていた肺に空気が流れ込んできた。
なるほど。
ようやく体に命が戻って来たのだと理解した。
ならば今日で丁度、死んだ日から数えて十年だということだ。
そこから先は雪が崩れ落ちるように簡単に、体全体に血が巡り始めたような感覚があった。
固く閉ざされていた瞼も、まるで封印を解かれたかのように軽く持ち上がる。
つい先ほどまで何も無かった無の場所にいたはずなのに、目の前が開けて、景色が見えた。
今自分がどこにいるのか、認識できた。
自分の体が横たえてあったのは質素だが清潔なベッドで、こじんまりとしているが良く整頓された部屋の中だった。
熱を感じる左手に目をやると、人の手にぎゅっと包まれていた。
道理で温かなわけだ。
そして自分の左手を包む二本の腕がどこに繋がっているのかと辿ると、見ず知らずの男の人間の顔に行きついた。
人間の女が放っておきそうにない、綺麗な顔をした男だった。
その男は何故か驚いたように目を見張り、そして泣きそうなような嬉しいような複雑な表情をして見せた。
「め、目覚めたのですか……?」
人間の男は唇を震わせているようだったが、初めて会ったのにもかかわらず何故そんなに感極まった表情をしているのかは分からない。
どうしてこの人間は枕元にいて左手を握り、そんな顔で見つめてくるのか。
不思議に思い、喉に手を当てた。
「君は誰だ?」
掠れてはいるが、声が出せた。
訊ねると、人間はピタリと動きを止めた。
「アルスです。確かに貴女が死んだあの日から十年経っていますから、僕の容姿が変わって驚くのも無理はないでしょうけど」
「アルス……?」
「はい。貴女はいつもアルと呼んでいましたが」
「いつも?それはいつもと形容できるような頻度で、私が君のような人間と親しくしていたという事か?」
自由に動くようになった腕で支えて上半身を起こしてから首をかしげると、アルスと名乗った人間は怪訝そうに眉を寄せた。
「……ユグドラ、よく意味が分かりません。貴女は道端で死を待つばかりだった幼い僕を拾って面倒を見てくれましたよね。一緒に住んでいたのですから、貴女が僕の名前をそう呼ぶのは毎日のことでしたよ」
アルスが嘘をついているようには見えなかった。
それに、自分の名前はユグドラだ。
人間が嘘をつこうにも魔女の真名など普通の人間が知る筈が無いのだから、アルスが出鱈目を騙っている訳でない事は理解した。
しかし、どうしても理解不能なことがある。
「私が、人間の子供を拾って面倒を見ていた……と君はそう言ったか?」
「そうですよ。誰も助けてくれなかった僕を助けてくれたのがユグドラで、貴女は幼かった僕を傍に置いて名前も食べ物も綺麗な洋服も与えてくれて、その上色々と教えてくれたじゃないですか。そんな貴女に一番驚いていたのは幼い日の僕です。ユグドラは自分のことなのに、何をそんなに驚いているのですか」
「いや……人間の子供を助けたなんて、本当に私か?」
「ええ、ユグドラですよ。過去にどうして僕を助けてくれたのかと聞いたら、捨て猫の代わりに拾っただけだと言われましたが、そんなことを言いながら人間を拾う魔女なんて、正真正銘貴女くらいでしょう?」
「いや。私は捨て猫と人間だったら迷わず捨て猫を拾うような魔女だったはずだ。そう、その筈なんだ……」
ユグドラは自らの額を軽く抑えた。
先ほどから感じていた頭の違和感。
まさか頭をかち割って見るわけにもいかないし、見たところで見た目に分かるものでもないかもしれないが、やはりおかしい。
「大丈夫ですか?さっきからどうしたのです」
「……どうも、空っぽだ」
「からっぽ?頭がですか?確かに貴女は時々突拍子もないことを言い出して僕を振り回しましてくれましたが、学者も尻尾を巻くくらい博識でしたよ。特にレスバともなれば勝てる者はこの大陸に存在しないのでは、と本気で思える程でしたけど」
「レスバは得意だ。それに積み重ねてきた知識はきちんと残っている。しかし無いんだ」
「……無い?何がですか?確かに可愛げはありませんが、それは昔からですよ」
アルスがシレっと失礼なことを言った気がしたが、今はそれどころではない。
ユグドラの中から無くなってしまったものが、あまりに大きなものだと気が付いたからだ。
「私はどうやら、記憶を失ってしまっているらしい」
「え?」
「確かに私はある時点で出会った友人たちや、出くわした出来事は覚えている。自分が不死鳥の魔女で灰から生き返る事ができることも憶えている。しかし記憶が断片的に抜け落ちていて、特に過去十五年程の記憶が何一つとして見当たらない」
「十五年……。では僕のことも何も覚えていない?」
「ああ。何一つとしてな」
アルスは極力面に出さないように努めているようだったが、迷子になってしまった子供のような表情を滲ませた。
しかし、迷子になったような顔をしたいのはユグドラの方だ。
死んでからの一〇年は再生に時間を費やしていたから記憶が無いのは当たり前だが、死ぬ間際と死ぬ前の五年の記憶が無いのは、決して気持ちの良いものではない。
五年のうちに自分が何をやったのか何一つ分からないというのは、極端に言えば自分が何者なのか分からない事と同義だ。
ユグドラはベッドの上で少し体勢を変えてから、いつの間にか離れてしまっていたアルスの手を両手で掴んだ。
「な、ゆ、ユグドラ、いきなりなにを」
驚いたアルスの顔が急に赤くなったが、ユグドラはそんな事には構わずそのまま話を続けた。
「私が死んだあと、君が灰を集めてくれたんだろう?だから今のところは、私が人間の面倒を見ていたという君の言い分を信じよう。だからまず教えてくれ。私はどうやって死んだんだ?」
質問を投げかけた途端、アルスの赤かった頬は潮が引いていくように元に戻った。
そしてそれだけでなく両の瞳も鋭く尖らせ、眉根を寄せて首を振った。
「ユグドラ、これだけは思い出さない方がいい。僕も思い出したくもない」
「どうしてもか?」
「ええ、どうしても」
「……なるほど、思い出したくない程嫌な死に方だったという訳か」
「……」
沈黙が最大の肯定だ。
しかし、死因は失った過去の記憶の中で最も大切なものの一つだ。
記憶が無くなった原因は死因にあるのかも知れないし、寿命で死んだわけでもない自分が何によって、どんな理由で命を落とすことになったのかも知りたい。
もう少し情報が欲しいと思ったユグドラは、握ったアルスの手に力を込めた。
「じゃあ質問を変えるとするよ。死ぬ間際、私は何か魔法を使っていたか?私は不死鳥の魔女らしく治癒の魔法を得意とするが、別の特殊な魔法を使っていたような覚えは?」
「あの日のことはもう思い出したくもありません」
「君なりに考えて、私の死因は私が記憶を失くした事に関係あると思うか?」
「知りません」
どれだけ質問を重ねても、アルスは何一つ決定的なことを喋ろうとはしなかった。
「頑なだな」
「ええ。僕が誰の背中を見て育ったと思ってるんです?誰よりも頑固な貴女ですよ」
「……なるほど。もし君の申告通り私に匹敵するほどの頑固者だと言うのなら、このまま力ずくという訳にも行かないのだろうな」
「ええ。それより、昔の話をすればあっけなく思い出すのではないですか?たとえばほら、絵を描くのが最高に下手なユグドラが僕にせがまれて描いた、不細工なデブ猫の話とか」
アルスは何かを引っ張り出そうとしたのかポケットに手を突っ込んだが、その前にユグドラが首を振った。
「いや、記憶がごっそり失われている感覚なんだ。忘れているわけでは無いから、きっかけがあっても思い出さないよ」
「……何故そう断定できるんです」
「私の記憶は何処かへ行ってしまった。それを再び自分の中へ取り戻さない限り、思い出せない事は分かるんだ。自分のことだからね」
以前記憶が入っていたであろう場所は今、ぽっかりと空白になっている。
人間には理解しがたい感覚かもしれないが、灰から蘇る不死鳥の魔女であるユグドラには分かる。
唯一無二で替えの利かない自分の記憶というものが何処かに行ってしまって、自分の中に存在していないことがはっきりと感じられる。
ユグドラは記憶を見つける術を考えていたが、やがてハタと顔を上げた。
「そうだ。私が死んで灰になった時、君はなにか不思議なものを見たりしなかっただろうか」
「不思議なものですか?」
「灰ではない何かを見なかっただろうか、という意味だよ」
「灰ではない何か……。そういえば変なものが集めたユグドラの灰に混ざっていたので、灰から復活する時に体の中に取り込まれたらいけないと思って、それは取り除きましたけど」
「変なもの?」
「ガラスの破片のような見た目なのに、風が無くても舞うくらい異常に軽い物です」
「それを見せてくれないか?」
「分かりました。地下倉庫に保管してありますから取ってきます」
そう言うなりアルスは立ち上がって扉を開けて出て行った。
小さな家なのか、開かれた扉のすぐ外でアルスが階段を下りていく音がする。
程なくして、アルスがユグドラの元へ戻ってきた。
手には極小の緑の石が入った小さな小瓶を握っている。
石は珍しい宝石のように光を反射しており、小さくなければ装飾品として大層な値打ちが付いたとしてもおかしくないような見た目をしていた。
「十年前は細かな粒子だったのに今は固まったのか、米粒程の小さな宝石のような見た目になってしまいました。おかしな物ですよね」
「いや、おかしな物ではない。君は優秀だ」
おかしなものだと冗談めかして笑ったアルスは、いたって真剣なユグドラを見つめて、怪訝そうに首を傾げた。
「なんですかいきなり。ユグドラは大抵、蟻の巣を突き止めたとか寝言を言わなかったとか、そんなことでしか僕を誉めてくれませんでしたけど、また碌でもない理由ですか」
「いいや、碌でもない訳が無い。この石は私の記憶だぞ」
「え?」
「とても小さくてほんの一部でしかないが、これは確かに私が失くした記憶だ」
「どうして分かるんですか」
「自分のことだ。それくらいは分かるさ。君はこれが最初は粒子だったと言ったが、散り散りになった私の記憶は、年月をかけて近くにあるもの同士でまとまったのだろうな」
ユグドラは硝子の小瓶に入った小さな緑色の石を懐かしそうに見つめた。
小さな石だから、取り込んでもほんの少しの記憶しか戻りはしないと予想される。
しかしこうしてユグドラの元から失われた記憶の姿を確かめることができたことは、大きな足掛かりとなるに違いない。
「生前の私が君に話しているかは知らないが、私が生き返るのはこれが四度目でな。しかし記憶を失くしたのはこれが初めてだった。だが記憶の見た目が分かっただけで、これから探すのが格段に容易になるだろう。君がこれを保管しておいてくれたおかげだ。礼を言うよ、ありがとう」
「いえ。僕は別に」
礼を言ったユグドラは早速、瓶の中の石をコロンと手のひらに取り出した。
十年かけて集まって宝石のようになったユグドラの記憶は、瓶越しに見るより更にキラキラと光って見える。
それが珍しいのか、アルスも興味深そうにユグドラの手元を覗き込んできた。
「綺麗ですね」
「そうだね。これはきっと美しい記憶なのだろう」
「ですかね……。それで、貴女はそれをどうやって取り込むつもりです?」
「決まっているよ。取り込むと言ったら、こうするのが定石というものだろう」
素朴な疑問を口にしたアレスに対して小さく微笑んだユグドラは、何の躊躇いもなく石を自らの口に放り込んだ。
ごくり。
極小の石だったので、水などの飲み物が無くても簡単に体内へ入れてしまえる。
そして石が喉を通ったと感じたところで、パッと花が咲いたようにユグドラの頭の中の空白だった部分に色がついた。
その色をあえて形容するなら、カラッと晴れた太陽の青い色だ。
記憶の中で、大きな夏の帽子をかぶったユグドラは小さな人間の男の子と手を繋いでいた。
そして村の外れの道を歩いている。
「なあユグドラ」
下から声がしたので見てみると、ユグドラと似た大きな夏帽子をかぶった男の子がユグドラの顔を仰ぎ見ていた。
「さっきの男、なんなんだよ」
「行きずりの人間だよ。道を聞かれた」
「そういう意味で聞いてるんじゃねえよ。アイツ、なんかユグドラの顔じろじろ見てたな。で、俺の顔睨んできた」
「気のせいだろう」
ユグドラが適当に答えると、男の子は「危機感ねえよな」とか何とかブツブツ言いながら、ユグドラとつないだ手をブラブラと揺らした。
取り込んだ記憶がほんの断片的な所為でまだ他人の記憶を見せられているような感覚が拭えないが、この男の子が成長する前のアルスなのだろう。
男の子は幼いしどこか乱雑な印象を受けるが、藍色の髪や藍色の目に現在のアルスとの共通点も見受けられる。
冷静に俯瞰していると、男の子は再び記憶の中のユグドラのことを呼んだ。
「ちなみに聞いといてやるが、ユグドラはどんな男が好きなんだ?やっぱり大人の方がいいのか?」
「どんな男?そうだね、聡明で丁寧な男性は好感が持てるね。個人的な見解だが一人称は私か僕辺りだと物腰柔らかに聞こえて好ましい。あと大人の方がいいかという質問だけど、私はそう考えたことは無いが、まあ成人以上なら何でもいいんじゃないか」
「じゃあ大人で賢くて優しいやつがいいのか?」
「簡潔に言うとそうなる」
「ふーん……」
男の子は少し考えて、歩く自らの足を見つめるようにしながら話を続けた。
「じゃあそういう男がいたらユグドラは、け、結婚したいか?」
「結婚?適齢期の人間がこぞってしたがるあれか。いいや」
「えっ。なんでだ?」
「第一に、魔女は人間のルールなんて気にしないからね。好きな時に適当な男を引っ掛けて刹那を楽しむのが一番さ」
「そ、それってあばずれってやつだろ?いつも本ばかり読んでるくせに、実はユグドラもそうなのか?」
「いや、私に経験は無いけれど、魔女は発作的に男を誘惑したくなる時期があるらしくてね。まあ私もその時になれば魔女の本能に身を任せることになるさ……おっと、この話はおチビさんにはまだ早かったかもしれないね」
「おい、おチビさんって呼ぶなって言ってるだろ!」
「おや、じゃあチビちゃんのほうがいいかな、チビちゃん?」
「こらやめろよ、馬鹿にしてるだろ!」
「な、なんて記憶を思い出しているんですか!言っておきますが、あれらの質問は小さい頃の無知な僕の気の迷いですからね?!いいですか、断じて絶対、意味がある訳じゃないですからね?!」
どのような記憶を取り戻したのかと聞かれたので話してやったら、アルスは顔を赤くしながら焦り出した。
冷静でクールそうな見た目に成長したアレスと、記憶の中の乱暴そうな男の子の反抗する姿はそっくりだった。
「折角思い出したところ恐縮ですけど、子供の言った事なんて忘れてくださいね?!」
「まあまあ、落ち着きなよ。当時の私も『拾った時は感情も無くボロ雑巾のようだったけど、一人前に俗っぽいことを喋るようになった。成長したらきっと女たらしになるだろう』と感じていたことを思い出したよ。この場面以外が抜け落ちている状態だから、これが自分に起こったことなのだと実感は無いのだけどね」
「いやいやそれより、女たらしにボロ雑巾……?そんなに酷いこと思ってたんですね」
「ははは。でもおかげでボロ雑巾の君を拾った時の記憶を取り戻すのが、少しだけ楽しみになった」
「……それはどうも」
女たらしのボロ雑巾と言われて少しムスッとした様子のアルスだったが、すぐに「そうだ」と呟いて席を立った。
足早に部屋を出て駆け足で戻ってきたアルスは水差しと硝子のコップ、それから林檎を手に持って帰ってきた。
「ユグドラが復活して驚いて気が回せていませんでしたが、喉は乾いていませんか」
「そのための水差しか。ありがとう、いただくよ」
「林檎は?食べられるのなら剥きますよ」
「私の好物を知っているんだな。だが林檎は要らない。まだ食べられないと思うんだ」
「分かりました」
コップを受け取り、ユグドラは冷えた水を喉に流し込んだ。
サラサラと腹に落ちていくこの感覚は実に一〇年ぶりだ。
死んだ当時の若さで生き返ることができるのはいいが、復活に長い年月のかかるこの能力はそう実用的でもない。
今回は灰を集めて、目覚めてからも不思議なほど至れり尽くせりしてくれるアルスがいるが、一〇歳で一度目に死んだ時は復活場所が冷山の山頂で、防寒具はおろか服も勿論無いような状態だったから、自らの治癒魔法で凍る手足を治し治し下山したのを覚えている。
水のお替りを貰い、ユグドラは一息ついた。
ベッド脇のアルスももう一つ持って来ていたコップで水を飲んだようで、同じく一息ついていた。
「ところでユグドラは、これからどうやって記憶を集めるつもりですか?」
「そうだね、風が無くても舞うくらいの私の記憶は、様々な場所に散らばってると考えられる。そして十年かけて寄り集まり、ある程度の大きさの石になっているのではないかな」
「じゃあ、各地の宝石屋や鉱石店を回るつもりですか?」
「私もそう考えていたところだ。君は優秀だね」
「まあ幸い自頭は悪くないようです。ならユグドラは旅に出るんですか?」
「そういう事になるのだろうね。無い記憶が在るというのは気持ちの良いものじゃないから、このままでは他の事が手に付かないだろうし」
「分かりました」
こうして目覚めてからもアルスが色々とユグドラを助けてくれて、朝が苦手なユグドラを起こしてくれることから始まり、新鮮なタマゴで朝食を作ったり、採ってきた花を見せてくれたり、洗濯をしてくれたりしていた。
流石に悪いと遠慮をしても、一〇年間いつもやっていたからと言われて取り付く島も無かった。
数日世話になり、ユグドラは完全に体の感覚を取り戻した。
治癒魔法も以前と遜色なく使えるし、掠れていた声も元通りになった。
あと足りないものは、やっぱり記憶だけだ。
着古してはいるが一等上等なローブを身に纏い、最低限の荷物を内ポケットに入れたユグドラは階段を降り、玄関口で様々な物を大きな背負い鞄に詰め込んでいるアルスに声をかけた。
「ありがとう。世話になったね。今君が荷造りしているのは私への選別かい?背負い鞄を二つなんて流石に持ちきれないけれどね」
「ユグドラに重い鞄二つ持たせるほど、僕も鬼では無いです。一つは僕が持ちますよ?」
顔を上げたアルスは首を傾げた。
しかし首をかしげたのはアルスだけでなく、ユグドラもだ。
「何を言っているんだ?それでは君も旅に出るように聞こえるが」
「そうですけど?」
「え?いやいや、私などに構っていては君の大切な時間が更に失われてしまうぞ。話を聞けば、君は私が死んだ時から一〇年ここにいたのだろう?君を拾ったという私に恩義を感じたのかもしれないが、正直に言ってそれはやり過ぎだ。私が君の世話をした五年を考えても、単純に君は二倍やり過ぎたことになる」
「……もしかしてついてくるなって言ってます?」
「そうだ」
屈んで荷造りをしていたアルスがスッと立ち上がった。
そしてユグドラの前に立つ。
記憶の中では小さな男の子だった人間が、今やユグドラを圧倒する程の高身長になっている。
「意味が分かりません。別にやりすぎなんかじゃないです。恩義ばかりでもない。僕は待ってたんですよ、一〇年間。また、会えると思って!」
「それで言うなら、または会えただろう?」
「三日だけじゃないですか!一〇年も待ったのに、たったの三日だけですか?!」
「君には感謝している。でも私は君のことをほとんど覚えていないんだよ。それにこれは貧乏な旅になるかもしれないし、毎日お風呂にも入れないかもしれない。君はもう小さな男の子では無いのだから、自分の好きにやればいいんだよ。それこそ、街の可愛い娘と結婚でもして幸せに暮らすのもいいだろう。幸い君は綺麗な顔をしているから相手には困らないだろうしね」
「そんなの興味ないです!!」
「なら他にもある。たとえば、旅に危険はつきものだよ。私は治癒は出来ても、いざという時に君を守ってあげられる程に強力な魔法は使えないし」
「じゃあユグドラだってもしもの時は危ないじゃないですか!僕は人間ですが、成長した今なら絶対ユグドラよりは戦える!」
ユグドラは、じっとアルスを見つめた。
アルスの瞳が揺らぐことは無く、そこに迷いは感じられなかった。
過去のユグドラは、この人間とどのような関係を築いたのだろう。もう少しだけ興味がわいてきた。
死ぬ前のユグドラは、この人間にここまでの決意させるような日々を送っていたのだろうか。
まだ完全に想像はつかないが、記憶を集めて行けばいずれ鮮明に分かるだろう。
「分かった。じゃあ、共に行こうか」
「え、いいのですか?」
「いいも何も、私が折れただけさ。君が行きたいと熱弁したのだろう?」
「しましたけど、ユグドラ相手だったらもう少し粘らなければいけないだろうと覚悟していたところだったので。昔なんて、クレヨンが欲しい僕は一週間泣き続けないと買ってもらえませんでしたからね」
ユグドラが折れたことでアルスは少し驚いたようだったが、結果には満足したのかほっと息をついていた。
そして彼は荷作りの終わった背負い鞄を軽々と背に担ぎ上げてから、もう一つの背負い鞄も手に取った。
「そちらは私が受けもとう」
「すみません。本当は一つにまとめたかったんですけど、どうしても必要そうな物ばかりで」
「謝る必要はない。二人分だ。背負い鞄二つで済んでいるのが奇跡なほどさ」
ユグドラは軽い背負い鞄を肩にかけ、家の外に出た。
そして家の扉に鍵をかけ、森を抜けて街へと続く道を辿り始めた。
森は大きいが、半日ほど歩くと大きな街に着く。
王都と川を挟んだ隣にある街なので人の行き来も多いし賑わっている。宝石屋や鉱石店も何件もあるだろうし、何らかの情報も手に入りそうだ。
「まず向かうのは森の先の街ですか?」
「そうだ。森の先の街であれば大橋もあるから次の場所への移動も楽だろう」
「そうですね。ですがあまりお勧めはしませんね」
「なぜだ?」
「今、街では女性を狙った殺しが多発してるんです。大きな凶器で切り裂かれたような死体ばかりなんですが、犯人はまだ捕まっていない」
「なるほど。それはあまり幸先が良いとは言えないな。復活したばかりなのにまた一〇年眠りにつくのは私も勘弁願いたいところだし」
「では遠回りになりますが、森を東に抜けるのではなく西へ抜けて隣国へ入りますか?」
「いや、このまま森の先の街へ行こう。気を付けていれば大丈夫だ」
「ユグドラは案外警戒心が無いんですよね……」
渋い顔をしたアルスを宥め、ユグドラ達は長い森を抜けて空が橙色に染まった頃に街に到着した。
街は広く、見たことの無い背の高い建物が建っている。
煌びやかな馬車は石畳を闊歩し、所狭しと並んだ店はそれぞれ個性が際立つ装飾で、見ているだけでも愉快だ。
「ここが街か。私の記憶の中のものよりも随分新しい建物が見受けられる。あ、異国の屋台も出ているな。行列のできているデザート屋も」
「はしゃがないでください。田舎者だと思われますよ」
「実際一〇年外に出ていなかった田舎者なんだ。少しばかり興奮してしまう事くらい許してくれ」
ユグドラはきょろきょろと周りを見回し、あれは何だこれは何だとアルスに質問した。
眠るユグドラの面倒を見ながら街で働いていたこともあるというアルスは街についてよく知っていて、ユグドラの面倒な質問にも詳細に答えてくれた。
「君、あれは何だ?」
「あれはアイスクリームです。冷たくて甘いクリームですよ」
「興味深いな。国外から入ってきた食べ物か?」
「そうです。酪農国家の隣国から。気になるなら食べます?買ってきますよ」
「いいのか?悪いな」
「いいえ。林檎味で良いですか?」
「林檎味もあるのか?素晴らしい。私の場合林檎味一択で迷う必要が無いから楽なんだよ」
川の見えるベンチにユグドラを座らせたアルスは、タッと足早にアイスクリームの屋台に向かって行った。
街は変わっても一五年前の記憶とあまり変わっていない川の景色を見ながら、ユグドラはアルスを待った。
「お待たせしました」
アイスクリームを両手に一つづつ持ったアルスはユグドラの隣に腰かけ、林檎味の方を手渡してくれた。
礼を言って早速アイスクリームなるものをスプーンですくって口に運ぶと、ヒヤリと冷たいものが舌の上で溶けてなくなった。
「なんだこれは、美味しいな。これを知らずに一〇年眠っていたのがもどかしく思える程美味しい」
「感動しすぎでは?」
「いいや。感動はしてもし過ぎるということは無いのだよ」
ユグドラはパクパクとアイスクリームを食べ進めた。
何とも癖になる美味しさだ。
自分のアイスクリームが半分程になってしまったところで、ユグドラはちらりと横を見た。
アルスのアイスクリームも同じく半分程度に減っている。
「林檎が至高だと分かってはいるのに、君のアイスクリームもなかなか美味しそうに見える。君は何味にしたんだ?」
「僕は葡萄です」
「ふうん、葡萄か。一般的には林檎と双璧をなす人気フレーバーだが、いかがなものか。君、一口おくれ」
「え?」
「ほら、一口分掬って私の口に突っ込んでくれればいいから」
アーンと口を開けて顔を寄せると、驚いた様子のアルスは身じろぎをした。
卑しい奴だと思ったのかもしれないと一瞬考えたがそれも杞憂に終わり、アルスはやたらと慎重にアイスクリームの載ったスプーンをユグドラに差し出した。
「……ど、どうぞ」
「はむ」
「……」
「なるほど、予想通り美味しいな」
「そうですか……」
アイスクリームを誉めたのに何故か赤くなっているアルスは、スプーンを見つめているようだった。
「どうした?君も林檎を味見したいか?仕方がない。私は貰ったものは倍にして返す主義でな。口を開けてくれ」
「え?」
「口を開けてくれと言ったんだ。さあ」
「もが」
スプーンで限界まで掬った林檎味のアイスクリームをアルスに分けてやると、彼はパッとユグドラに背を向けてしまった。
「すまない、多すぎたか?」
「ひひえ、らいじょうぶれす……」
そんなこともありつつ林檎も葡萄も甲乙つけがたかったアイスクリームを食べ終えて、ユグドラとアルスはホテルに荷物を預けてから街の宝石屋と鉱石店を手当たり次第に回ることにした。
「部屋はどうする?資金は無限では無いのだし私は一緒で良いぞ」
「いえ絶対別で」
「そうか?」
「何が何でも絶対別で」
「そんなに嫌がらなくても」
アルスが嫌がったので部屋は別にしたが、元々安めのホテルを選んだので金額的には許容範囲だった。
ユグドラは財布を引っ張り出そうとしたアルスを押しのけて宿泊料金を払ってから外に出た。
時刻は夕暮れ時を過ぎてもう暗くなっていたが、人の多い町は明るい。
重要な情報は夜に出回るという法則もあるし、つい口が軽くなってしまうのも夜だ。
これから宝石屋と鉱石店を回って本格的に情報集めの開始だ。
勿論、そんなにすぐに手掛かりに巡り合えるなどとは思っていない。
何軒回ってもそれらしい石もそれらしい情報も無かったが、それも予想の範囲内だ。
この広い国で小さな石を探すなんてある意味無謀なことを始めた一日目など、こんなものだ。
そんなことを思っていたのに、ユグドラはピタリと足を止めた。
「待て。今、少しだけ懐かしい感じがした」
横を歩いていたアルスがユグドラを追い越して少し先に進み、怪訝な顔をして行き過ぎた分戻ってくる。
「感じですか?ユグドラにしては随分とぼんやりした物言いですね」
「だが、私の記憶かもしれない」
「本当ですか?どこから?」
「一瞬横切った。この大通りを右から左へ歩いて行った人間の誰かが持っているのかもしれない」
「探しましょう」
アルスは頷き、ユグドラと共に大通りの真ん中で回れ左をして歩き出した。
程なくして、壺煙草の店と何やら怪しげな薬の店の間の角を曲がった薄暗がりの路地に、ユグドラは目的の人物を見つけた。
「あの男だ」
「高貴貴族のようですね」
「もう少し近づきたいな」
「でもどうやら女性と逢引をしているようですよ。コソコソしているあたり、浮気とか怪しげな関係なのでしょうか。周囲を警戒しています」
対角の店の壁に隠れるようにしながら様子を窺っているユグドラとアルスは目を少し細め、男の様子を観察した。
「君は優秀だな。私もあれは十中八九浮気現場だと思う。だが私たちは浮気を暴く探偵ではない。記憶の石だけ取り戻せるなら、あとは彼がどれだけ浮気をしていようと構わないさ」
「まあ、他人ですしね……。分かりました。さりげなく通りがかった通行人を装って近くへ寄ってみましょう」
「いや待て。あんないかにもな密会場所に普通の通行人が入り込む訳が無いだろう。私たちも浮気をしているように装うんだ」
「えっ」
「ほら、私の手を握れ。手の繋ぎ方はこうだ。これは覚えておくといいぞ。将来気になる女の子が出来たらこうして握ってやるんだ」
「や、待ってください……!」
逃げようとするアルスの手を無理やり掴んで、ユグドラはぎゅっと指を絡めた。
実はユグドラも空白の一五年を除けば恋人がいた記憶などないのだが、友人に経験豊富な魔女が多いだけあって、この手のテクニックは我が物顔で語ることができる。
「待っていたらホシが逃げる。ほら行くぞ。ついてこい」
強引に引っ張ると、アルスは渋々と言った風についてきた。
アルスは顔が赤いし全然近寄ってこないしで、浮気をしているようには見えないかもしれないが、ただの通行人にも見えないからまあ及第点だ。
アルスを引き摺るユグドラはギリギリのところまで近づいて、目的の路地の中を何気なく覗き込んだ。
「お前も結局俺の金目当てだった。違うか?」
「やだもー。違うわよ。貴方のこと愛してるわ」
「じゃあこの手紙は何だ。あて先はアレックスって奴だ。これから自由に使える金が手に入るから旅行に行こうと書いてある」
「……なーんだ、そこまでバレてたんだ。だからこんなとこに呼び出して。泣き落としでもするつもり?」
なんだか、修羅場のようだった。
アルスと顔を見合わせたユグドラは、コソコソとその場を後にした。
だがしっかりと男の姿を確認したし、身に着けていた物もくまなく目視した。
そして出た結論は、クロだ。
「見たか?あの男は大きなブローチを身に付けていた。間違いない、記憶の石だ」
「見ました。同じ緑の色をしていましたね。僕が持っていた物よりは随分大きかったですが」
宝石のように綺麗な石だからアクセサリーになっていたが、男が身に着けていたブローチは本来ユグドラのものだ。
こんなにも早く見つけてしまった。
しかし正直に記憶だから返してくれと言っても、信じてもらえないことは目に見えている。
そればかりか、新手の詐欺か泥棒かと疑われるかもしれない。
ではどうやって取り戻そうか。
ユグドラが腕を組んだ時、先ほどの男が逢引していた路地から震えるような悲鳴が聞こえてきた。
「え、何……?!いや、止めて……!!」
一瞬空耳かと思った。
だがアルスも驚いた顔をしているので、女の声が聞こえたのはユグドラだけではなかったようだ。
「悲鳴か?」
「悲鳴でしたね」
「痴話喧嘩の悲鳴では無さそうだったな?」
「無さそうでしたね」
不穏な空気が流れ、胸騒ぎがしたユグドラとアルスは路地に飛び込んだ。
しかし一瞬で、その場所が異常な存在に支配されていることを感じ取った。
その異常な存在、それは手の甲から巨大な刃物を生やした男で、丁度追い詰めた女を切りつけようとしていた。
人間が手の甲から刃物を生やせるなど聞いたことも無いし見たことも無いというのに、目の前では何が起こっている?
人間なのに、まるで魔法使いのようじゃないか。
「ユグドラ、下がって!」
アルスが驚いたユグドラを守るように咄嗟に前に出た。
ユグドラより戦えると言った言葉通り、アルスの危険への反応速度はユグドラよりも一秒も二秒も早かった。
だけどこんなに早くそれが証明されてしまうなんて、もしかしたらこの度は前途多難なのかもしれない。
だがそんな事よりユグドラが考えたのは、この男が最近巷を賑わせている事件の犯人なのではないかということだった。
どんな動機があるのか知らないが、女性ばかりを狙って切り裂く犯人像と、得体の知れない大きな凶器という特徴が一致している。
「なんだ、お前ら……」
ユグドラとアルスの登場で、手の甲から生える刃物を構え直した男が低く唸った。
まるで血走った目の猛獣のような声だ。
「一旦逃げよう」
「ユグドラは先に。今二人で背を見せたらやつに切り殺されます」
低い声で返事をしたアルスは、男と睨み合っていた。
一色触発で、肌に触れる空気がびりびりと痺れるようだ。
「君、ここであの鎌男の相手をする気か?」
「だから、逃げようとすればすぐに背中を切り裂かれてお陀仏ですよ」
「しかし馬鹿を言うな。君は丸腰だぞ?」
「多少の心得はありますし、怪我をしてもユグドラが治してくれますよね?」
「そんなことを言ったって怪我をすれば痛いし、死者の蘇生までは出来ないんだぞ?!」
ユグドラはアルスを後ろに引っ張ったが、その前に鎌の男がアルスに飛び掛かってきた。
「ユグドラ!」
アルスはユグドラを押して、男の攻撃から守ってくれた。
そして自分は男の注意を引き付けるように刃を避けて、地面を転がったついでに落ちていた鉄のパイプを拾って再び構え直した。
「適当な武器ですが、ないよりはマシです」
鉄パイプでもそれなりに見えてしまうのは、アルスの構え方がしっかりしているからなのかもしれない。きっと、アルスには武器を扱う心得もあるのだろう。
しかしそう感じたのはユグドラだけではなく、鎌の男もだったようだ。
男は嫌な音を立ててもう片方の手から大きな刃を生やし、二刀流の姿で構えた。
「見た、見たな……私とマリリンの間に入って、無粋な奴ら。生きては帰せない!」
魔法使いのようだと思ったが、前言撤回、男はもはや魔物のような殺気を放っていた。
両手の甲から巨大な鎌を生やした、恐ろしいモンスターにも見える。
「うああああああ!!!」
男は地面を蹴って、狂ったようにアルスに向かって来た。
ぶん!と空気を切り裂く音がして、アルスが首の皮一枚でそれを避けた。
しかしそのまま地面を転がったアルスは、路地のゴミ箱にぶつかった。
すぐに起き上がったものの、男はすかさず刃を光らせてアルスに向かって行く。
「きゃあああああ!!!」
男が殺そうとしていた女が、我に返ったように叫んだ。
手から刃物を生やした男が恐ろしいのだから無理はない。
だがそれによって男の注意が女に向けられた。
「黙れ!元々はお前が悪いんだ!いい顔して寄って来たくせに、結局俺の金目当てなんだ!今までの女みんなそうだ!だから殺してやるんだ!!」
男が刃を振り上げ、女に向かって力任せに振り下ろした。
顔面を蒼白にした女は凍り付いたように自分に向かって落ちてくる刃物を見つめていた。
このままでは、男の刃によって紙でも破るみたいにあっけなく裂けてしまう。
「危ない!」
叫んだ。
そしてユグドラの体は、女を庇う為に勝手に動いていた。
一〇年経てばユグドラは生き返るのだから、生き返れない女をこのまま見殺しにするのは可哀そうだと思ったのが理由だ。
実は、一度目も二度目も三度目も、ユグドラの死因はそんな感じだった。
だからそれに懲りて人里離れた場所で、誰かと関わることを極力排除して暮らしていた。
その筈だったから過去の自分が人間の子供を拾っていたことも謎だったし、その面倒を見ていたことも謎だった。
だが結局、ユグドラは懲りずに五回目もこうやって死ぬようだ。
「ユグドラ!貴女また一〇年眠りたくはないって言ってましたよね!僕だってまた一〇年は待ちたくないですよ!ほんと貴女はいつでも変わらなさすぎて泣けてきます」
結論から言うと、ユグドラは無事だった。
体を真っ二つに裂かれてもいないし、脳天に刃物が刺さっている訳でもない。
ユグドラと刃物の間に滑り込んんだアルスが、鎌の男の刃を鉄パイプで受け止めていたから、無事だったのだ。
「君は、本当に優秀だね」
「……まあ、間に合ったんで、今回ばかりは僕も自分が優秀だと素直に思ってますよ」
「自分に自信を持つことは良い事だ。私はここを乗り切ったら君を褒めちぎることにするよ。私の財布が許す限り君に褒美をあげようとも思うから、考えておいておくれ」
「ご褒美ですか」
「ああ。ご褒美だ」
「ふーん……」
ご褒美などには興味がないかと思わせるような淡白な返事を残して、アルスは立ち上がった。
そして案外丈夫な鉄パイプをブンと回して、凶器の男にその先を向ける。
「まあ、この男は倒さないといけないようなのでやりますけど」
そこから怒涛の攻防が始まった。
アルスは連続で迫りくる刃の嵐をかいくぐり、右へ左へと身を翻す。
凶器の男は無我夢中な様子で手の甲の刃を振り回し、アルスの首元を狙っている。
アルスは避けることは出来ているが、実際のところ防戦一方だ。
このままではじりじりとやられてしまうかもしれないと思ったが、形勢は一瞬で逆転した。
男が大きく空ぶった時、アルスが一気に男の懐に飛び込んだのだ。
そして力を込めて、腹を思いっきり殴打した。
「ぐは!!!」
男が腹を押さえて転倒した。
アルスはすかさず、男の両手の甲から生えている刃物を鉄パイプで叩き割った。
男の武器を奪ってから、アルスは両脇の建物にぶら下がっていた洗濯紐を拝借して男をきつく縛り上げた。
「君!なんとかやったか?!」
「……はあ、文字通りなんとか、ですけどね……。相手が箱入りの貴族のボンボンで、戦闘は素人だから助かったってかんじですね。僕は訓練をしてましたが、実戦は初めてで反省点はたくさんあります」
駆け寄ったユグドラを男に近づけない為にアルスはユグドラを押し返したが、そろそろ緊張も限界だったのか肩で息をしていた。
ユグドラはアルスに休むように伝え、縛り上げられた男の前に立った。
いかにも貴族が好みそうな高級な衣裳の主役、と言わんばかりに付けられた大きなブローチに手を伸ばす。
「それは返してもらうぞ」
「返す?何を言っているんだ!これは俺のものだぞ!」
「いいや、お前は到底理解しえないだろうから割愛するが、それは本来私のものだ」
「何を言っている!これは俺が大金を叩いて買った魔法の石だ!俺に女どもに制裁を与える力をくれた石だ!!」
「……何?」
ユグドラは男から記憶の石をむしり取ってやろうとしていたが、ピタリとその手を止めた。
「この石には力があって、俺の願いを形にしてくれたんだ!俺の、女に罰を与えたいという願いを叶えてくれた!」
「お前はこの石から先ほどの力を得たのか?」
「ああ。肌身離さず持って、毎日願っていたら力をくれた。俺のお守りなんだ。俺の救世主なんだ」
「お前、女性を何人も殺しているな?この石で得た力で」
「あいつらが悪いんだ!あいつら、俺に愛してるって言うのに、結局金を愛してただけだったんだ!嘘つきだったんだ!嘘つきを罰して何が悪い!」
「……そうか。私の記憶は悪用されたという訳か」
呟いたユグドラは小さく目を伏せ、今度は本当に記憶の石を男からむしり取った。
「酷い話だ。しかし分かったこともある」
ユグドラは恐ろしさに立てないでいる女に警吏を呼ぶように伝え、アルスの手を取ってホテルへ帰ろうと促した。
ホテルのアルスの部屋。
ユグドラはそこにズカズカと入りこんでいた。
「疲れたんですけど、出て行ってくれませんか?」
「君、あの男が記憶の石から異常な力を得ていたことについて熱く議論したくないのか?」
「今精神的に結構限界なので頭が回っていません」
「そうか。ならば仕方がない」
ユグドラは、ベッドに寝転がって枕に顔を埋め、死んだように動かないアルスの枕元に水を入れたコップを置いて、部屋を出ようとくるりと背を向けた。
「やっぱり待ってください、ユグドラ」
「なんだ?君が出て行けと言ったんだぞ?」
「やっぱりここにいてもいいですよ」
「そうか。ならば頭をあまり使わないで済む方の話を先にしようか」
呼び留められたユグドラは再び戻って来て、ベッドに腰かけた。
そして懐から取り出した記憶の石を、疲れた様子のアルスの手に握らせた。
先ほど貴族の男から取り返した。
「……なんですか?これ、貴女の記憶ですよね。取り込まないんですか?」
アルスは枕に顔を沈めたまま、手の上に感じた感触だけを頼りに質問してきた。
「君が持っているのはどうかと思ってね」
「どういう意味です?」
「君はこれからも私と来るんだろう?さっきの男は、これを毎日身に着けて毎日願ったら力を手にしたと言っていたから、君も同じことをすれば鉄パイプよりはマシな武器が手に入るんじゃないかと思ったのさ」
「……手から鎌を出せってことですか?」
「ここからは推測だが、きっと手に入る力は願いによると思うんだ」
「何を根拠に」
「根拠はないが、まあ、私の記憶があんな鎌になって誰かの命を奪っていたことは邪な願いによる不可抗力だったのだと、君に証明して欲しいという気持ちがあることも否めない」
「ふーん。じゃあユグドラは、僕ならマシな力を手に入れられるって思ってるわけですか」
「そういうことになるな」
「……良いですよ。じゃあユグドラの記憶、借ります。でも鎌が手から出てくるようになっても怒らないでくださいね」
アルスがキュッと記憶の石を握ったのを見て、ユグドラは小さく礼を言った。
それからすぐにアルスの寝息が聞こえてきたので、ユグドラは部屋を後にした。
記憶の石を探す旅は始まったばかりだ。
しかし、何かおかしな人間やおかしな事件を追って行けば、記憶の石に辿り着けるのではないかとユグドラは算段をつけている。
これは推測するに、あまり簡単な旅にはなりそうにない。
「だけど、記憶が抜け落ちているというのは全く気持ちの良いものじゃない。どんな些細な記憶でも私のものは私の中にあるべきだからね。諦める選択肢はないよ」