3
昇降口にある僕の靴箱に一通の手紙が入っていた。
手紙──と呼ぶのもお粗末な、四つ折りされたルーズリーフだった。
「なにそれ? ラブレター?」
「違うと思いますよ……」
猫目先輩のご主人様として自覚を持った翌朝も、彼女は校門で登校する僕を待ち受けていた。
朝の挨拶もそこそこに渡された猫目先輩の荷物を持って、上履きに履き替えようとしたのだが──その上履きの上に、ルーズリーフがちょこんと乗っていたのだ。
僕はその手紙を手に取る。
すぐにでも開いて内容を確認したい気持ちに駆られたが、不思議そうに僕の手元を覗いてくる猫目先輩に見られるのは、なんとなく気が引けた。
本当にラブレターだと思っているわけではないものの、秘密の内容であるだろうことは察しがつく。
不明の差出人とはいえ、不義理を働きたくはなかった。
「それ、どうするの?」
こてんと小首を傾げる猫目先輩を横目に、僕は「後で読みます」と断って、手紙をズボンのポケットにしまった。
「ほら、教室行きましょう。今日こそは、猫目先輩のクラスに送りますからね」
「えぇ〜? 後輩くんのクラス行こうよ〜」
猫目先輩は唇を尖らせて、本気で一年生のフロアを目指そうとする。そんな彼女の小さな背中を押して、なんとか猫目先輩を彼女のクラスまで見送ることに成功した。
……三年生男子たちの視線が厳しかったのは、言うまでもない。
猫目先輩を教室に送り届けてたあと、男子トイレの個室で、ようやく手紙を開いてメッセージを確認した。
もしかしたら、女子からの呼び出しかもしれない、なんて甘くて淡い期待は一瞬で打ち砕かれることになる。
──『猫目ナツに近づくな』
靴箱に入っていた手紙は、決してラブレターなんかではなく、むしろ脅迫状だった。
よく考えたら、告白の呼び出しの手紙に、ルーズリーフを選ぶとは考えにくい。僕が告白する立場だとしても、ルーズリーフを靴箱に突っ込んだりはしない。
少しでもお花畑な脳内だった自分に呆れてしまう。
筆ペンで雑に書かれた文字は、明らかに僕が猫目先輩と一緒にいることを憎たらしく感じている人間によるもので。
猫目先輩の前でこの手紙を開かなくてよかった。
自分の判断にナイスプレー賞を贈りたい。
僕は手紙をぐしゃりと握り潰して、男子トイレからクラスへと向かう。
教室に入ってすぐにあるゴミ箱に、手紙だったものを投げ入れて席に着く。
「……ん?」
置き勉をしていない空っぽのはずの机の中に、なにかが入っていた。
掴み出してみると──また、一枚のルーズリーフ。
四つ折りを開けば、同じ文字列が並んでいた。猫目ナツに近づくな、と。
靴箱に、机の中──他の場所にも同じような脅迫文が入っていたとしても、もはや不思議ではない。
嫌がらせが始まった、と理解するのに時間は掛からなかった。
犯人を突き止めようとするだけ、時間の無駄だろう。きっと、猫目先輩に思いを寄せる男子の誰かだと想像がつく。仮に犯人を突き止め、嫌がらせを止めさせたとて、今度は別の男子からの嫌がらせが始まるだけだ。
一番に浮かぶ人物は、やはり、先日僕を殴ろうとしてきた坊主頭の三年生だろうか。
猫目先輩によって、完膚なきまでにその恋心を打ち砕かれた彼が、僕に逆恨みをしてもおかしくないが──考えてみたところで、結局証拠がないんだから、言いがかりに等しい。
幸い、脅迫状は警告だけで、なにか危害を加えるなどとは宣言されていない。
ただ気味の悪い手紙が送られてくるだけ。
それだけでも、なかなかのストレスなのだけれど──僕が我慢すればいい話だ。
自殺を選択肢の一つに入れて、さらには実行してしまう猫目先輩に、自分のせいで僕が嫌がらせを受けているなんて、余計な気苦労をかけたくない。
理由を告げずに彼女を拒絶するのも無理だ。傷つけることには変わりない。
──僕が我慢すればいい話。
それでも、思わずにはいられない。
「……僕が望んでこうなったわけじゃないのになぁ……」
顔も知らない犯人に、届くはずのないつぶやきが口の端から漏れていく。
「だったら、きみが猫目先輩を助ければいいじゃないか……」
「後輩くーん! お昼食べよー!」
昼休みのチャイムに乗って、猫目先輩は僕のクラスにやってきた。
すでに購買に寄ってきたのか、ビニール袋片手に、元気よく手をぶんぶん振る猫目先輩。そんな彼女へと一斉にクラスメイトの視線が集まってから、猫目先輩が呼ぶ僕へと視線が移動する。
「猫目先輩! きょ、今日は屋上で食べましょうか!」
「えぇ〜? ここがいいなぁ」
「ダメです!」
クラス中の好奇の目に晒されながら、僕は猫目先輩を教室の外に追い出した。
「わり、ちょっとロッカーに財布入れてくるわ!」
「早く来いよ〜!」
少し遠くから、知っている大きめの明るい声がした。
先ほど廊下に出て、校庭へと足を急ぐ、早弁昼休みサッカー組の背中が見える。その一人、秋本がこちら──教室に戻ってきていた。
これから運動するというのに、彼は相変わらず長袖のワイシャツで、腕まくりもしない。
「あ、猫目先輩、ちわっす!」
「秋本くん、こんにちは〜。お昼、食べないの?」
「早弁しました! 俺はこれからサッカー行きます!」
にかっと白い歯を輝かせて、秋本は教室に入っていく。
教室の両端には、生徒用の鍵付きロッカーが並んでいる。右壁に並んでいるのが女子で、左壁が男子だ。各々、教科書を置いたり、お菓子を入れたり、自由に使っている。
秋本は自身のロッカーの前で立ち止まると、ズボンのポケットから取り出した財布を突っ込んだ。半袖のTシャツを制服の下に着ているようなのに、長袖のワイシャツを脱ぐことはない。
ロッカーの鍵を閉めた彼は、廊下へ飛び出し、
「それじゃあ!」
と、すれ違いざまに僕と猫目先輩に手を振って、先を歩く仲間たちを追いかけていった。
爽やかなやつだ。
クラスの人気者が小さくなっていくのを見送った後、猫目先輩に視線を移す。彼女はまだ秋本の後ろ姿を見送っていった。
思えば、秋本が挨拶してからの一部始終の動きを、猫目先輩はずっと目で追いかけていた。
──あいつに対して、気になることでもあるのだろうか?
初めて出会ったときも、秋本に用があるみたいだったし……。
「……猫目先輩?」
「あ、うん。屋上だっけ? いこっか」
声をかけると、猫目先輩はハッとした表情になった。
猫目先輩の様子が気掛かりになりながらも、僕たちは屋上へと足先を向けた。
屋上には生徒たちが、ちらほら集まっていた。みんな弁当を広げて、ピクニック感覚の昼休みを過ごしているようだ。
「ここでいい?」
猫目先輩は給水塔の裏に周った。死角になっているせいか、人気がなく、しかし日当たり良好な場所。僕は、にべもなく頷いた。
猫は昼寝に最適な日向ぼっこ場を見つけるのが得意だとは言うけれど、猫目先輩のチョイスはまさにそれだった。
給水塔に寄っ掛かるようにして地べたに座る猫目先輩。その隣、少しスペースを空けて僕は腰を下ろした。
猫目先輩がビニール袋からパンを取り出すのに合わせて、僕も弁当袋から弁当を取り出す。
「いただきまーす」
「いただきます……」
本日の猫目先輩の昼食はメロンパンひとつだった。高カロリー食品ではあるものの、僕だったらそれだけで午後授業を過ごせるとは、到底思えない。
小さな一口で、メロンパンをもぐもぐしていた猫目先輩は、はぁ、とため息をついた。
「今日は休み時間にパン買っといたから、後輩くんのクラスで食べたかったな〜」
「どうしてそんなに僕のクラスにこだわるんですか?」
素朴な疑問だった。
猫目先輩は、朝、校門で合流した後も、僕のクラスに行きたがる。
──しかし、質問したことを、僕はすぐに後悔した。
「だって、秋本くんが、いるじゃん」
え?
秋本?
猫目先輩は、秋本がいるから、僕のクラスに来たがっている?
それって、つまり。
「あ、秋本に会いたいんですか?」
──どうか否定して欲しかった。
でも、猫目先輩に僕の想いが届くはずもなく。
「そうだよ」
と言った。
なんでもない風に。
雑談のひとつみたいに。
猫目先輩はまたメロンパンを頬張る。
雷に打たれたような衝撃を受けた僕は、持っていた箸を落としそうになる。
秋本に会いたくて、一年生のクラスにまで来るなんて。
そんなの、まるで──
「……猫目先輩は、秋本のことが好きなんですか?」
言いたくなかった。
聞きたくなかった。
でも、口は止まらなかった。
猫目先輩のつり目が、僕を見据える。
彼女がメロンパンを咀嚼して、飲み込むまでの時間が無限に続くように感じた。
ごくん、と彼女の喉が上下する。
「うん。わたし、秋本くんのことが好きなの」
と。
秘密にしていたわけでもなく、知られたくなかったわけでもなく。
ただ聞かれなかったから言わなかっただけ、という風に、猫目先輩は頷いた。
──嘘だろ。
あんなに僕にベタベタしといて。
ご主人様だとか言っておいて。
僕は猫目先輩のせいで、嫌がらせまで受けているのに。
他の男に片思いをしている?
どういうことだよ、と叫びたい衝動に駆られた。
僕に想いを寄せているわけではなかったのか。もしくは、恋なんてしていないんじゃないのか。
だって、こんなの──勘違いしちゃうだろ。
学校一の美少女の先輩の秘密を知って、「ご主人様になって」なんて懇願されて──教室どころかトイレにまでついてこようとしてくるんだぞ。
朝は校門で待ち伏せされて、昼休みにわざわざ僕の教室までやってくるんだぞ。
僕のことが好きなんだと思うだろ、普通。
自惚れちゃっても、仕方ないだろ。
これだけ、その気にさせる言動をしておいて、僕以外の男が好きだなんて。
今までの猫目先輩の行動すべてが、ただの思わせぶりだったなんて。
──認めたくない。
でも、ここでなりふり構わず猫目先輩に怒るほうが、ダサい。
それは、僕自身が一番わかっている。
「僕のことが好きなんじゃなかったのかよ!?」なんて、告白もされていない女子に怒鳴る男がどれだけみっともないか。
想像するだけで恥ずかしい。
吐き出すことも、飲み込むこともできない感情が、腹の中でドス黒く渦巻いていく。
感情がぐるぐると回るのと一緒に、目の前の景色すら、ぐるぐると回っているような気すらした。
──落ち着け、落ち着け。
猫目先輩に好きだと言われたことはただの一度だってない。
彼女は、僕を見初めたんじゃない。
僕を気に入ったんじゃない。
たまたま、彼女の自殺を止めたのが、好きな男と同じクラスの僕だったというだけの話だった。
初対面時に、猫目先輩が秋本を探していたのは、秋本にあの手作りクッキーを渡したかったからなんだ。
ショックと共に湧き出てくる怒りを彼女にぶつけるのも、そもそも怒りを覚えるのも、筋違い。
誰にも愛されないと泣いて、電車に飛び込もうとまでした猫目先輩に同情して、ご主人様を断らなかったのは僕だ。
──「わたしを愛して! お世話して! 大切にして──わたしの全部を許してよ!!」
あの日、数多の星が瞬いている夜空の下、駅で猫目先輩に言われた台詞を思い出す。
『ペットの猫ちゃん』として愛してとは言われたものの、恋人になれ、とは言われていない。
恋人を作ってはいけない、なんて約束もしていない。
むしろ、彼女のすべてを許すのが、僕のご主人様としての役目だ。
決して、自分以外の男に尻尾を振るな、と怒鳴ることではない。
僕は、ふぅー、とゆっくり息を吐く。
「……出会いって、聞いていいですか?」
猫目先輩は頷いた。
「夜の公園でね、偶然会ったの。なんとなくお喋りしてたら、秋本くんが辛い状況でも頑張ってることを知って、一目惚れしたんだ──わたしも、親とか持病とか、いろいろ大変なこともあるけど、頑張ろうと思わせてくれたから」
「そうなんですか……」
頑張っている人を見ると、自分も頑張ろうと思わされる気持ちは、なんとなく理解できる。
猫目先輩は、それが恋心まで発展したらしい。
「猫目先輩なら、すぐに付き合えるんじゃないですか?」
だって、学校一の美少女なんだし。
学校中どころか、他校にまでその名を轟かせる彼女が、手に入れられない男なんて、存在するのだろうか?
でも、猫目先輩は僕の考えとは反対に、悲しそうに首を横に振って、
「片思いのゴールは、両思いじゃなくて、失恋だよ」
と、言った。
片思いのゴールが、失恋?
僕が言葉の意味を考える前に、猫目先輩は続ける。
「だって、それしか知らないもん」
……失恋しか知らない?
こんなに可愛くて、天真爛漫な猫目先輩が、失恋しかしたことがない?
──「好きな人には好かれないし、どうでもいい人には好かれるし」
……そうだ。
自殺の理由を尋ねた際に、そんなことを言っていた。
自身の片思いは成就できないのに、好きでもない人から告白される。
それが、どれだけしんどいのか、僕は想像するしかない。
告白してきた男たちの中には、坊主頭の三年生のように、諦めきれずに付きまとってくるやつだっているだろう。
異性だけじゃない。きっと、好きな人をとられたと言う女子に恨まれたり、それが原因で友達が減ったり。
どんどん周りからは人が減っていくのに、どうでもいい人ばかりが近づいてくる。
イメージするだけで、自然に顔が歪んでしまう。
だから、愛されない、なんて自殺を図るまで追い詰められたのか……。
彼女のご主人様になった理由──同情心が、ふつふつと湧き上がってくるのを感じた。
「……ちなみに、秋本って、彼女はいるんですか?」
「や、それはわかんないけど……」
好きな人に彼女がいるかもどうかも知らないということは──本当に、ただの猫目先輩の遠い片思いなんだ。
秋本はクラスに来た猫目先輩に挨拶こそ交わしていたが、どうして一年生のクラスにやってきたのか、突っ込んでくることはなかった。
こんな美少女の先輩と知り合いなのに、もっと仲良くなろうとか、せっかく会えたからたくさん話そうとか、そういう気概が感じられなかった。
そんな秋本に対して、猫目先輩はぐいぐいいけないんだろう。
「あの、さ……後輩くん。できたらで、いいんだけど……」
「はい?」
思考が止まらない僕に、猫目先輩はもじもじしながら、口を開いた。
「秋本くんに彼女がいるか、聞いてきてくれない?」
……え。
……それを、僕に頼むのか。
「あ、でも! 本当に、できたらでいいから! 無理だったら、全然!」
ぶんぶんと顔の前で両手を振られ、僕はムッとした。
なにもしていない段階で、『無理』だなんて、決めつけられたくない。
「……いいですよ」
呟くような返事でも、猫目先輩はしっかりと聞き取ったようで、
「……ほんとに?」
と、不安げに瞳を震わせた。
僕は彼女を安心させるように「はい」と言って頷く。
「秋本に彼女がいるか、好きな人がいるかどうか、聞いてくればいいんですよね?」
「……ありがとう」
猫目先輩は両手で持っていたメロンパンを左手で持って、もう片方の空いた手で、僕の手を握った。
「やっぱり、頼れるのはきみだけだよ」
にこり、と。
大きくて綺麗なつり目が、緩いアーチを描く。
長いまつ毛が、わずかにその瞳にかぶさった。
微笑む猫目先輩は、やっぱり、とんでもない美少女で。
可愛くて、可憐で。
僕はその言葉と笑顔が、なによりも嬉しかった。
昼休み後、五限目の授業は自習だった。先生が体調不良だとかで、普段は二年生の授業を担当しているらしい先生がやってきた。黒板に大きく『自習』の文字を書くと、教卓に小テストの解答用紙の束を置いて、黙々と丸つけを始める。
先生の自習時間なんじゃないか?
期末テストが近づいていることもあり、各々、勉強したい教科の教材を机に広げて取り組み始めた。中には、仲がいい者同士で席をくっつけるやつもいる。教科書やノートの貸し借りもあるのだろう。
自ずと人が集まってくる秋本の背中を見つめる。自習を宣言されて五分も経っていないのに、彼の席には三人ほどの男女が集まっていた。
さすがクラスの人気者だ。
明るい茶色の短髪なのに、汚い茶髪ではなく、清潔感がある。帰宅部なのに、筋肉も程よくついているし、身長も、百八十はないものの、百七十後半はあるだろう。コミュ力が高くて、男子とも女子とも、陰キャとも陽キャとも、分け隔てなく接している。
顔もいいし、性格もいい。少なくとも、このクラスに秋本を嫌っている人間はいない。
難点と言えば、バイト三昧で付き合いが悪いことと、ほとんどの授業を寝ていることくらいだろうか。とはいえ、それも人それぞれの高校生活の形。欠点とも言えない。
完璧美少女が恋をする相手は、完璧な男子だったというわけだ。
……羨ましいなぁ。
僕が秋本だったら、母さんからも愛されて、期待されて、猫目先輩にも……。
不意に秋本が振り向いて、バチッと目が合った。
やば、見てるのバレた。
気まずくなって目を逸らす前に、秋本は席から立ち上がって、こちらにやってきた。
なんだ……? なに見てんだって怒ったのか……?
いや、秋本はそんなやつじゃない。
脳内であっちゃこっちゃ慌てていると、秋本は笑顔で俺の名前を呼んだ。
「なぁ、昨日の世界史のプリント持ってるって聞いたんだけど、答え写させてくれないか? 俺、授業中、寝ちゃっててさ」
「え? あ、あぁ……世界史、ね。うん、いいよ。ちょっと待ってて」
「おう」
僕はロッカーに向かった。中に入っていた世界史のノートを取り出し、挟んでいたプリントを取り出す。
……もしかして、今、秋本の好きな人を聞き出すチャンスなんじゃないか?
「はい、これ」
「サンキュ! すぐ返すから!」
「あ、まって、秋本」
受け取ってすぐ自席に戻ろうとする秋本を呼び止める。不思議な顔をして立ち止まる秋本を手招きして、耳打ちする。
「友達がさ、秋本のこと気になってて……。秋本に彼女がいるか、聞いてこいって言われたんだけど……」
嘘は言っていない。
友達じゃなくて、先輩ってだけだ。
「あ〜……」
秋本は困った風に、頬をポリポリと掻いた。
「彼女はいないけど、好きな人はいるって、その子に言っといてよ」
苦笑すら、爽やかな男だった。
──好きな人?
「え? だ、だれ? 猫目先輩?」
反射的に訊いてしまった。
図星だろうと思う僕とは裏腹に、秋本は心底訳がわからないという顔をした。
「なんで猫目さん?」
「え、いや、だって、知り合いみたいだったから……」
「知り合いは知り合いだけど、本当にただの知り合いだって。あぁ、そっか、お前は猫目さんと仲が良いんだよな?」
仲が良いと一言で片付けることができるほど、長い付き合いはできていないけれど。
「じゃあ知ってるか? 猫目さんの親友の、春川さんって三年生の女子」
春川先輩。
猫目先輩のそばによくいる、綺麗系の美少女。
握手を交わした春川先輩を思い出しながら頷くと、秋本は照れ臭そうに笑った。
「俺、春川さんのことが好きなんだ」
……え。
……春川先輩が好き?
猫目先輩が好きな秋本は、猫目先輩の親友である春川先輩が好き?
それは、あまりにも──不憫な話じゃないか。
「あ、秋本は」
なんとか声を絞り出す。
「うん?」
「春川先輩とも、知り合いなんだ?」
「あぁ、うん。前、バイト先が一緒だったんだ。春川さんはもう辞めちゃったけど。そのとき、家の悩みとかいろいろ聞いてくれて……。それだけなのに、好きになっちゃったんだよな」
当時の記憶を思い出すように懐かしむ秋本。
その表情は、決して猫目先輩が見れることはないものだ。
「ね、猫目先輩は……」
「猫目さんは、夜、買い物帰りに公園に一人でいたから、話しかけたのがきっかけ。猫目さんも大変そうだったから、お互い頑張ろう、みたいな話をした気がする」
気がする。
その程度。
おそらく、春川先輩との出会いは事細かに語れるであろう秋本は、猫目先輩との思い出はぼんやりとしか話せない。
秋本の中での、二人の差をまざまざと見せつけられているようで、僕の心が痛くなった。
黙ってしまった僕に、会話が終わったのだと察した秋本は、
「じゃ、これ借りていくな」
と、世界史のプリントを持って、長袖の制服を翻して行った。
僕は脱力したように、自分の椅子に座る。
──秋本は、猫目先輩の親友が好き。
猫目先輩の恋は、叶わない。
僕はその事実を、猫目先輩に伝えなければならなかった。