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「え……? どうして……?」
秋本とのデートの待ち合わせ場所に、約束の時間を少し過ぎた頃、やってきた僕を見て、猫目先輩は驚きと動揺を隠せずにいた。
予想通り、私服の猫目先輩はかなり可愛かった。通り過ぎる男たちが、少年からおじさんまで、皆二度見して振り返る。
胸にリボンがあしらわれた白い五分袖のワンピースは、膝が隠れるくらいの丈で、真っ白な猫目先輩の髪色と肌にマッチしていた。清楚感と透明感が倍増され、消えてしまいそうなほどだ。
いつもはストレートな髪の毛も、毛先がわずかに内側に巻かれている。アイロンで巻いたのだろう。よく見れば、化粧もしているようだったが、よく見ないとわからないレベルだ。まつ毛が長くなり、頬は桃色に染まり、唇は赤ピンクっぽくなっていた。
けばくなってはいない、ナチュラルなメイク。けれども、確かに学校の猫目先輩よりも可愛くなっている。今の彼女に「付き合ってください」なんて言われたら、断れる男が地球上に何人いるのだろうか。
今日のために、気合を入れてきたのが伝わってくる。
──僕は、そんな猫目先輩の希望を打ち砕きに来たのだ。
「秋本から今朝、急に行けなくなったって、メッセージが来たんです……。それを、伝えにきました」
「そ、そっかぁ……」
口元は笑みを崩さないまま、猫目先輩はうつむいた。
がっかりしている。悲しんでいる。
でも、後輩である僕がいる手前、気まずくならないように、泣いて愚痴りたいのを我慢している。
……やっぱり、猫目先輩は、健気で可愛らしい。
「酷いやつですよね。まさか、ドタキャンするなんて思いませんでした」
首を横に振ってため息をつく。猫目先輩は同意も否定もしない。
デートを当日にドタキャン。
これの示す意味は──脈なしだ。
それでも、猫目先輩は少しでも希望に賭けてみたいようで、
「……ねぇ、秋本くんは、どうして来れなくなったの? なにか、理由とか言ってなかった?」
と、控えめに尋ねてきた。
──きた。
絶対に訊かれると想定していた質問。
僕はあらかじめ答えを用意していた。
──秋本には好きな人がいる、と。
その相手が春川先輩であると伝えるつもりはないが、猫目先輩の恋は終焉を迎えることになるだろう。
猫目先輩の片思いは、ここで無惨にも舞い散るのだ──僕が、舞い散らせる。
そして、あわよくばそのままデートに持ち込む。
失恋して傷ついた猫目先輩を慰めるデートだ。
そうすれば、猫目先輩もきっと、僕の存在の大きさに気がつくはず。
猫目先輩と二人でお茶をする未来を想像して、ニヤつくのを抑えながら、僕は口を開いた。
「秋本には──……」
「ほらね〜。来てよかった〜」
僕の言葉を遮って現れたのは、
「春川先輩……」
猫目先輩の背後から、彼女の肩に顎を乗せて、春川先輩が笑っていた。
春川先輩のタレ目が、猫目先輩からは見えない位置から、鋭く敵意を持って僕を睨みつける。
「……どうして、ここにいるんですか……」
驚きと困惑でぐちゃぐちゃな状態から、やっとの思いで声を絞り出す。
春川先輩は余裕の笑みを崩さず、猫目先輩の頭を撫でた。
「だって、猫目が相談してきたから、心配になって来ちゃったんだよね〜。本当に秋本が来たら、邪魔しないで帰るつもりだったんだけど……ねえ?」
「…………」
僕は答えない──答えられない。
すべて、見透かされているような気がした。
デートに悩む猫目先輩が、着て行く服だとか髪型だとか、春川先輩に相談するのは自然な流れだ。昨日にでも、春川先輩が猫目先輩の家に訪ねて来たのかもしれない。
そこで、デートをする時間や場所、さらにはどういう経緯でデートをするに至ったのかまで、詳しい事情を共有し──春川先輩は、察したんだ。
いや、察したとまではいかなくても、怪しんだんだろう。
本当に、僕がデートの約束を取り付けたのかどうか。
「せっかく来たんだから、猫目、私と遊ぼうよ〜」
僕の作戦をぶっ潰すことに成功した春川先輩は、僕にはもう用がないとでも言いたげに、猫目先輩を自身のほうに振り向かせた。
「…………っ」
女子同士の親友二人で休日を満喫するというのなら、後輩で男の僕はお邪魔虫だ。
──帰るしかない、か……。
今回は失敗したけれど、猫目先輩の恋を応援する立場はまだ続いている。
今後、猫目先輩に真実を告げるタイミングはいくらでもやってくるだろう。
今日のところは、引くしかない。
僕は踵を返して、猫目先輩達に背を向ける。
「三人で遊ぼ!!」
そんな僕を、猫目先輩が呼び止めた。足を止めて振り返ると、秋本にドタキャンされて沈んでいた猫目先輩は、いつの間にかいつもの明るい表情を取り戻していた。
「春川も、後輩くんと仲良くなりたいって言ってたじゃん! 良い機会だし、三人で遊ぼうよ! ね! ね!」
猫目先輩は僕と春川先輩を交互に見やる。
珍しく、春川先輩は苦笑いを浮かべていた。それはそうだろう。春川先輩は、猫目先輩の前では僕に悪意を剥き出しにはできないのだから。
春川先輩が休日に僕と遊びたいわけがない──なんて、口が裂けても言えない。
「いや、私は興味があるって言っただけで……」
「同じじゃん!」
まったく違う。
春川先輩の言っている興味とは、猫目先輩に近づく変な虫がいる、と注意を引きつけられたって意味だ。
「後輩くんは? いいでしょ?」
猫目先輩は春川先輩からの了承も得ないで、僕に話を振ってきた。
「ぼ、僕は……」
猫目先輩の期待に満ちたキラキラした瞳。
その後ろにいる、春川先輩の嫌悪に満ちたどろどろした目。
二人の先輩を見比べて、どうしようもない僕は、
「僕は、どっちでも大丈夫です……」
と、判断を彼女達に委ねてしまった。
途端に、猫目先輩の口角は上がり、春川先輩は肩を落とした。
「じゃあ決定だね! お昼食べよ! わたし、お腹すいた! あ、あそこのファミレス行こ!」
「ちょ、ちょっと〜! 猫目〜!?」
ドタキャンのショックはどこへやら、猫目先輩は有無を言わさぬ姿勢で、僕と春川先輩の手を引っ張って行くのだった。
ファミレスで注文を終えた後の沈黙が嫌いだ。
だが、猫目先輩がその場にいる限りにおいて、沈黙が発生することは滅多にない。
「観たい映画があるんだよね」
と、猫目先輩は唐突に言った。
「なんの映画〜?」
「『十日後に死ぬ花嫁』!」
春川先輩の問いかけに、猫目先輩は嬉しそうに答えた。
それは僕もCMで観たことがある。
あらすじは、ほぼタイトルまんまなのだが、視点が斬新だとSNSで話題になっていたはず。
普通、花嫁が死ぬ映画といえば、その恋人である彼氏視点で語られるのだが──この映画の視点はブライダル業界で働く一人の女性だ。
余命があと十日しかない女性の夢──結婚式を挙げたいという夢を、その式場は十日で叶えられるのか、とかなんとか、ブライダル業界の大変さを知ることができる。
どんな結婚式にしたいか、などのヒアリングを通して、主人公とともに、花嫁の人生や彼女の人間関係を振り返る感動もの──。
「猫目、そういう泣ける恋愛もの好きだよね〜」
「今回は泣けるだけじゃないって話題なの!」
「はいは〜い。食べ終わったら、それ観ようか〜」
先輩達の会話に入れないまま、次の予定が決まってしまった。
上映時間までファミレスで時間を潰し、僕達は映画館に向かうことになった。
映画館を出た僕らは、三人とも疲れた目をしていた。
目が疲れたんじゃない。
心が疲れたんだ。
……とんでもない映画だった。
女性向けのお涙頂戴恋愛映画だと思って、油断していた。
映画の後、どこに行くのか知らないが、なんとなく駅前を歩く先輩二人に、僕はなにも考えずについていく。
「えぐかった……」
脱力したように呟く猫目先輩に、春川先輩が頷く。
「まさか、十日後が余命じゃなくて、花嫁が自殺する日だったとはね〜」
確かに、医師に余命を告げられた描写はなかった。周りの人間には秘密にしている余命を、花嫁の結婚式を担当した主人公にだけ明かすのも、今思えば伏線だったのだ。
「素敵な旦那さんに愛されて、虐待をしてきた両親ももう死んでて、これから幸せになるぞってときに、どうして自殺しちゃうんでしょうかね……」
「まぁ、感じ方は人それぞれだから〜」
僕の感想に、春川先輩が相槌を打つ。猫目先輩がいる前では、あからさまに邪険にはしないらしい。大人の対応だ。
「あぁ〜! 暗い話はもう終わり! プリクラ撮ろ! プリ!」
映画のオチに衝撃を受けてぐったりしていた猫目先輩が、痺れを切らしたように声を上げ、僕は驚いた。
ぷ、プリクラ!?
そんなもの、撮ったことない。撮ったことどころか、そのコーナーに足を踏み入れたこともない。
それを男子とではなく、女子と撮るだって?
恥ずかしすぎる!
「プリクラは、僕には、ちょっと……ハードルが高いっていうか……」
「なに言ってるの? 記念だよ、記念! もう着いたし!」
猫目先輩が指差した先には、四階建てのゲームセンター。
いつの間に、ゲームセンターの近くまで来ていたんだ……!?
僕だけが目的もなく駅前をぶらぶらしていると思っていただけで、猫目先輩は目的地を目指して歩いていたのだ。
あれよあれよという間にプリクラーコーナーに連れ込まれる。
ここのゲームセンターは三階そのものが、プリクラコーナーになっているらしく、人が数人入れそうな大きさの箱が配置できる限り、所狭しと並んでいた。
この並んでいる箱が、全部プリクラ機なのか……。
どれもこれも、可愛い女の子がこちらを見ている写真がプリントされた、分厚い暖簾のようなカバーに覆われている。暖簾、とは言っても、銭湯の暖簾のように頭だけくぐるタイプではなく、膝下まで長さのある暖簾だ。そこに書かれているキャッチコピーがどれも違うが、どう違うのかはわからない。
見たこともない世界に、キョロキョロしながら僕は猫目先輩の後ろを歩いていく。春川先輩は、僕の後ろを歩いていた。
先頭を歩く猫目先輩は、暖簾の下を覗き込みながら、足が見えるかどうかで、空いているのかチェックしているようだった。
「あ、ここ空いてる!」
「じゃあ、そこにしよ〜。一年生くんは、先に入ってて〜」
僕はあれよあれよと一つの箱に押し込まれた。
箱の中は、半分黄緑色だった。いわゆる、グリーンバックというやつだろう。グリーンバックの反対側には、カメラとタッチパネル。その両側に荷物を置けそうなスペースがある。
……これが、プリクラ機か……。
『先に、お金を入れてね!』
「うわっ!」
荷物置き場の近くに設置されていたスピーカーから、甲高い女の子の声が響いた。
びっくりした……。
『先に、お金を入れてね!』
もう一度、同じ台詞が繰り返される。
そうか、料金は箱の外で支払うのか。僕も何割か出さないと、申し訳ない。
そう思って、箱から外に出ようとしたとき、
「お待たせ〜」
機械に百円玉を投入し終わった先輩達が、入ってきた。
……遅かったか。
『撮影モードを選んでね!』
再び、スピーカーから音声が流れる。撮影準備の指示だ。よく聞いて理解しようとする僕とは違い、猫目先輩と春川先輩は説明も聞かずに前屈みになって、タッチパネルを軽快に操作する。
「猫目、美白どうする〜?」
「美白にすると、わたし光って白飛びしちゃうから、ノーマルで!」
「え〜? 私は盛りたいから一段階だけ許して〜」
なにを決めているのか、さっぱり理解できない。
もしかしたら、日本語ではないのかもしれない。
呆然としているうちに、撮影前の操作は終わったようだ。二人はタッチパネルから顔を上げ、僕を挟むように立った。
……え!?
「ほら、後輩くん! カメラはここだよ! 画面じゃなくて、カメラを見るの!」
美少女二人に挟まれて、顔を赤らめる僕をお構いなしに、猫目先輩はタッチパネルの上部にあるカメラを指す。
タッチパネルは操作画面から、カメラ視点に切り替わっていて、可愛い女の子に囲まれてあたふたしている情けない男が映っていた。
「ポーズどうする〜? 揃える〜?」
春川先輩もマイペースに、ポーズの相談を猫目先輩に持ちかける。
「最初は普通にピースで良くない?」
「ピースね、ピース」
納得したのか、春川先輩はどのピースにするのか、画面を見ながらポーズを悩み始めた。
僕はどちらにもついていけない。
か、カメラ!? ピース!?
『準備はいい? 3、2、1……』
混乱の渦から脱出できない僕に、カウントダウンは無情にも降り注いだ。待ってくれ、せめて十秒前から始めてくれ……!
えっと、えっと、手をピースにして、カメラを見て──パシャ!
『こんな感じだよ!』
撮影された写真が、画面に映し出される。
目の横にピースサインを持ってきた可愛らしい猫目先輩と、ピースサインで顎を挟んだ可愛らしい春川先輩。
そして──胸の前でピースをして直立した、半目の僕。
カッコ悪い。
きっと二人に、爆笑されて、馬鹿にされるんだ。それとも、こんな写真いらない、と切り捨てられるかもしれない。
しょうがないじゃないか、初めてなんだから。
恥ずかしさと情けなさがぐわっと押し寄せてくる。笑いものにされる未来を想像して覚悟を決めた。
しかし、かけられた言葉は、予想を裏切ったもので。
「あぁ、半目になっちゃったか。嫌だったら、落書きで消してあげるよ」
「運が悪かったね〜」
そう言って、二人は次のポーズを考え始めた。
あれ……?
馬鹿にされない……?
プリクラに慣れていないのも、半目になってカッコ悪いのも、二人はスルーした。
「笑わないんですか……?」
わざわざ聞かなくていいものを、思わず聞いてしまう僕に、猫目先輩は「笑うわけないじゃん」と言った。
「よくあることだから、別に面白くもなんともないよ」
大したことじゃない、とばかりに話は流された。僕と猫目先輩のやりとりを横目で見ていた春川先輩も同じ意見のようだった。
そ、そっか……。よくあることなのか……。
考えすぎていたのかもしれない。
有用性がない自分への恐怖心は、僕の中で、とても大きいものだから。
優しい猫目先輩と、意地悪だけど猫目先輩の前では優しく振る舞う春川先輩。
年齢は二つしか変わらないはずなのに、なぜだか、二人が自分よりよっぽど大人びているように感じる。
「それより、次のポーズはこれね!」
ほっと胸を撫で下ろす僕の横で、両手をグーにした猫目先輩が可愛らしくポーズを決める。
そう、そのポーズはまるで猫……。
「僕もそのポーズするんですか!? 絶対嫌です!! 恥ずかしすぎます!」
「先輩命令だよ! ほら、撮影始まっちゃう!」
猫目先輩がカメラを指差す。春川先輩はすでにポーズを決めていた。
「ほ、本当にやるんですかぁ!?」
決心がつかない僕の両脇で、にゃん、と効果音が聞こえてきそうな姿勢で固まる二人。画面には、ばっちりのキメ顔が映っていた。
無慈悲にも、カウントダウンは始まる。
『準備はいい? 3、2、1……』
あぁ、もう、どうにでもなれ──!
夏が近づいていて、日が落ちるのが遅くなったとはいえ、ゲームセンターを出ると、もう空は夕焼け色に染まっていた。
プリクラの後、大小異なる六枚の写真がプリントされた一枚のシートを、先輩達が丁寧に切り分けて、二枚渡してくれた。生憎、一枚は半目になっている僕が映っている写真だった。
「なんだかんだあったけど、今日は楽しかったね!」
駅まで向かう途中、猫目先輩が僕と春川先輩に振り返る。その顔は晴れやかだ。好きな人にデートを断られた傷なんて、もう忘れてしまったかのよう。
「……まぁ、そうね、楽しかったかな〜」
同意いした春川先輩、僕のほうを見て。
微笑んでいた。
意地悪な、僕を心底憎んでいる微笑みではなく──楽しかった、という言葉通りの微笑みだった。
その笑顔に、不覚にも僕の胸は高鳴った。
猫目先輩ほどではないというだけで、春川先輩もかなりの美少女なのだ。
流れるような黒髪を後ろで一つにまとめている。ベージュのブラウスをデニムにインしたラフなスタイルだが、豊満な胸とお尻のボディラインが強調されて、芋くさく見えない。穏やかそうなタレ目とその女性らしい曲線を描く体格が、ギャップを生み出している。
「……ぼ、僕も、楽しかったです」
ドキドキがバレないように、平静を装って返事をする。
その様子を、猫目先輩がニコニコと見守っていた。
「うんうん! 二人が仲良くなれたみたいでよかった! また三人で……っ!」
不自然に、猫目先輩が黙り込んだ。
僕と春川先輩を見ていた彼女は、体の向きを真反対に変えた──まるで、顔を見られたくないかのように。
「……猫目先輩?」
僕は先を歩く猫目先輩に声をかける。
「…………っ!」
猫目先輩は答えない。
歩み続ける足が、だんだん遅くなり、遂に彼女は立ち止まった。
おかしいな、と思い、僕が猫目先輩の顔を覗きこもうとしたとき──猫目先輩は、胸を押さえて前屈みになった。
「はっ、あっ、はぁっ、はっ」
激しく息切れをしている。
まるでマラソンを走った後のような呼吸だ。
──只事じゃない。
「猫目先輩!? 大丈夫ですか!?」
「う、うん。はっ、はっ。大、丈夫……はっ、はぁっ!」
前屈みになっていた猫目先輩はついにしゃがみ込んでしまった。
駅前は人通りが多い。行き交う人々が、猫目先輩をジロジロと奇異の目を向けては去っていく。
こういうとき、僕にはなにができる……!?
救急車を呼ぶ? それとも、猫目先輩は薬を持っているのか?
どうすればいいかわからない僕は、ただその場に立ち尽くした。
「……どいて」
そんな僕を押しのけて、春川先輩が猫目先輩の横にしゃがみ込んだ。
内緒話をするように、猫目先輩に話しかける。
「……猫目、帰ったほうがいいよ。一緒に帰ろうか?」
春川先輩は猫目先輩の背中を優しくさすった。わずかに、猫目先輩の息切れが落ち着いたように見えた。
「う、うん……はっ。ありがと……、一人で、帰、りたい……はぁっ、はっ」
「わかった」
猫目先輩の意思にすぐに同意した春川先輩は立ち上がり、猫目先輩に手を差し出す。
猫目先輩は春川先輩の手を取って、よろよろと立ち上がった。
「いいんですか!? 救急車、いや、せめてタクシー呼んだほうが……!」
「そういうんじゃないから、猫目のは」
僕の意見は、春川先輩によってあっさりと却下された。
──そういうんじゃないって、なんだよ……!?
こんな苦しそうな女の子を一人で帰らせるなんて……!
春川先輩に一蹴されたとしても、僕は食い下がりたい気持ちになり、猫目先輩へと視線を移す。
僕の視線に気づいた猫目先輩は、息を切らせながら言葉を発する。
「救急車とか、は……呼ばないで、欲しい……はっ、はっ!」
それは、僕の提案を拒否する言葉だった。
なにもできないのか、僕は……!
なにか僕にできることはないのか……!
「じゃ、じゃあせめて、お家まで……!」
「やめて!」
強い声色で、猫目先輩は拒絶した。僕はびくりとする。
「わかりました……。すみません……」
本人がやめてほしいと言うなら、僕はなにも言えない。僕のアドバイスは、ありがた迷惑になってしまうだけだ。
猫目先輩の意見を無視すれば、それは、猫目先輩のため、ではなく、僕の自己満足に終わる。
僕が了承したのを確認してから、猫目先輩は、駅の方向へ、ゆっくり歩いて行く。
「二人とも……ごめんね」
一度だけ振り返って、涙目の猫目先輩は謝罪を口にした。
自分がこんな状態でも、他人を気遣う彼女の優しさに、僕のほうが泣きそうになる。
「僕は……、大丈夫ですけど……」
「うん……。ありがとう……」
そう言い残して、猫目先輩は帰って行った。
猫目先輩の姿が見えなくなってから、僕は隣に立っている春川先輩に向き直る。
「猫目先輩の体調の理由、知ってるんですよね? 猫目先輩は病気なんですか?」
「あんたには関係ない」
さっきまでの柔らかい雰囲気が一変、冷たく言い放たれ、僕はハッとした。
猫目先輩がいなくなった今、春川先輩が僕に優しく振る舞う必要はない。
「それより、どういうつもり? 猫目に近づくなって言ったよね? それに、秋本とのデートなんて、最初から取り付けてないでしょ」
ぐっと距離を詰めて、下から睨みつけられる。
嫌な汗が背中を流れた。
すべてお見通しのような春川先輩の問いに、自白してしまいそうになるが、この人だって証拠を掴んでいるわけじゃないはずだ。
──誤魔化せば乗り切れる。
「ほ、本当ですよ! 本当に秋本にドタキャンされたんです!」
「なら、そのメッセージのやり取り見せてよ」
「…………」
そんなものはない。
言い返せない僕に、春川先輩は、ほら見たことか、とばかりに鼻で笑った。
「……言ったわよね? あんたにはなにもできない、あんたに猫目は幸せにできないって──幸せにするどころか、傷つけてんじゃねぇぞ」
春川先輩の声のトーンが三オクターブくらい下がった。乱暴な口調と、眉間に寄せた皺。
今まで以上に──本気で怒っている。
「いいか、もう二度と猫目に近づくな。明日、学校で猫目と会ったら、「もう会えません」って言え」
あまりの迫力に、大人しく従ってしまいそうになる。
しかし、僕の口から出た回答は、
「嫌です」
拒否だった。
猫目先輩に近づくな、なんて、この人に決められる謂れはない。
猫目先輩と、まだまだ話していたい。
彼女のことが、もっと知りたい。
僕は心を強く持って、春川先輩と目を合わせた。
「……は?」
ドスの効いた一文字。それだけで、震えて上がりそうだ。
──怖い。
ごくりと生唾を飲み込んで、春川先輩の鋭い眼光に尻込みしそうになるのを、必死で堪える。
……僕だって言われっぱなしじゃいられない。
「は、春川先輩のほうこそ、どうなんですか……!」
「……なに?」
言い返されたことに、春川先輩は眉をひそめた。どうやら、聞く耳を持たないわけではないらしい。
反論する隙が生まれたのを機に、僕の口は止まらない。
「秋本は、春川先輩のことが好きなんですよ! 先輩こそ、秋本と付き合って、猫目先輩の叶わない恋を諦めさせてやるのが優しさなんじゃないですか!?」
「…………本気で言ってんの?」
春川先輩の声が、一層低くなる。
「安易に他人に「誰々と付き合え」とか言えるなんて、随分と脳内お花畑なんだね。人間関係パズルみたいに上手くハマるとでも思ってんの? 人の気持ちなんて考えたこともないんだろうね。自分の都合のいいように他人が動くわけないでしょ。そうやって猫目のことも愚弄したんだ。できるはずもない秋本とのデートを取り付けたふりをして。なんなの? 神様にでもなったつもり?」
「そんなつもりじゃ……!」
「あんたになにがわかる!!!」
春川先輩は激昂し、僕の胸ぐらに掴みかかった。
吐息が届くほどの超至近距離で、ガン飛ばされる。
僕を嫌悪し、怒りを露わにしてきたことは数あれど、静かに、諭すように怒るタイプだった。そんな彼女が感情をボリュームと行動に乗せたのは初めてで、僕は少なからず怯んでしまった。
僕の胸ぐらを掴んでいる手と反対の手が、高く振りかぶられた。
──引っ叩かれる……!
僕は頬にぶつかる痛みを覚悟して、目をぎゅっとつむる。
「…………」
しかし、予想していた衝撃はやってこなかった。
恐る恐る目を開けると、春川先輩の手は宙に留まったままで。
彼女は──震えていた。
どうして、殴る側の春川先輩が震えている……?
そして──振りかぶられた手から力が抜け、だらりと下げられた。
「……私に男と付き合えなんて、二度と言うな……!」
涙目になった春川先輩は、僕の胸ぐらから手を離した。駅のほうへと歩を進めていく。
その後ろ姿は、微かに震えていて──さっきまで怒っていた強い年上女子が、ただのか弱い少女に変化していた。
猫目先輩の恋を知りつつも、応援するわけでも、諦めさせるわけでもない春川先輩が、僕にはよくわからない。
猫目先輩も猫目先輩で、突然しゃがみ込んで帰っちゃうし。
秋本は、猫目先輩には目もくれずに、春川先輩に片想いしているし。
「なんなんだよ、いったい……」
楽しかった時間は一瞬でひっくり返され、残された僕を、茜色の夕陽だけが照らしていた。