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九 対峙

「久しぶり!」


 地下への階段を降り、あの分厚いドアを開けると、いつもの陽気な声であいさつをくれる。理美はその声に応えるように笑った。そしていつものようにカウンター席の端っこに座る。


「ビールでいい?」


 マスターに尋ねられ、「はい」と短く答えると、彼は背を向けてグラスに生ビールを注いだ。そして手慣れた手つきで紙製のコースターをさっと敷き、「どうぞ」と口にしながらその上にグラスを乗せた。


「ありがとうございます」


 来店して一分でビールが出てくる店もない。金曜日は大体、隆司がいないと解っていても、彼の気配を感じられるこの店に足を運んでしまう。店内はちょうどいい具合に照明が落とされていて、多少感傷的な表情を浮かべて飲んでいても、誰も何も言わない。理美がゆっくりとグラスを仰いでいると、耳に掠めてくるのはピアノのジャズ演奏だった。


「ジャズもいいですよね」


 カウンター内でグラスを磨いているマスターに声をかけると、彼はにっこりしながらうなずいた。


「元々ジャズバーだからね。うち」

「そうなんですか」

「そうだよ。それなのに、樫村が売り出す前のバンドとか歌手とか面倒見てくれって連絡してくるから、なんとなくそういう感じになっちゃって」


 樫村。初めて聞く名前だ、と理美は思った。


「樫村さん、ですか」


 彼女は素直に口にした。すると、マスターはうなずきながら「隆司の事務所の社長ね」と付け加えた。


 そういえば、彼がそんな話をしていたな…、と思い出す。社会勉強のためにこの店に来たようなことを彼は語っていた。


「お知り合いなんですね、その樫村さんと」

「うん。昔、バンド組んでたんだ。俺がドラムで樫村がギターでさ」

「そうだったんですね」


 マスターが、ドラム奏者だったとは。理美は少しだけびっくりしたが、納得していた。音楽が好きでこの店をやっている彼の気心が知れているからこそ、わざわざ芸能事務所の社長が、郊外のバーの店長にそういう依頼をするのだろう。


「なんか、社会勉強のためにこういう働く場を設けてあげるっていうのが、すごく面倒見がいいというか。あの人、六年もウダウダしてたわけでしょ」


 苦笑いを浮かべながら理美がそう口にすると、マスターも「ははは」と声に出して陽気に笑った。


「普通は期限決められるんだけど、アイツの場合、楽曲提供とか受けた仕事はちゃんとしてたし、このまま辞めさせるのが惜しかったんだろうな」


 感慨深くそう語るマスターからも、隆司の才能がうかがい知れる。理美はますますいたたまれない気持ちになっていった。しかしそんなことを知らないマスターは、言葉を容赦なく続ける。


「理美ちゃんと再会できてやっと気持ちに折り合いがついて、本腰入れられるようになって…。うん、よかった」


 これ以上ない嬉しい言葉のはずなのに、理美はうまく笑えなかった。心なしか、胸の辺りに刺さったままの棘がチクっと痛む。その棘がすんなりと抜けることはなく、こうして時々痛むのだ。その痛みは、じんわりと広がり彼女の心を疲弊させた。


 いったんそこで話が途切れ、理美は再び聞こえてくるジャズのリズムに耳を傾ける。しかし頭の中は、数日前に美香から届いた一通のメールのことを思い返していた。




 隆司のアルバム制作が本格的にスタートしたある日。美香から不穏な連絡が届いたのだ。


 美香が退院した日は、圭介が休みを取って迎えに行くと母親経由で聞いていたため、理美は圭介に美香を任せることにした。彼が退院手続きをし、そのまま彼らは実家ではなく圭介の家で過ごしていたが、その時に美香は思いもよらない提案を受けた、というメールだった。


 思いもよらない提案。もちろん、理美にも察しがついていた。気持ちに嘘をつけなくなった彼が、美香に正直に話したのだろうと想像できる。


『出生前親子鑑定を受けてくれ』


 きっと、美香にとって衝撃的なお願いだっただろう。自分の子だと認められない場合は、このまま結婚を継続できない、と彼は言い放ったという。まだ、両親に話をしていない美香は、一番に理美に相談してきたのだ。


『こんなこと、お父さんたちに言えないよ…』


 美香のメールの文末に書かれていた一文だ。もうすぐ六か月になろうとする美香のお腹の成長は、決して止まらない。理美は美香に返信した。


『本当に、彼の子なんだよね?』


 慎重にメールしたつもりだった。念を押すつもりで、「そうだよ、当たり前でしょ」という返事が来ることを期待して。しかし、理美の期待はいとも簡単に裏切られた。


『お姉ちゃんも、疑ってるの?』


 まるで嫌悪感に満ちた目をしてそう言われているようだった。文字だけのやり取りで、これほど鳥肌の立つのは初めてだった。そして、尋ねたことを後悔するのだ。


『子は鎹だって言うけど、あれは嘘だったね』


 最後に美香からメールが来た内容だった。それ以来、美香からの連絡が途絶えていた。両親に話していない手前、実家に帰って詳しい話を聞けるような状況ではない気がした理美は、躊躇っていた。それでも、何度か連絡するが、美香からの返信は来ることはなかった。


 美香と圭介の問題ではあるものの、胸の痛む問題だった。もう会わないと決めた手前、圭介に美香のことでこれ以上、口出しするわけにはいかない。彼に、理美の忠告が響いていなかったのか。本当に間違いはなかったのか。百パーセントの避妊なんてない。本当に体の関係を持っていたのなら、子どもができてしまうリスクはゼロでないはずだ。


 初めての妊娠で美香も不安になっている。自分の子ではないと主張する圭介も不安なのだろう。嚙み合わないふたりが、このまま一緒になっても生まれてくる子が不幸になるだけだ。もやもやするも、いくら理美がそう思ったところで、本当のところは本人達すらままならないのが現状だ。


 もう、隠しきれないのではないか。


 理美の頭の中で何度もリフレインする。復縁を求めてきた彼が、このまま美香の夫として丸く収まるとは思えない。しかしそれは、傷ついている美香をさらに傷つけることになる。果たしてそれでいいのか。理美の中で葛藤していた。


「ため息、多いね」


 ほかの接客から戻り、再び理美の前に戻ってきたマスターは、頬杖をついてため息を吐いている理美に話しかける。ハッとして頬杖をやめると、理美は顔を上げた。


「隆司、そんなに忙しいの?」

「毎日、連絡してくれますよ」

「それなのに、ため息?」


 不思議そうに彼女を見るマスターに、理美は苦笑いを浮かべた。


「ちょっと妹のことで悩んでて…。あの人も私が抱えてる問題のことは知ってるんですけど、今は自分のことに集中してほしいから、詳しくは話してないんです」


 残り少ないビールグラスを持ち、ぐいっと煽り、空にする。


「お替わりは?」


 空になったビールグラスを下げ、マスターは理美に優しく尋ねるが、彼女は首を横に振ってカバンから財布を取り出した。


「また来ます」

「うん。いつもありがとね」


 飲み代をマスターに渡し、理美は店を後にした。




 気分転換をしに来たつもりが、楽しい酒にならず、逆に考え込んでしまったことをなんとなしに後悔する。結局にどこにいても切り替えられないのなら、まっすぐ家に帰ったって同じだ。電車に乗り、空いている座席に座って、流れる景色を眺めている。そんな時でさえも、理美の考え事は止まらなかった。いくら考えても平和に解決する方法が見つからない。誰も妥協しないのに、円満に解決などできるわけがない。事態は暗礁に乗り上げていた。それでもお腹の子どもは大きくなる。ハッキリ言って、時間がない。


 そんなことを考えていると、カバンの中でスマホのバイブがブルブルと震えていた。カバンから取り出してみると、連絡が途絶えている美香からの着信だった。もうとっくに地元の駅を通り過ぎてしまった。オロオロしている間にバイブは切れ、ディスプレイには、美香の名前で着信の通知が表示されていた。


 理美は慌ててメールをした。あと三〇分もしたら家に帰り着く。帰ったらすぐに連絡する、と。すると、美香から「わかった」と一言、返信があった。


 自分の最寄り駅のホームに乗っていた電車が滑り込むと、理美は足早に降りて自宅へと向かった。


 部屋のカギを開け、電気をつけると、真っ暗な空間が一気に生活感が増す。急いで服を脱ぎ部屋着に着替えると、カバンからスマホを取り出し、美香に電話をかけた。何度かコールした後、応答する声が電話越しに聞こえてくる。その声は、いつにも増して低かった。


「…もしもし。ごめん、家に着いた」


 理美はなるべく平然を装っていたが、余裕はない。しかし、姉としてのプライドがそうさせていた。動揺を見せないよう、必死に取り繕っていた。


『…』


 電話越しの美香は、押し黙っている。用事があってかけてきたはずだ。何か言いたいことがあるはず、と理美は美香の言葉をじっと待った。


『…っ』


 唇を噛み締めている様子をうかがえた。美香が、葛藤している。理美はそう直感した。


「…どうしたの」


 美香の言葉を引き出すために、理美は静かに尋ねてみる。すると、固唾をのむ音が微かに聞こえ、理美はもう一度美香の言葉を待った。


『圭介さんの携帯番号に繋がらない。解約か、番号を変更したかはわからないけど、連絡が取れなくなったの』


 美香の知らせに、理美の眉間に深いしわが寄った。


「…どうして」


 つい、理美がそう漏らすと美香は鼻で笑った。


『お姉ちゃん、本当は圭介さんと一緒にいるんでしょ?』


 その口調に何の躊躇いがなかった。理美は目を見開き、大きく動揺していた。


「え…? 何言っ———」

『…私、知ってるの。圭介さんとお姉ちゃん、付き合ってたんでしょ』


 美香はいきなり核心をついてきたのだ。よほど余裕がないのだろう。もうなりふり構っていられない彼女に、理美はかけてあげる言葉を必死に探した。


「待って、美香。私の話を聞いて」

『圭介さんを返してよ!』


 悲痛な叫びが、理美の耳に纏わりついた。


「美香、お願いだから落ち着いて」


 興奮し過ぎたらお腹に障る。しかし、もう理美の言葉は美香に届いていない。理美はそれがじれったく、唇を嚙んだ。


『私、彼に尋ねたの。『お姉ちゃんのこと、まだ忘れられないの?』って。そしたら驚いていたけど、あの人何も答えなくて、最後まで肯定も否定もしなかった』


 理美は握ったスマホをつい床に落としそうになった。思考が止まる。美香は知っていた。知っていて、圭介を取り戻そうとしている。


 否定しようにも、喉まできている言葉をうまく吐き出すことができなかった。


『だっておかしいと思ったんだよね。お姉ちゃん、急に引っ越ししてさ。私に隠れてコソコソふたりで会ってたんじゃないの?』

「…それは誤解!」

『嘘』

「嘘じゃないし、ここに圭介はいないよ」

『そんなの、信じられるわけない! お姉ちゃんだって本当は』


(『お姉ちゃんだって本当は』? そのあとに続く言葉によっては、私はあなたを…)


 初めて、理美は美香を許せないと思っていた。


「…あなたは子どもを盾にして私から圭介を奪って、圭介は私に別れを告げて去っていったの。そんな人ともう一度愛し合えると思う?」


 美香の言葉を遮って、理美は続けた。そこにあったのは怒りでもなく悲しみでもなく、『無』だった。今まで傷つきながら嘆き、悩み、諦めたあの積み重なった感情が、すべて崩れていく。信じてくれないことが、これほどに堪えるとは思わず、抑えていた感情が止めることができなかった。『姉』としてではなく、『ひとりの人間』として、言わなくてはいけない。


「私が今まで傷つかなかったとでも思うの?」


 追い打ちをかけるように美香にそう問いかけるが、美香は何も言えないまま固まっている。自分の抱えていた思いを吐き出してしまった理美は、うな垂れた。できれば言わないままでいたかった。もう、関係の修復なんてできないだろう。理美は覚悟し、言葉を続けた。


「奪った、という自覚があるなら、その責任を身をもって知るといい。あなたも圭介もそれだけのことをやった。私から言えることはそれだけよ」


 本当にこんなことを言いたくはなかった。傷つけたくなかった。“奪われた”ことを知らなければ良かった。理美の頭の中でグラグラと負の感情が渦巻いていた。ずっと言えなかったことを口にした後悔と、電話の向こうで絶句しているであろう美香の顔が彼女の胸をぎゅうぎゅう締め付けて痛い。ずっと姉妹でいられると思っていたのに、もうそれは多分叶わない。美香はこの先ずっと、姉に負い目を感じながら生きていくことになる。どうして奪おうと思ったのか。一時的な迷いだったのか、それとも積年の恨みからタイミングを狙っていたのか。美香はその理由を聞かせてくれるのだろうか。理美は口をつぐみ、彼女の言葉を待つ。


『…わかった。もういい』


 美香はそう口にして、無造作に通話を切ったのだった。突然聞こえ出す切断音に、理美は大きなため息を吐いた。そして自らも携帯を耳から離し、テーブルに置いた。


 膝を折り座り直し、その膝に額を乗せて目を閉じる。ついに圭介が連絡先を変えた。これはどういうことを意味するのか。想像するのは簡単だった。美香はきっと出生前親子鑑定を拒否したのだろう。二人の絆は脆かった。なぜ? 略奪してまで欲しがったそれは、本当にそんな終わり方でいいのだろうか。そしてこれから、彼はどうなるのだろう。


(決してあの人の身を案じているわけではないけど、こんな終わり方は卑怯だと思う…)


 これではただ現実から背き、逃げ出したことになる。理美との復縁を迫ったことだって、きっと心からの願いではなかったのだろう。


(ズルい…)


 やり切れない思いが、理美の胸をくすぶっていた。そんな時、テーブルに置いた携帯から音が鳴る。理美は顔を上げ、そのディスプレイを覗き込んだ。


「!」


 すぐに携帯を手に取ると、その着信音を止めて、応答した。


『理美、今どこ?』


 少しだけ息を弾ませて話すのは、隆司だった。


「家にいるよ。どうしたの?」


 理美がそう答えると、彼は悔しそうにため息を吐いた。


『マスターから連絡きて、お前が店にいるって言うから急いでスタジオを出てきたんだけど…』

「入れ違いになっちゃったね」


 理美は小さく笑いながら、そう口にした。


『なぁ、今から会わない?』


 久しぶりのお誘いに、心が揺れる。話を聞いてほしい。そんな思いが一番に浮かんだが、小さく首を振る。


「早く上がれたなら、ちゃんと食べて、休める時に休んで?」


 理美は笑いながら彼の提案を流そうとした。今会ったら、甘えて全てぶちまけてしまいそうだった。脳ある鷹のように、うまく隠せる気がしない。


『えっと…?』


 想定外の返事だったのか、隆司は言葉を失っていた。そんな隆司に理美は慌てて付け加えた。


「今日ね、なんだか調子悪くて一杯しか飲めなかったの。ちょっと疲れてるみたいで、風邪ひいたのかも。うつしたら、悪いから。ごめん…」


 彼の反応を確かめるように理美はゆっくりと理由を述べると、隆司は「そっか」と小さな声で返事をした。それがとても寂しそうで、理美の胸がちくりと痛みが刺す。それでも、「うん」と念押ししていた。


「…おやすみ」

『あぁ。おやすみ』


 そっと通話を切り、再びスマホをテーブルに置くと、理美は立ち上がった。その足は、冷蔵庫に向かっていた。扉を開けると、缶ビールを一本取り出し、プルトップに指を入れてぐいと起こした。


 プシュッ


 炭酸の弾ける音が耳を掠め、指にかけたプルトップを一気に引き上げる。そしてグラスに注ぐことなく、直接缶に口をつけてビールを体に流し込んだ。


 まるで車にガソリンを入れるような勢いで飲み続けていたが、ちっとも美味しさを感じられず、缶を持つ手と反対側の手の甲で、口の周りについた泡を拭った。


(あんな言い訳しか思いつかなかった…)


 心配させなくないが故の嘘だったが、それでも自己嫌悪に苛まれるのだ。


『なんかあったら連絡しろよ』


 いつだかに隆司がくれた言葉が、理美の頭の中でこだましている。何度もそれで救われた。しかし今はそれに甘えていい時期ではない。もう少し嘘をつくのがうまくならなければ、余計に心配されてしまう。


 しかし、嘘つくのがうまくなったら、その先には何があるんだろう…


 考えるだけで怖くなる。誰を守るために嘘をつくのか、わからなくなりそうだった。




 圭介と連絡が取れなくなったと聞かされてから三日ほど経った、週明けの月曜日。いつものように目覚め、ムクッとゾンビのように起き上がると、会社に出かける支度を始める。休み明けだというのに、全く疲れが抜けていない。


(いくら寂しいからって、飲み過ぎかな…)


 このところの酒の消費量が激しいことに理美はとっくに気付いていた。空き缶入れが溢れかえっている。ちょうど月曜日は資源ごみの日だ。空き缶の入った四五リッターのゴミ袋の口を縛りゴミ箱から取り出すと、それを玄関の隅に置いた。


 その足で洗面所に入ると、鏡に写る自分の顔をチラリと見た。情けないほどにハッキリと浮かび上がっている目の下のクマに、思わず苦笑いする。しかしどうせ化粧で隠してしまう。


(大丈夫…)


 小さく頷きながら、洗顔を始めた。そして思い通りに動かない体に鞭を打ち、出かける準備を始めたのだった。


 いつも通り家を出発し、いつも通りの満員電車に押し込まれて出勤する。それだけで疲弊してしまうが、忙しい仕事はプライベートなことを考えずに済む分、いくらか気は楽だった。


 顔にへばりついた仮面が外れないように細心の注意を払いながら、その日を過ごしていく。そうやって誰かに悟られることなく、理美は影の存在に徹していた。それはとても孤独で、ひどく寂しい。誰にも打ち明けられない胸の内を、自分の中だけで消化するのは、とても消耗する。気付けば、隆司への連絡も、隆司からの連絡も減っていた。


(当然だよね…)


 帰りのラッシュで混み合う電車に揺られていた理美は、やっと元の自分に戻ることができる。正直なところ、隆司のことでさえも思いやる余裕などもう残っていなかった。


(あの時は、大丈夫って思えたけど…)


 彼の部屋に泊まった時だ。好きだと言ってくれたその言葉で、別れることになっても生きていけると信じていた。しかし今は…


(何の希望も感じない…)


 その虚な視線は、生気を感じられなかった。小さくため息を漏らし、吊り革に捕まりながら目を閉じる。電車の揺れに身を預け、何も考えることをやめた。




 駅を出て、理美がフラフラと家に向かって歩き出した、その時だった。パシっと手首を捕まえられ、その反動で体をこわばらせた。眉をひそめながらそっと振り返ると、同じような顔をした隆司が冷たくなった理美の手をしっかりと握っていた。


 驚き、思わず理美の瞳孔が開く。すると、隆司はあからさまに目を逸らした。唇を噛み締め、肩が震えている。


「マスターがお前の様子を心配してて会いにきてみたら…」


 そう口にした隆司をぼんやり見つめていた理美は、初めて彼が怒っていることに気付いたのだ。


「お前にとって俺はそんなに頼りない?」


 彼女の手を握る手に力が込められる。その痛みに顔を歪め、理美は顔を伏せた。隆司はハッとして手を離すとやり場のない思いをため息と一緒に吐き出した。


「ごめんなさい…」


 隆司がまた自分のために貴重な時間を割いて心配している。その現実が理美の肩に重くのしかかる。心配させるつもりなどなかった、と言うべきかどうか迷っていると、隆司は利き手で理美の左肩を掴み、自分の胸へと引き寄せた。そして彼の右手は理美の後頭部に触れ、理美の髪に自分の顔を埋めた。


 忘れかけていた隆司の体温と匂いが空っぽの身体に沁み込んでいくようだった。


「会いたいのに、しれっと拒否されるのはちょっとキツいんだけど…」


 苦笑いする隆司のその声が理美の耳元で聴こえると、理美は何度も何度もうなずいていた。


「今日はお前の家に行ってもいい?」


 彼の提案を聞き、理美は顔を上げて隆司の顔を見ると、縦にひとつうなずいたのだった。




 コンビニで簡単に夕飯を買い、二人は揃って理美のマンションに向かって歩き出した。ギターケースを背負った隆司と手を繋ぎ歩いているが、二人の間に会話はなく、ただ靴音だけが響いていた。しかし、さっきまで倒れそうだった理美の足取りは明らかに軽く、フワフワしていた。


 部屋に着き、早速買ってきたものを食べて始めた。あんなに食欲がなかったのに、理美も買ったものを無駄にせず平らげてしまった。片付けてからキッチンで淹れたお茶を持ってリビングに戻ると、リラックスモードになってソファに座っている隆司の隣にちょこんと腰を下ろす。すると、彼は理美の肩を抱き寄せた。


 肩に触れる彼の手が暖かく、ひどく安心する。理美は少しずつだったがここ最近の美香のことをポツリポツリと喋り始めたのだ。隆司は黙って彼女の話に耳を傾けていた。


「…なるほど」


 話を聞き終わった隆司はそう呟いた。そして抱き寄せていた理美の髪を優しく撫でた。


「…辛いよな。それは…」


 こくりとうなずき、俯いた理美の髪を指先で梳かしながら彼はそう口にした。


「だからって、ひとりで抱えなくていいんだって」


 その言葉に、理美は反応して俯いた顔を上げて彼の表情を窺った。


「お前さ、前に『自分にはそんな価値がない』って雨でずぶ濡れになった時に言ってたけど、そうじゃない。俺はお前にまた出会えたから、今後のことをやっと考えられるようになったんだ。だから、『価値がない』なんて思ってない」


 自分の情けない時期を思い出し、つい苦笑いを浮べている隆司の声はとても柔らかく、理美の中へと響いていた。


「別れてから十年経って、変わらない人なんていない。人なんて、環境に左右される生き物なんだし、そんなの当たり前だ。ただ、たとえお前があの時とまったく違う人になってたとしても、惹かれるものがあればもう一度好きになれる。俺は、過去のお前を求めてるわけじゃなくて、今のお前が大切なんだよ」


 その迷いのない声は、温かみを帯びている。理美は何度もうなずいていた。


「…確かにこの話を聞いて、俺が解決してあげられるようなことじゃないから、話を聞いてあげることしかできないんだけど」


 隆司はそう前置きをし、溜めた息を吐き出した。そして続ける。


「話を聞くことでお前の痛みを共有することができる。一緒に乗り越えたらよくないか?」


 彼の言葉が胸を突き、理美はゆっくりと体を離して隆司の顔を覗き込むと、隆司の目が理美の揺れている瞳を真っ直ぐに捉えていた。それはいつになく優しい。ついさっきまでこの世の終わりみたいな顔をしていた理美だったが、隆司の存在の大きさを思い知る結果になり、彼には嘘をつけないのだな、と改めてそう考えていた。実に今の自分という存在が彼にとってマイナスであることを訴えたとしても、彼がこの手を離すことがないと思うには十分だった。


(一緒に、乗り越えていい…?)


 今まで、理美はそんな考えに至らなかった。隆司の将来が心配で、自分のせいで経歴に傷がつかないようにと、彼女はそれしか考えていなかったからだ。


「俺さ、アイドルじゃないから別に恋愛禁止とかそんなのないから。そういうのも曲作りの一環だと思うし、ってだからお前と付き合ってるわけじゃないけどさ」


 指先で理美の髪に触れながら彼は穏やかに言葉を紡ぐ。理美はそんな彼の心地よい“声”が理美の中へとゆっくりと浸透していく。


「俺の日常に自然とお前がいて、そういう他愛のない環境で曲を作りたいって思ってるから、お前が悩んでるんだったら一緒に悩みたいって思う。そういうの、大事だから」


 髪に触れていた手が、頬にそっと触れた。すっかりと血色の良くなった赤みを帯びた頬に触れたその指先は、ひんやりと冷たかった。温度差に驚き、理美がその指先に自分の手を重ねたとき、彼は唇を寄せた。理美も自然と目を閉じ、そっと隆司の首に手を回していた。


(愛されるって、こんなに満たされるんだっけ…)


 夢中になって触れ合っていると、不意に理美はそう思っていた。圭介と愛し合っていた時はそうだったかもしれない。しかし別れる直前もお互いに触れ合うこともなく、疑心暗鬼になっていた。愛おしいとは到底思えず、それなのに結婚を望んでいた。一緒にいる時間がそれなりに長かったためか、いつの間にか、“変化”を怖がっていた。しかし今になってそれが間違っていたと自信をもって言える。


 そんな甘い夜を過ごしていると、理美のスマホにメールが着信した。しかしスマホの些細な着信音など、二人の吐息に搔き消されて彼らの耳には届いてはいなかった。そのメールの内容を知る時にはもうすべてが何もかも遅く、そして姉妹が深い傷を負うことになるなど、誰も知らなかった。




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― 新着の感想 ―
[気になる点] 龍司と隆司がこんがらがってしまうんですが、、、
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