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 僕と猫目先輩は、猫目家に訪れた。

 玄関のドアノブを握る猫目先輩の手が、震えている。

「……大丈夫ですよ」

 その小さな手に、僕の手を重ねた。

 猫目先輩の震えが止まる。

「……うん」

 意を決した猫目先輩が、玄関扉を開けて、僕を自宅に招き入れてくれる。

 ただいま、と彼女は言わない。僕と同じだ。

 帰宅を伝えたこと自体が、母のヒステリーの琴線に触れかねないのだ。

 靴を脱ぎ、上がらせてもらう。「お邪魔します」と僕は小さく呟いた。

 猫目先輩が廊下を直進し、突き当たりのガラス窓がついているドアを開ける──ドアの先は、ダイニングキッチンだった。

 ダイニングテーブルに四つの椅子が並べられている。近くには、テレビ台とテレビ。

 その向こう側、キッチンに、背を向けて料理をしている猫目母の姿があった。

「……ただい」

「帰ってくるなって言ったでしょ」

 猫目先輩の「ただいま」に被せて、猫目母がこちらを見向きもせずに言った。

 言葉の冷たさ、強さに、猫目先輩が震える。

 そのか細い肩を引き寄せて、僕は息を吸い込んだ。

「猫目先輩のお母さん……、猫目先輩のことで、お話があるんです」

 僕の声に、ようやく猫目母は包丁から手を離し、こちらに振り向いた。

「……あんた、家にまで入ってきたの。関係ないでしょ、帰って」

 鋭い目つきに、圧に、怖くて負けそうになる。

 猫目先輩の肩に置いていないほうの手で拳を作り、グッと堪えた。

「関係あります。猫目先輩は病気なんです、話を聞いてください」

「ナツが病気? 適当なこと言わないで。医者でもない、ただの子供になにがわかるの」

 猫目先輩の星空恐怖症のことすら、猫目母は把握していないのか。

 猫目先輩が言い出せなかったのか、言う機会を得られなかったのか──そのどっちもだろう。

「僕も過去に罹ったことのある病気なので、わかります。病気を治さないと、猫目先輩は死んでしまうんです。お願いします、話を聞いてください!」

「……ナツが、死ぬ?」

 猫目母は僕から猫目先輩に視線を移動させる。

「そうなの? ナツ?」

「…………うん」

 訊かれた猫目先輩は、頷いた。

「……説明しなさい」

 死ぬという過激なワードチョイスが効いたのか、猫目母はコンロの火を消し、キッチンからダイニングまで移動してきた。

 なんとか話を聞いてもらえるところまで漕ぎ着けられたことに胸を撫で下ろす。

 ダイニングテーブルに向かい合うように、僕と猫目先輩、そして、猫目母は着席した。

「……星空恐怖症、という精神病を知っていますか?」

 慎重に、話を切り出す。

「……名前だけは」

 と、猫目母は言った。僕は簡単に説明する。

「……夜になるにつれて、自殺念慮が強くなる病です。このままでは、猫目先輩は、いつか自ら命を絶ってしまいます。そうしないためには──お母さんの協力が必要なんです」

「私の協力?」

 ……なんでそこで疑問符が浮かぶんだ。

 娘が病に冒されているのだから、親の協力が必要なのは当然だろう……!

「単刀直入に言います。猫目先輩が病気になってしまった原因は──お母さん、あなたのせいです」

「……はぁ?」

 あからさまに、猫目母の表情が歪んだ。

「ヒイラギ……!」

 猫目先輩が僕の腕を押さえる。

 だが、僕のイライラは止まらない。

「僕も、母がきっかけで星空恐怖症になりました。そのときの僕の状況と、今の猫目先輩の状況はまったく一緒なんです」

「……………………」

「お願いします──猫目先輩を、いじめないでください」

 僕は深々と頭を下げた。

 しばらく、沈黙が流れた。

 ──考えて、くれているのだろうか。

 考え直して、くれているのだろうか。

「……いじめてなんか、いないわよ」

 頭を下げたまま、待っていた言葉は、期待していた返答ではなかった。

 本気で自覚がないのか、理解した上で認めていないのか。

 猫目母を説得する言葉に、さらに、力がこもる。

「いじめています。やめてください。そうでなければ、猫目先輩が死んでしまいます」

「ヒイラギ、もういいから……!」

 猫目先輩が、僕の腕を握って止めようとするが──ここで引き下がるわけにはいかないのだ。

「お願いします! 猫目先輩は、もう限界なんです!」

 椅子から立ち上がって、九十度腰を曲げた。

 土下座したっていい。

 もう、猫目先輩への暴力をやめてくれ。

 一生懸命で、健気な彼女に、ただただ、生きていて欲しいんだ。

「…………」

 お辞儀の姿勢で、猫目母の言葉を待つ。


「私が悪いって言いたいの? ねえ」


 猫目母の声のトーンが一気に下がった。

 ──何も、伝わってない……!

 僕は顔を上げる。

「ねえ、ナツもそう思ってるの? 学歴が低い私が悪いって、私の頭が悪いからお前が死にそうだって言いたいの? お父さんみたいに」

 だんだんと早口に、ボリュームが大きくなっていく。

 猫目母の標的が、僕から猫目先輩に移ったのがわかった。

「ち、違うの、お母さん! 学歴とかじゃなくて……!」

 猫目先輩も、椅子から立ち上がって両手をぶんぶんと否定するように振る。猫目先輩を、猫目母は睨みつけ続けている。

 彼女を守らないと……!

「そうですよ、お母さん! なんでもかんでも、学歴が低いせいにしてしまうことこそが、学歴が低いと言われる原因なんじゃないですか?」

 猫目先輩に加勢して、庇うように、彼女の前に立った。

「あんたに……なにがわかる……。男のお前に……」

 猫目母が唸るように言った。

 僕は反論する。

「男とか女とか関係ないですよ! 人間、学歴だけじゃないでしょう!」

「ヒイラギ、止めて! それ以上、言わなくていいから!」

 猫目先輩が強い力で、僕の腕を揺さぶる。

「……それを言っていいのは、学歴がある人間だけだ! あの人みたいなことを言うな!!!」

 ガッ!

 猫目母はテーブルに置いてあったテレビのリモコンで、僕の頬を殴りつけた。

 冷たいプラスチックをぶつけられた衝撃は、たとえ女性の力であっても痛い。

「お前に……! お前に、なにがわかる!!」

 ぶん殴られて怯む僕に、猫目母は繰り返し殴り続ける。

 頭を庇って疼くまると、丸まった背中を、バシバシと叩かれた。

 瞼の裏に浮かぶのは、小学生の頃に親に暴力を振るわれた記憶──体が、硬直して動けなくなる。

「痛いっ! 痛いです……!」

「うるさい!! お前がナツを騙したんだろ! 病気だとか嘘を植え付けて! 他人の家に口を挟むな! 神様にでもなったつもりか!?」

 ──神様にでもなったつもり。

 春川先輩にも言われた言葉。

 僕は言葉の意味をわかっていなかった。

 周りが勝手にそう思っているだけで、僕にはまったくそんなつもりはないのだから。

「お母さん! もう、やめて! わたしが悪いの!」

 僕を殴り続ける猫目母を止めるために、猫目先輩が猫目母に抱きついた。

「離せ!」

「きゃあっ!」

 腰にまとわりついた娘を、猫目母は乱暴に振り払う。

 振り払われた衝撃で、猫目先輩は床に尻餅をついた。

「猫目先輩……!」

 僕はうずくまったまま、動けないでいる。

「どうしてお母さんに逆らう悪い子に育っちゃったの? こんなに金も手間もかけて育てたのに!!」

 猫目母の視線が、猫目先輩に移動する。

 手の中にあるリモコンが振り上げられ、猫目先輩の頭を叩いた。

 とても鈍くて、痛そうな音がした。

「……ごめんなさい……」

 猫目先輩の額から、一筋の血が流れる。

「どうして!? どうしてそんなに悪い子なの!? お母さんが悪いの!? ねえ!?」

 猫目母はヒステリーになって、金切り声を上げながら、猫目先輩の頬を引っ叩き続ける。

「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」

 ひたすら謝り倒す猫目先輩。

 もはや猫目先輩の言葉は、猫目母の耳には届いていないようだった。

「やめろぉ!!」

 ビビって動けなくなっていた自分の体を無理矢理起こして、猫目母と猫目先輩の間に入る。

「まだいたのか! 帰れってば!!」

「ぐっ……!」

 リモコンを投げつけられた。右目に当たり、片目が開かなくなる。右目を押さえて、よろける。目の上が切れたようで、血が流れてきた。

 左目が、猫目母がダイニングチェアに手をかけたのを捉える。

「邪魔なんだよ、お前!!」

 高く振り上げられた椅子。

 これが勢いよく、力任せに僕の頭に振り下ろされたら──


「死んでしまえぇぇぇぇぇ!!」


 本当に死んでしまうと思った。

 反射的に両腕を頭の上でクロスして、衝撃を受け止める体勢に入るが──果たして意味があるだろうか?

 きっと腕が折れるまで、椅子で殴られるだけなんじゃないか?

 僕は──ここで死んでしまうのだろうか?

 猫目先輩を助けられずに。

 猫目先輩を幸せにできずに。

 猫目先輩との思い出が、走馬灯みたいに次々と脳内を駆けていく。

 初対面のときに貰ったクッキーが美味しかった。

 SNSアカウントを作るために、屋上で猫目先輩の撮影会をしたのは楽しかった。

 秋本への恋心を利用して騙してしまったのは、申し訳なかったけれど、最終的に彼女は、許してくれた。

 体育倉庫に閉じ込められたとき、猫目先輩が助けに来てくれて、すごく嬉しかった。

 それから──星空の下で、「死ななきゃ」と泣き叫ぶ猫目先輩。


 ──「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 ──守らないと。

 今、ここで反撃しなかったら、いったい僕はなにしにここまで来たんだ?

 動けよ、僕。

 大人からの暴力なんて、慣れっこなんじゃないのか?

 大人の女性の力より、僕のほうが物理的には強いはずじゃないか。

 振り下ろされる椅子を受け止めて、奪い取って、それから──猫目母を拘束しよう。一旦、冷静になってもらおう。

 大丈夫だ、僕ならできる。

 クロスした腕の隙間から、猫目母の様子を見たとき──椅子はもう目の前まで来ていた。

 ──死。


「もうやめてえええええぇぇぇぇぇぇぇ!!!」


「……っ!?」

 猫目先輩の叫びと、猫目母の息を飲む音が聞こえた。

 僕が見た光景は、目を疑うもので。

 舞う鮮血。

 落とされる椅子。

 倒れる猫目先輩の母。


 ──猫目先輩が、キッチンにあった包丁で、母親を刺したのだ。


 カラン。

 包丁が、猫目先輩の手から離れて、床に転がる。

「……っ、……」

 猫目母は何度か痙攣していたが、すぐに動かなくなった。

その瞳に、もう光は宿っていない。

猫目母の腹から溢れた血が床に広がっていく。

「……ごめんなさい」

 返り血を浴びて、血まみれになった猫目先輩が、ヘタリとその場に座り込んだ。

「……ごめんなさい、お母さん……」

 猫目先輩の瞳から、涙がボロボロと溢れ出てくる。震える手で、スカートのポケットからスマホを取り出した。

「きゅ、救急車呼ばなきゃ……」

「意味ないですよ」

 僕は座り込んでいる猫目先輩の横まで行って、目線を合わせるべくしゃがんだ。

 泣きっぱなしの双眸が、唖然とした風に僕を見つめる。

「……もう、死んでます」

 猫目先輩の涙は、勢いを増して流れていく。

「ど、どうしよう……。わたし、なんてことを……!」

「猫目先輩……」

 血に塗れた手で頭を抱えたせいで、その綺麗なホワイトカラーの髪にも、赤い血がべっとりと付着する。

「猫目先輩、落ち着いてください……!」

「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」

「ナツ!!!」

 パニックになりかけている猫目先輩を、強く抱きしめた。

 僕の腕の中で、猫目先輩の呼吸が徐々にゆっくりしたものに変わっていく。

「猫目先輩……。よく聞いてください……」

「……うん」

 猫目先輩の細い両肩をつかんで、しっかりと目を合わせる。

 落ち着きを取り戻した猫目先輩は、僕の話を真剣に聞こうと鼻を啜った。


「僕は、猫目先輩のことが好きです」


「……え」

「猫目先輩を、愛しています」

「な、なんで……いま……」

 そんなこというの、と口パクだけで猫目先輩が訴える。

 殺人現場での、愛の告白は、場違いにも程があっただろう。

 それでも、僕はいま、ここで伝えなければいけない。


「だから、僕と逃げましょう」


「……逃げる?」

 キョトンとした顔をする猫目先輩に、僕は頷いた。

「はい。時効になる日が来るまで、二人で一緒に、どこかに隠れましょう」

「そんなこと……!」

「できます。僕と猫目先輩なら。僕を信じてください」

「……っ!」

 猫目先輩は迷っているようだった。無理はない。殺人を犯しておいて、逃げようなんて。ただの高校生が、警察から逃げ切れるはずがない。むしろ、金目の物を隠して、金銭目的の外部犯に仕立て上げたほうが、猫目先輩が罪に問われる確率が低くなるかも。

 ……自首すれば罪が軽くなる、と聞いたこともある。

「いざとなったら、とっておきの考えがあります」

「考え……?」

「今は言えませんが……」

 肝心なところをぼかす僕に、猫目先輩は不審そうな目線を向けてくるが、

「要は、猫目先輩と駆け落ちしたいってことです」

 と、僕は言った。

「か、駆け落ち!?」

 大それたワードに、猫目先輩の頬が赤く染まった。

 改めて、猫目先輩に向き直る。


「僕は、猫目先輩が好きです──僕と駆け落ちしてくれませんか?」


 頭を下げて、右手を差し出した。

 情けないことに、震えている。

「……本気、なんだね」

「はい……」

 僕の手を、柔らかいものが静かに包み込んだ。

 顔を上げると、猫目先輩が両手で、僕の右手を握っている。


「……ヒイラギ──わたしと駆け落ちしてください」


 涙と笑みを浮かべた猫目先輩が、こくりと頷いた。

 僕は彼女に顔を近づける。

 彼女もそれを受け入れた。

 

 唇と、唇が、重なった。


 僕と猫目先輩は恋人になった。

 ──彼女の母親の、亡骸の横で。

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