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 翌日、猫目先輩は学校を休んだ。

 そりゃあ、学校を休むことだってあるだろう。頭では理解しているものの、いつも僕を待っていた美少女が、校門に姿を現さなかったとき、僕はどうしようもなくガッカリしてしまった。

 昨日の終わりは、なんだか体調が悪そうだったし、今日休んでいたとしてもおかしくはない。調子が心配だったが、連絡手段もないので彼女の容態を知るためには、結局猫目先輩が元気になって登校してくる日を待つほかはないのだ。

 だから、今日の昼休みは久しぶりに、クラスの男子グループに紛れて弁当を広げていた。

「なぁ、ちょっといい?」

「ん?」

 僕とは異なる男子グループに所属しているはずの秋本が話しかけてきた。僕はちょうど弁当に蓋をしたところ。食べ終わる頃合いを見計らっていたのかもしれない。

 珍しい。

 秋本とは別に仲が悪いわけではないが、仲良しなわけでもない。廊下ですれ違えば挨拶を交わすし、もちろん、ノートの貸し借りだってできる。

 だが、所詮、その程度。

 そのため、秋本が神妙な面持ちで僕に声をかけたのは意外だった。

「別にいいけど、なに?」

「話があるんだ」

 そう言って、秋本は教室の扉に向かう。ついてこい、という意味らしい。

 僕は特別思い当たる節もないので、大人しく秋本の後ろを追いかけていく。

 話があるとしか言われなかったが、教室から連れ出すからには、クラスメイトには聞かれたくない話なんだろう。

 僕と秋本だけの共通点なんかあっただろうか?

 さっぱり思いつかない。

 強いて言うなら、夏前で半袖の制服を選ぶ生徒が増えた中で、長袖を貫き通してることぐらいだろうか。

 それがなんだと言うのだ。

 クラスの人気者で男女共に評判の高い秋本が、比較的大人しい男子グループに混ざって趣味の話題に興じる僕に、何の用があるのだろう?

 首をひねりながら歩いていると、不意に秋本が足を止めた。

 そこは、屋上に続く階段の踊り場──人気がないスポットとして名が通っている場所だ。屋上は開放されているとはいえ、屋上に来る生徒はそこまで多くない。

「話ってなに?」

 僕に背を向けたまま、動きも喋りもしない秋本に本題を促した。

「…………昨日、さ。どこか出掛けてたか?」

 昨日?

 昨日は猫目先輩と春川先輩と、駅前で遊んでいた日だ。

「出掛けてたけど……、どうして?」

「…………」

 秋本の質問を肯定した上で、さらに疑問を重ねると、秋本は黙りこくった。

 少しだけ俯いて、目線を左右に動かしている。

 ……そんなに、言いにくい話題なのか?


「……春川さんと、会ってたか?」


 なるほど、と合点がいった。

 僕が先輩達と会っているところを見ていたのか。

 駅前はこの高校の生徒達の遊びスポットでもある。秋本もそこにいてもおかしくはない。

 僕が秋本に気づかなかっただけで、秋本は僕と先輩達が一緒にいるところを目撃したのだろう。

「バイト帰りに、駅前で二人がいるの、見かけて」

 いつもハキハキとした喋り口調の秋本が、もにょもにょと言葉を濁している。

 好きな人と、それを知っている男友達が休日に一緒にいる場面を見たら、問い詰めたくもなるだろう。

 秋本の不安も最もだ。

「会ってたけど……」

「じゃあ!」

 二の句を紡ぐ前に、秋本がそれを遮った。

 俯きがちだった顔を上げる。その表情は、普段の明るい秋本からは想像もつかないような、悲壮に満ちたものだった。


「春川さんと、キス、してたのか……!?」


 え?

 春川先輩と、キス?

 そんな馬鹿な。

 春川先輩が僕とそんな真似は冗談でもしたくないだろうし、僕が無理矢理迫ろうものなら、どんな目に遭うかわかったもんじゃない。

 秋本はなにを勘違いして、どうしてそういう思い込みになってしまったのか。

 考えようとして思い出した。


 ──「……春川さんと、会ってたか?」


 秋本は一言も、猫目先輩とは言っていない。

 僕が会いに行ったのは、猫目先輩なのに。

 猫目先輩ではなく、春川先輩と二人きりで会っていると勘違いしたということは──猫目先輩がいないシーンだけを目撃してしまったからだ。

 つまり、猫目先輩が突然体調不良で一人、帰ってしまったあとだ。

 とはいえ、あのあと、僕は春川先輩にブチギレられていただけなのだが──恋人同士のキスシーンのような甘い雰囲気とは程遠い。

 なにをどうしたらキスしているように見間違えるんだ……?

 ──まさか、胸ぐらつかまれていたときか?

 確かに吐息が触れ合うほどの至近距離ではあったけれど。

 遠目から見たら、角度によってはキスしている二人に見間違えるのだろうか?

 ありえるのか? そんなことが。

 ……でも、それしか、考えられない。

「なぁ、答えろよ。お前、春川さんと付き合ってるのか?」

 眉をハの字にした秋本が、僕の両肩をつかんでくる。前後に軽く揺さぶられた。

 ──こいつは、僕と春川先輩が付き合っていると勘違いしているのか?

 本来なら、丁寧に説明して誤解を解いてやるのが友達というものだろう。

 僕が思い浮かんだことは違った。


 これは、チャンスだ。


 猫目先輩が恋を諦められないなら、秋本に諦めさせればいい。

 それで、猫目先輩と秋本が付き合えば、猫目先輩は幸せになる。

 どうせ高校生の恋愛だ。一ヶ月もすれば別れるだろう。

 猫目先輩の視界に僕が入るのは、その後でもいい。むしろそれくらいのほうが、僕の大事さにより深く気づいてくれるかもしれない。

 秋本が猫目先輩を幸せにしたのち、僕の番が回ってくるのだ。


「うん、そうだよ。春川先輩と付き合ってる」


 嘘をついた。簡単に。

 人を傷つける嘘を、僕はあと何回重ねるのだろう。

 嘘とは知らない秋本の顔が、一瞬のうちに絶望に歪んでいく。

「お前は……! 俺が春川さんのことが好きだと知りながら……!」

「…………」

 僕はなにも言わない。

 僕の無言を、秋本が勝手に解釈していくだけだ。

「この……っ!!」

 秋本の右手が、拳の形となって、振り上げられる。

 ──殴られる……っ!

 反射的に目をつむったが、衝撃はやってこない。

 秋本の右手は、振り上げられたまま静止していた。かすかに震えている。

 その拳は僕の頬に叩き込まれることなく、耐えるように下げられた。

「…………クソ野郎」

 言い捨てて、秋本は去っていった。

 クラスではいつも大きな存在に感じていた秋本の後ろ姿が、どこか弱々しげで。

 怒りと憎しみと悔しさと。色んな感情が秋本の中でごっちゃごちゃになっているのが、見てとれた。

 酷いことを、したと思う。

 それでも、僕は間違っていないとも思うのだ。

「……僕が、猫目先輩を幸せにしますからね……」

 囁いた決意は誰の耳に届くこともなく、ただ静かに、僕は嘘を貫き通す使命を果たそうと誓ったのだった。



 翌日、猫目先輩は学校に来た。

 来た、というより、校門で僕を待ち構えていた。

「おはよ〜! 後輩くん! 今日も荷物が重いなぁ!」

「……持ちますよ」

 休んでいたのが夢だったみたいに、元気で明るい猫目先輩がいた。「調子はどうですか?」なんて、野暮なことを訊くのはやめよう。

 一緒に昇降口に入り、猫目先輩が三年生の下駄箱で靴を履き替えている間に、二人分の荷物を持ちながら、僕も靴を履き替えようと下駄箱を開けた。

 すると、一枚の手紙が入っていた。

「……またか」

 どうせ春川先輩だろう。

 一昨日、逆鱗に触れてしまったからな。嫌がらせを再開させたのか。

 ──しかし、その割には違和感があった。

 手紙がやたら、ちゃんとしているのだ。

 文房具屋で売っていそうな、可愛らしいペンギンが描かれた小さな便箋。きちんと封筒に入れられている。

 今までの傾向からして、春川先輩の嫌がらせに用いられた手紙は、ルーズリーフを四つ折りにした、即席で作れるテキトーなものだった。

 春川先輩の仕業じゃないとしたら、猫目先輩が……? いや、手紙を渡すくらいなら、二人きりで会話するチャンスはいくらでもある。

 猫目先輩じゃない。

 春川先輩でもない。

 つまり、これは──猫目先輩でも春川先輩でもなく、第三の女子か……!?

 ついに僕にもモテ期がやってきたようだ。

 春川先輩と初対面のときにも思ったそれは、悲しいほど思い違いだった。

 だが、今度こそ、正真正銘、僕に好意を寄せている女子からのラブレターではないのだろうか……!?

 僕はまだ猫目先輩が靴を履き替えている途中なのを確認してから、封筒を開く。


 ──「放課後、校庭の体育倉庫に来てください」


 女の子らしい丸文字で、便箋の中央に小さく、そう書かれていた。

 ……これは、もしかしなくても、呼び出し……!?

 生まれて初めての女子からの純粋な手紙に、興奮を隠せない。顔がにやけそうになったので、周りから変な目で見られないように、口元を手で覆った。

 誰からだ……!?

 便箋にも、封筒にも、差出人は書かれていなかった。差出人は僕のことを一方的に知っているが、僕は向こうを知らないのかもしれない。だから、あえて書かなかったのかな。

 呼び出しに応じた際に、自己紹介から始める算段の可能性もある。

 相手を知っていようが、知らまいが、勇気を出して僕の下駄箱に手紙を入れてくれたんだ。僕はそれに誠心誠意応じる義務がある。

 手紙を丁寧に折りたたみ直して、それを封筒に入れ戻す。

「なに見てるの?」

「うわぁ!?」

 猫目先輩が背後に立っていた。音もなく。

 背伸びをして、僕の肩口から手元を覗こうとするが、あいにく身長が足りていないのでなにも見えないようだ。

「なんでもないですよ、教室、行きましょう」

「えぇ〜? 気になる〜!」

 別に猫目先輩に話してもいいのだが、靴箱に手紙を入れた女子は、きっと秘密にしておいてほしいから呼び出したのだろう。なんだか、裏切るようで気が引けた。

「わかった、ラブレターでしょ!」

 猫目先輩がびしりと人差し指を向けてくる。

「それで、放課後呼び出されたんでしょ!」

 全部、正解だ。

 ぎくりとしたが、顔に出ないように取り繕う。

「違いますよ、本当になんでもないですから」

「いたずらかもしれないよ〜!?」

「ラブレター前提で話を進めないでください」

「後輩くんにも、彼女ができるのかぁ」

「話、一つも聞かないんですね」

 キャッキャと楽しそうな猫目先輩の背中を押して、僕達は三年生のフロアへと向かった。



 帰りのホームルームが終わると同時に、僕は浮き足立って教室を出た。

 この学校に、体育倉庫は二つある。

 体育館の中にある小さな部屋のような体育倉庫と、校庭にあるプレハブ小屋の体育館倉庫だ。それぞれ、屋外用と屋内用の授業に合わせた設備が収納されている。

 手紙で指定されていたのは、外のほうだった。

 校庭側の体育倉庫は、体育館の隣に位置しているという知識はあるものの、実際に足を運んだ試しはない。

 体育倉庫なんて、体育委員以外あまり行かない場所だ。体育館内の倉庫ならならまだしも、校庭にあるほうは、なおさら行かない。

僕は昇降口で上履きから靴に履き替えて、校門ではなく、体育倉庫の方向へ。

授業が終わったばかりの夏前の空は、まだまだ明るかった。

昇降口にいる他の生徒達は、ほとんどが運動部のようで。放課後すぐに直帰しようという生徒は、あまりいない。

「あ……」

「…………」

 その中の一人、秋本と目が合った。同じ教室から出てきたはずなのに、まったく気づかなかった。

 今までの関係なら、お互い別れの挨拶をして手を振っていたが──秋本はふい、と顔を逸らした。なにも言わずに、昇降口から出ていく。

 ズキリ、と胸が痛んだ気がした。

 ──なに、一丁前に傷ついてんだよ、と僕は自分に言い聞かせる。

 友達が減るというのは、こういうことだ。

 友達ではなくなるほど──口もききたくなくなるほどの仕打ちを、僕は彼にしでかしたのだ。

 僕は校門へ急ぐ彼とは反対方向につま先を向けた。

 秋本は今日もバイトなのだろうか。

平日に週五でバイトしているって、前に言ってたもんな。

 どれだけ傷ついても──失恋したとしても、きちんと働きに行く彼を尊敬する。

 ……いや、もう秋本のことは忘れよう。

 すぐに体育倉庫に到着した。手紙で呼び出すほどの人が来ない場所と言えば、裏だろうか。

 倉庫の裏に周ろうとしたとき、両開きの引き戸タイプの入口が、わずかに開いているのに気づいた。

 ──この中にいるのか……?

「こんにちはー……」

 僕は声をかけながら、びくびくと体育倉庫の中を覗いた。

 ……真っ暗だ。

なにも見えない。

扉を大きく開けようにも、取っ手が汚いのであまり触りたくない。扉も重量感がある。

 早く来すぎてしまったか……?

 それとも、暗闇の中で待っているのか……?

 頭の中で思考するが、どちらにせよ、入ってみないことには始まらない。

 けれど──僕はこの中に入りたくはない。

 嫌いなのだ、狭くて暗いところが。

「お手紙読んで来ましたー……。誰かいるんですかー……?」

 返事はない。

 ……入るしかないのか。

 太陽に照らされて噴き出る汗とは異なる、嫌な汗が額を流れる。ふぅーと息を吐き出した。

 落ち着け、大丈夫だ、きっと。

 そうだ、扉は開けっぱなしにしよう。

 僕は意を決して、取っ手に手をかけた。力を入れて、僕の体が通れるくらいに隙間を開ける。

体育倉庫の内側に体を滑り込ませると、建物の中は、ひんやりと肌寒かった。

 ──暗い。

「すみませーん……」

 なんだか、誰もいないレジ前で店員を呼んでいるような気分だ。こんなに真っ暗な店はないけれど。

 ……やっぱり、相手より早く到着してしまったのか?

「すみませーん……」

 もう一度、呼びかけてみたとき──


 ガラガラガラッ!!


「えっ!?」

 突然、入口の扉が閉められた。

 扉の隙間から差し込んでいた光が遮断され、完全な暗闇となる。

 ガチャリ、と外から鍵をかけられた音がした。

「だ、誰だ!?」

 背にしていた扉に振り返る。取っ手をつかんで開けようとしたが、ガタガタと揺れるだけで、ほんの少しも開かなかった。

「誰かそこにいるんだろ!? ここから出してくれ!!」

 自力では開けられないと悟り、僕はドンドンと扉を叩く。

 やめてくれ、暗闇は本当にだめなんだ。

 暗闇の密室は、本当に──!

 僕の必死な内情を嘲笑うかのように、返ってきた言葉は、無慈悲だった。


「ウゼェんだよ、お前」


 知らない、男の声。

 いや、この声、どこかで聞いたことが──

「一年のくせに、いつまでも猫目につきまといやがって。いい加減にしろ」

 台詞から、相手が猫目先輩に好意を寄せている三年生男子だとわかった。

 三年生で、猫目先輩が好きな男子──僕は一人、思い当たった。

 猫目先輩に振られていた、坊主頭の三年生だ。

 通りで聞き覚えがあるはずだ。

「そこで頭冷やしな。明日の一限には、見つけてもらえるだろ。これに懲りたら、もう猫目に近づくなよ」

「出してくれ!!」

 坊主頭がなにを言っているのか、もう僕の頭には入ってこない。理解できない。

 それ以上に、ここに閉じ込められる状況が耐えられない。

 何度叩いても、もう外からの応答はなかった。足音が遠のいていく。

「出して! 誰か! 誰かぁ!!」

 バンバン! ドンドン!

 扉をパーで叩いても、グーで殴っても──外で誰かが気づいてくれる気配はない。

「誰か……ゲホッ! ゲホッ!」

 手が痛い。砂埃だらけの体育倉庫で大声を出し続けていたせいで、喉に異物が入ってきた。喉を押さえて、前屈みで大きく咳き込む。

 咳が落ち着いて、顔を上げて──気づいてしまった。

 暗闇。密室。

 脳内に蘇る、小学六年生の頃の記憶。


 ──「そこで反省するまで、出さないから」


そこにいないはずの、母の声。

「やめて……、ごめんなさい……、ごめんなさい……」

 僕は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。

 震えが止まらない。

 景色が滲む。

 目に涙が溜まってきたのだ。

「ごめんなさい……、反省、してるから……! 次は、もっと頑張るから……!」

 しゃがみ込むどころか、お尻をついて体育座りになり、僕はもうその場から動けなくなった。



 現在、高校一年生である僕は、かつて、中学受験に全落ちした。

 志望校も滑り止めも、全部。全部だ。

 もちろん塾には小学四年生から通っていたし、塾内でも決して悪い成績ではなかった。

 それでも、受験したすべての私立中学に落ちたのだ。

 その結果──母は失望した。

「あんたの塾と受験に、どれだけの大金を払ってると思ってるのよ」

 そんなの、知らないよ。

 お金の話なんて、わからないよ。

 パァン!

 母は、僕の頬を平手打ちした。

 あの痛みは、高校生になった今でも忘れられない。

「あんたには、もう期待しないわ」

 僕の頬を引っ叩いても溜飲が下がらなかったらしい母は、泣きじゃくる僕の腕をつかんで──


 押し入れに閉じ込めた。


 僕が出られないように、外からつっかえ棒をして。

「どうして、第一志望に受からなかったのか、そこでじっくり考えて、反省してね」

昼間にふざけて入る押し入れが、閉じ込められた瞬間、こんなに恐ろしい空間に変化するのだと、そのとき初めて知った。

 父は、そんな母に対してなにも言わなかった。やめてやれ、とも、もっと躾けよう、とも。

 押し入れの戸を壊したら、出られたのかもしれないが──そのあとで、母からなにをされるのかが怖くて、僕は母に戸を開けてもらえるのを待つしかなかった。

 ずっと泣いて、何度も謝った。

 それでも、誰からも、一言も返してもらえなかった。

 お腹も空いて、泣き疲れて、眠っては目を覚ますを繰り返した。

 夜ご飯前に閉じ込められ、出してもらえたのは、次の日の朝──泣きすぎたせいで目はパンパンに腫れ、謝罪を繰り返していたせいで声は枯れていた。

 ボロボロになった僕を見て、母はようやく僕が反省したのだと思ったらしい。

「次は、高校受験だから」

 また、地獄が始まるのだと、幼いながらに僕は悟った。

 その日以来、「暗闇の密室に独りでいること」が異常に怖くなった。お化けが出そう、とかの恐怖ではなく、動けなくなってしまうのだ。

 中学時代は、友達が一人もできずに終わった。

 グループで勉強会を開いているクラスメイトが羨ましかった。

 孤独は辛いものだと、身を持って思い知った。

 それでも、耐えるしかなかった。

その甲斐あり、高校受験は、なんとか志望校に補欠合格することができたが──中学三年生の春休み、母は言った。

「次は、大学受験だから」

 地獄はまだ、終わっていない。

 中学の反省を活かし、高校では勉強をしつつも誰にも嫌われないように、クラスメイトとは、当たり障りない関わり方を心がけている。

 現在、塾に通わせてもらっているが、塾こそが、僕の唯一の逃げ場となっていた──夜遅くまで、家に帰らなくて済むから。

 そんな孤独が怖い僕が、出会ったのだ──彼女と。

 愛されないと泣く、猫目先輩と。



 体育座りの姿勢のまま、眠ってしまったらしい。

 涙の通った痕が乾いて、頬の一部がカピカピになっている。

 膝から顔を上げてもなにも見えない。

 ……今、何時だろう。

 ズボンの尻ポケットに入っているスマホを取り出そうとして、やめた。

 ……どうでもいいか、どうせ朝になるまで出られないんだ。

 どうやら、自己防衛として体が『諦めること』を覚えたらしい。

 僕は再び膝に顔を埋めた。

「……くーん……!」

 どうしてこうなっちゃったんだろう。

 ただ、猫目先輩に幸せになって欲しかっただけなのに。

「……いくーん……!」

 猫目先輩を裏切って、春川先輩を怒らせて、秋本を傷つけて。

 僕のやっていることって、いったいなんなんだろう。

 最初は、猫目先輩の恋を諦めさせて、僕が彼女を幸せにしようと思った。

でも猫目先輩の好きな人は秋本で。秋本の恋が終われば、秋本が猫目先輩を幸せにできる。僕が彼女を幸せにするのは、その後でも遅くない。

そう思っていたのに。

「……後輩くーん!」

 なんだか、猫目先輩の空耳まで聞こえてくる始末だ。

 ……もう、やめてくれよ。

 猫目先輩に近づくことを、世界中の人が反対しているみたいだ。

 それでも、僕は──

「後輩くん! いたら返事して! ここにいるの!?」

 バンバン、と。

 体育倉庫の扉が、外側から叩かれた──猫目先輩の声と共に。

「……猫目先輩?」

「後輩くん!」

 僕の小さな声も、猫目先輩は拾ってくれた。

「ここにいるんだね!? 今、開けてあげるから!!」

 猫目先輩がそう言うや否や、ガチャガチャと鍵を鍵穴に突っ込む音がした。

 焦っているのか、少々手こずったあと、両開きの扉が開かれる。

「後輩くん!!」

 猫目先輩が、立っていた。

 汗だくで、肩で息をしている。

 外はいつの間にか日が沈んで、真っ暗になっていて、星が瞬いていた。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった僕とは真逆に、綺麗な夜空を背にした猫目先輩は、ヒーローに見えた。

「どうして……ここが……」

「男子が、きみを閉じ込めたって話してるのを聞いたの! だから、探しに来た!」

 ……探してくれたのか、僕を。

 息を切らすほどに。汗で髪が乱れるほどに。

 僕は、猫目先輩に酷いことをしたというのに。

 それを知らない彼女は、それでも、僕を助けてくれるのか。

 僕のそばに、いてくれると言うのか。

 体育座りの状態で動けない僕に、猫目先輩が近寄ってくる。

「辛かったでしょう? もう、大丈夫だよ」

 砂だらけの床であるにも関わらず、猫目先輩は膝立ちになって、僕を抱きしめた。

 猫目先輩の匂いがする。

 甘くて清潔感のある匂いだ。

 猫目先輩の心臓の音がする。

 心が安らぐ音だ。

「……ありがとう、ございます……」

「うん」

 僕はようやくそれだけ絞り出して、猫目先輩の背中に手を回した。

 まだ出会って日の浅い僕を、助けてくれた。

 探し回って、見つけ出してくれた。

 これほどまでに心優しい彼女が、自殺を図るなんて、あってはいけない。

 ──この人は、絶対に幸せにならなきゃいけない。

「落ち着いた?」

「……はい」

 猫目先輩が離れていく。微かな温もりを残して。

 名残惜しかったが、立ち上がった猫目先輩が手を差し出してくれた。

 僕はその手をとって、立ち上がる。

「いこっか」

 暗闇でも、猫目先輩が笑っているのが伝わる。

 僕らは手を繋いで、並んで、体育倉庫を出た。

 星と月が、とても美しい夜だった。

「お家に帰ろう?」

 帰宅を促す猫目先輩に、僕は頷いた。

 嘘だ。

 帰りたい家などない。

 それに──塾に行かずに家に帰れば、母になにを言われるかわかったもんじゃない。

 スマホの画面を見ると、まだ塾が開いている時間だった。彼女と解散したら、僕はその足で塾に向かうつもりだ。

 僕が通っている塾は、大人数で決まった時間に授業を受ける形式ではなく、パソコンから録画されている授業の映像を観て個人で学習する形式だ。都合のいい時間に行けば大丈夫。好きな時間に授業を受けられるのだ。

 しかし、これから塾に行くなんて言えば、きっと猫目先輩は止めるだろう。

 ──彼女は、優しい人だから。

 だから、僕は言わない。ちゃんと真っ直ぐ家に帰ると嘘をつく。

 あぁ、またこの人に嘘をついてしまった。

「……星、綺麗だね」

 猫目先輩が握った手をぎゅっと少しだけ強く握った。

 僕と猫目先輩は、学校から一番近い駅に向かって、閑静な住宅街を歩いている。

「……星、好きなんですか?」

「……きらい」

 猫目先輩は言った。

「夜は、きらい。星も、月も」

 星も、月も、アクセサリーのモチーフによくあしらわれているのを見かける。それらが嫌いと言う女の子は、珍しいと思った──というより、夜が嫌いというのが正しいのか。

「……どうして夜が嫌いなんですか?」

「……から」

 猫目先輩の声が急に小さくなった。

 聞き取れない。

「え?」

 聞き返す。

 猫目先輩は足を止めた。

 繋いでいた手が、離される。

 彼女の双眼が、僕を見据えた。

 涙が、溜まっていた。


「死にたくなるから」


 ──夜になると、死にたくなる。

 その気持ちを、僕は知っている。

 ぽろりと、目に溜まっていた涙が、彼女の頬を流れ落ちた。

「あ……どうして、わたし、泣いて……」

 泣いていることに、初めて気づいたように、猫目先輩は涙を拭った。

 ボロボロ。ポロポロ。

 猫目先輩の意思とは関係なく、涙は溢れていく。

 本格的に泣き出した猫目先輩は、頭を抱え、ぐしゃぐしゃと強く掻きむしった。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 誰に向かってなのか、わからない謝罪を繰り返し始めた。

「猫目先輩……」

 呼びかけても、聞こえているようには思えなかった。

 彼女の頬を流れる大粒の涙はもう拭われない。

 透き通ったホワイトの髪の毛が、ボサボサになっていく。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


「猫目先輩!!」

 僕は彼女の両手首をつかんだ。

 泣きっぱなしの瞳が、僕を映す。

「し、死ななきゃ……。早く、死なないと……」

「生きてください! 猫目先輩! 猫目先輩は生きているだけでいいんです!!」

 住宅街だというのに躊躇いなく大声を出した。

 それくらいしないと、彼女に届かないと思ったから。

 その甲斐あって、猫目先輩はハッとした表情に変わった。

「あ…………、後輩、くん……」

 僕はポケットからハンカチを取り出して、猫目先輩の涙を拭う。きめ細かな肌は、強く触れると壊してしまいそうだった。

 猫目先輩は、大人しくハンカチを頬に当てられている。泣いていたせいで荒れていた呼吸も、穏やかなものに変化していく。

「……わたし、病気なの」

 ずっと黙っていた猫目先輩が、口を開いた。ハンカチを僕から受け取って、自身で目の際の涙を拭く。


「……星空恐怖症なの」


 ──星空恐怖症。

 僕は、その病気を知っている。

 精神病の一種で、簡単に言うと、『死にたくなる病』──その症状は夜が深くなればなるほど、強く現れる。

 自分の意思ではコントロールできないくらいの、希死念慮。

 症状は人それぞれで、呼吸が荒くなったり、泣いたり。共通点は、最終的に自殺すること。


 猫目先輩は、星空恐怖症を患っていた。


 パズルのピースがはまるみたいに、合点がいった。

 夜の駅のホームで、飛び込もうとしていたのは、星空恐怖症の症状だったのだ。

 春川先輩と三人で遊んだ夕方に、急に呼吸が荒くなっていたのもそう。

 そして、今。

 明るくて、可愛くて、健気な彼女は、精神病を抱えていたのだ。

 ──僕は、そんな猫目先輩を支えたい思いが、心の底から湧き上がってきた。

「……僕も、一時期、なったことがあります、星空恐怖症」

「えっ!? どうやって治したの!?」

「……お恥ずかしながら、現実逃避で」

 ──そう。

 小学六年生のとき、母に押し入れに閉じ込められた事件をきっかけに、僕は星空恐怖症を発症した。

 と言っても、両親には到底言い出せなかったので、病院に行って医師から診断書をもらったわけではないが。

 毎晩泣いていた自分に異変を感じて、ネットで調べたら症状が一致していたのだ。

 僕は、自分を守るために現実から逃げた。

 親にバレないように、塾をサボった日もあった。

 仮病を使って、学校を休んだ日もあった。

 そのせいで、高校受験は、志望校にすんなり受かるでもなく、補欠合格だったのだ。

「……そっか。すごいね」

 と、猫目先輩は泣き腫らした目で微笑んだ。

 ……猫目先輩は、そういう自分を守るための『サボり』が苦手なんだろう。

 物事全部と真面目に向き合って、自分を疲弊させてしまっているのだろう。

 なんとなく、そんな気がした。

「……ねぇ、後輩くん。この病気のこと、秘密にしてもらってもいい?」

 申し訳なさそうに、猫目先輩がお願いしてくる。

 みっともない、と思っているかもしれない──かつての僕が、そうだったように。

 僕は、この病気を甘えだ、恥ずかしい、と決めつけていた。

「言われなくても、誰にも言いふらしたりしませんよ」

「……ありがとう、約束だよ」

 猫目先輩が小指を差し出してくる。

 僕も、小指を出して、絡ませた。

「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたら、はーりせーんぼーん、のーます」

 針千本どころじゃ済まないだろうな、きっと。

 吐いてきた嘘の数々を知ったら、猫目先輩は僕のことを軽蔑するだろうか。

 ──本当に、針を飲まされても、文句は言えない。

「ゆびきった!」

 小指が離される。

 猫目先輩は「えへへ」と笑っていた。

 ……まぁ、いっか。

 猫目先輩が、笑顔になれるのなら。

 針も千本飲もう。何度でも嘘をつこう。

 彼女が幸せになれる嘘を。

「……後輩くん、ハンカチに名前書くタイプなんだ?」

 猫目先輩が、僕のハンカチをまじまじと見て言った。

「あ、これは……、幼稚園から使っているやつなので……」

 なんとなく恥ずかしくなって、理由を話すが、彼女は「ふーん」と相槌を打つだけだった。

「名前、珍しいね」

「漢字は珍しいかもしれませんが、読み方は普通ですよ」

「わたし、今日から、後輩くんじゃなくて、ヒイラギって呼ぶ!」

 また突拍子もないことを言い出す。

「僕の名前、ヒイラギじゃないんですが……」

「いいじゃん! あだ名! わたしのことも、ナツって呼んでいいよ!」

 猫目先輩が呼び方を勝手に決めてくるが、二つ上の先輩を下の名前で呼び捨てなんて、恐れ多すぎて出来っこない。

「……呼び捨ては、僕にはハードルが高いので、猫目先輩のままでお願いします……」

「えぇ〜!? じゃあ、呼べるようになったら、呼んでよ!」

 猫目先輩は「これも約束!」と言って、笑った。

 とびきり弾けた、笑顔だった。

 猫目先輩に幸せになってほしいと、星に願いたくなるほどに。

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