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放課後の教室は騒がしい。
「この後、どうする〜?」
「カラオケ行かね?」
「さんせーい」
高校生になったばかりで、夏休みが近づいていて、ようやくクラスが仲良くなっていて。半袖の制服から覗く肌色が、彼らの夏を加速させているように見えた。
期末試験前だぞ。勉強しろ、勉強──などと考えている僕のほうが、一般的に見ればおかしい方なのだろう。
学生の本分は遊ぶことだって、偉い人が言ってたっけ。
僕だって、勉強が好きなわけではないのだけれど。
「秋本は?」
カラオケに行こうと画策していたグループが、一人の男子生徒に声をかける。
「わり、俺、今日バイトなんだわ」
クラスの中心人物、いわゆる陽キャで……イケメンの秋本。
誘いを受けた彼は、夏前だというのに、長袖を着用していた。そして、その明るい性格を表すかのように、明るく断って、颯爽と教室を去って行った。
「働きすぎだぞ〜」
「じゃあ、お前は?」
クラスの人気者に断られたクラスメイトが、秋本から首を方向転換して、僕に誘いの声をかける。
……僕は秋本の『ついで』かよ。
なんて、毒を吐くのは、心の中だけ。
「僕は塾なんだ。ごめん、また誘って!」
ハブられないように、素っ気ないやつだと思われないように。
本心を口に出すよりも、一人になる方がよっぽど恐ろしい。
心の底から残念がる表情と、どうしようもない理由──孤独を恐れる僕が身につけたパフォーマンスだ。
「一年なのに、もう塾通ってんのかよ、大変だな」
「うん、次は行けるようにするよ。バイバイ」
手を振ると、振り返してくれる。クラスメイトは、案外、悪いやつではない。
教室を出て、昇降口に向かうために階段を降りる。
クラスのみんなは塾や自習などとは無縁の生活で、友好を深めて遊んでいるが、僕の通っている高校はいわゆる進学校で、県内では御三家と呼ばれている。
そんな進学校に、僕は補欠で合格した。
授業についていくためにも、来たる大学受験のためにも──高校三年間の塾通いを、親から余儀なくされているのだ。
──「どうして、第一志望に受からなかったのか、そこでじっくり考えて、反省してね」
心底軽蔑した母の目は、中学受験が終わったときの記憶だ。
高校受験は、なんとか、第一志望に受かったものの、補欠合格。
高校受験を失敗しかけた僕に、遊んでいる時間など、ありはしなかった。
大学受験にまで失敗したら、僕は──
「きゃあああああああああ────!!」
「え?」
背後から、女子の悲鳴。
振り返ると、一人の女子生徒が階段から落ちるところだった。
ここでキャッチできたらカッコよかったんだろうけど、あいにく現実の僕は、口を開けて棒立ちになっている有様。
せめて下敷きになって、彼女のクッションになってあげよう──と、自身の痛みを決心する僕とは裏腹に、彼女は驚きの身体能力を見せつけた。
空中でくるりと一回転を決めて、僕の両肩に着地したのだ。
僕の右肩に彼女の右足が乗り、僕の左肩に彼女の左足が乗った。
僕の肩の上で仁王立ちになる女子生徒。
……どういう状況?
「……はぁ!?」
思わず見上げようとしたら、足の裏が顔にめり込んだ。
「パンツはダメでーす!」
朗らかな声に似合わず、威力の高い蹴りだった。
パンツを見ようとしたわけじゃない。しかし、弁解する猶予も与えられない。
僕は顔面を踏み潰された衝撃で、仰向けのまま地面に倒れた。女子生徒は、僕の肩からジャンプして、今度こそ綺麗に着地を決めた。
「いてて……」
背中の鈍痛に顔をしかめながら、僕は上半身を起こし、落ちてきた女子生徒を見る。
知っている顔だった──というより、知らない人はいない顔だった。
立っていたのは、学校一美少女と呼ばれている三年生。
猫目ナツ先輩だったのだ。
「パンツを見るのは頂けないけれど、助かったよ! ありがと!」
にゃは、と笑う猫目先輩に、僕は「いえ……」とあいまいな返事しかできなかった。
猫目ナツ先輩──この学校で知らない生徒はいない、とまで言われている小柄な美少女。ホワイトカラーの肩につかないボブヘアと、猫耳のように跳ねた癖っ毛。
胸は慎ましやかだが、全体的に細いので、むしろバランスが取れた体躯に見える。
名字の『猫』に恥じないツリ目に八重歯。腕は長袖で見えないが、スカートからは細い足がすらりと伸びている。
他校にすらファンがいるとの噂。
そんな三年生の先輩が、どうして一年生のフロアに……?
「猫目〜。大丈夫〜?」
猫目先輩の後ろから、同じく三年生と思われる女子生徒が、トコトコと階段を降りてきた。
猫目先輩を心配するその女子生徒は、女子にしては高い身長とサラサラのロングヘア、そして優しそうなタレ目──可愛い系の猫目先輩に対して、綺麗系の美少女だった。
太っているわけではないが、豊満なバストとヒップと同等に、健康的な体格である。
いや、猫目先輩が痩せ過ぎているから、余計に普通体型の女子が大きく見えてしまうだけなのかもしれない。
「大丈夫、大丈夫!」
と、猫目先輩は、階段を降りてきた友達に明るく答える。
二人の系統の違う美少女を前にしているこの瞬間だけは、僕は誰よりも幸せな男子高校生であると言えるかもしれない。
「そうだ、きみ! 一年生の秋本くんって、知ってる?」
友達と話していた猫目先輩が、突然、僕に振り返って尋ねてきた。
秋本って……、僕のクラスメイトの秋本だよな……?
「秋本なら……、さっき、バイトに行きましたけど……」
「入れ違いかぁ!」
オーバーなリアクションで落胆する猫目先輩。
秋本に用事があったのか……?
委員会か、なにかで一緒なのだろうか……?
……いや、僕が口を挟むことじゃないな。
シュンとなっている猫目先輩の頭を、お友達がヨシヨシとなだめる。
「バイトならしょうがないね〜。また今度にしよ〜」
「そうだね……、付き合ってくれてありがと。あと、きみもありがと! これあげる!」
そう言って、猫目先輩から手渡されたのは、透明なラッピングに包まれている、手作りクッキー。
「はぁ……ありがとうございます……」
なにがなんだかわからないまま、流れに逆らわず受け取る僕に、訝しげな目を向けるお友達。
「猫目、いいの? だってそれ……」
「うん! 悪くなる前に、誰かに食べてもらいたいから!」
「……そっか〜。君、運がいいね〜」
お友達は笑顔で僕を見た。
……笑顔?
笑顔、ではあるのだが──なぜか、彼女の目は笑っていなくて。
その眼光に、なにも悪いことをしていないのに居心地が悪くなる。
このクッキーに、なにかあるのだろうか……?
「じゃあ、今日のところは帰ろうかな! バイバイ、後輩くん!」
「バイバ〜イ、一年生く〜ん」
太陽みたいな猫目先輩と、夜の闇に光る一線の月明かりのような視線で僕を射抜くお友達の先輩──長袖と半袖まで対照的な二人は、仲良しげに帰って行く。
残されたのは、訳のわからない僕と美味しそうな手作りクッキーだけだった。
塾が終わるのは、夜の十時。
星が瞬く夜空の下、一人で帰路に着く。学校の最寄り駅から近い塾を選んだため、帰り道は通学と同じである。
暗くなった駅に、高校生は数少ない。ほとんどが大人で、それも仕事帰りだろう、と高校生の僕でもわかるような出立ちをしている人たちばかりだ。
こんな時間まで働いているような大人にはなりたくない、と願う僕も、こんな時間まで勉強するような高校生にはなりたくない、と願われているかもしれない。
皮肉なものだ。
いつも通り、いつもの駅のホームまで階段を登る。
『急行列車が通過します。ご注意ください』
駅内アナウンスも、いつもと変わりない。
しかし、真っ暗な夜のホームは、普段とは様子が違った。
猫目先輩がいた。
知らない仲ではない──が、会話するほど知っている仲でもない。僕は彼女に見つからないように、踵を返そうとした。
「…………」
しかし、方向転換は叶わなかった。
猫目先輩が、大粒の涙を、静かに、ボロボロとこぼしていることに気づいてしまったから。
『急行列車が通過します。ご注意ください』
さすがに見て見ぬふりをするのは、気分が悪い。
僕が心配になって、声をかけようとした瞬間──
猫目先輩は、線路に飛び込もうとした。
「なにしてるんですか!?」
僕はその細い腕を掴んで、ホームへと引っ張り戻した。
ビュオオオオ──!
急行の電車が眼前を通り過ぎていく。
──間一髪だ。
激しい運動をしたわけでもないのに、動悸がすごい。心臓がどくどくと波打っている。
「ひっく……、ひっく……」
四つん這いになって息を整える僕の隣で、猫目先輩は座り込んだまま泣きじゃくっている。
「猫目先輩……、なにして……!? なんでこんな……!?」
息を切れ切れに、混乱したままの頭で、僕は問いかける。
「だって……わたし……」
返ってきたのは、衝撃の答えだった。
「誰にも愛されないんだもん……」
──なにを、言ってるんだ……?
学校一の美少女が愛されないと泣いているなんて、一体どんな皮肉なんだ。
学校中の男子生徒どころか、他校の生徒にまでモテているというのに?
聞くところによると、ファンクラブだってあるらしいじゃないか。
どうして、そんな人が、誰からも愛されていないなんて言うんだ。
愛されないっていうのは、僕みたいに、僕の母親みたいに──
黙りこくってしまった僕に、猫目先輩は続ける。
「好きな人には好かれないし、どうでもいい人には好かれるし、悪口だってたくさん言われてきた。生きてるだけで、お金も労力も遣うし、迷惑もかける。点数だって付けられる。成功するのが当たり前で、失敗したら怒られる」
猫目先輩の綴る、一言一言は、納得できる言い分ばかりだった。
──成功するのが当たり前で、失敗したら怒られる。
思い返される、母さんの言葉たち。
──『あんたにはもう、期待しないわ』
中学受験で失敗した時の記憶。
猫目先輩の涙が、僕の胸にグサグサと突き刺さる。
ひぐひぐと泣いている猫目先輩と、呆然とする僕。
二人の高校生がホームの地べたに座り込んで向かい合っている様子は、いささか異様な光景だった。
異様すぎるが故に、誰も近づこうとしない。
関わりたくないからだ。
僕と猫目先輩だけの、夜の空間を、星空だけが照らしていた。
「ペットの猫ちゃんになりたい……」
先輩が呟いた。
「ペットの猫ちゃんみたいに、生きているだけでお世話されて、大切にされて──粗相をしてもしょうがないなって、全部、全部許されたい……」
……ペットの猫ちゃん?
話の流れに不釣り合いなワードに、僕は現実に引き戻される。
飼い猫というものは、ご飯を食べたら偉くて、眠りについていたら可愛くて、生きているだけで尊い──と、何かのネットの記事に書いてあった。
生まれ変わったら金持ちに飼われる猫になりたい、というコメントも見かけたことがある。
たぶん、猫目先輩の言う『ペットの猫ちゃん』とは、そういう猫を指しているのだろう。
猫目先輩の誰にも愛されないからという気持ちも、ペットの猫ちゃんみたいに無条件に愛されたいという気持ちも、痛いほどわかってしまう。
でも、僕は猫目先輩の行動を全肯定はできない。
だからって、死んでいい理由にはならないとも思うからだ。
だって……こんな僕だって、必死で生きている。
「……『ペットの猫ちゃん』になれなくても、死んじゃダメですよ」
僕は猫目先輩の両肩を掴む。息もだいぶ整ってきた。なるべく落ち着かせるように、静かな声で、呼びかけるように。少し屈んで、彼女と目を合わせる。
猫目先輩のツリ目から、涙が一筋、こぼれ落ちた。
「……なら、……てよ」
「え?」
「そんなに言うなら、わたしをきみのペットにしてよ!」
猫目先輩は叫んだ。
なにを言われているのか理解するのに、時間がかかった。
「先輩を……、僕のペットに……?」
猫目先輩の目からは大粒の涙が、次から次へと溢れていく。
「わたしを愛して! お世話して! 大切にして──わたしの全部を許してよ!!」
それはきっと、心の底からの叫びだった。
あまりに必死で、本気で──可哀想で。
僕は頷くことしかできなかった。