八 後悔
理美の足は、隆司のアパートに向かっていた。昼間に別れた時に、事務所との打ち合わせは三〇分くらいだと彼は言っていた。もしかしたら、帰っているかもしれない。腕時計を見ると、夜七時を回っているところだった。随分と時間がかかってしまった。美香の入院、圭介との最後の決別。些細な思いつきで行動した結果が、大変なことになった、とため息を吐かずにはいられない。
エネルギーを使い果たして空っぽになってしまった身体を隙間なく満たしてほしい。あのごつごつした手のひらで触ってほしい。もっとキスをしてほしい…。理美はもう隆司のことしか、考えられなくなっていた。
あの金属製の階段を一歩一歩と上がり、やっと部屋の前まで辿り着いた。相変わらずの彼の城の玄関先の小窓からは、中の灯りが何ひとつ漏れていなかった。
(今日、休みだって言ってたのに…。飲みに行っちゃったのかな)
カバンからスマホを出し、連絡が来ていないか確認する。しかし、理美のスマホには彼からのメールも着信も来ていなかった。電話をしようかと画面を指でスライドして電話帳を出したが、躊躇した。
(…電車に乗ってるかもしれない)
メールだけ入れることにした。『用事が終わったから、部屋の前で待ってる』。送信。
すぐに既読になることはなく、理美はメールアプリを閉じて、玄関まえで待つことにした。
一時間経ち、さらに二時間経ってもメールは既読になることはなかった。気づけば、もう夜の十時を越えている。理美の顔には、落胆の色を隠せないほど、疲れ果てていた。しかし、家主が帰ってこないなら、自分は立ち去るしかない。やっとの思いで立ち上がると、勝手にため息が漏れてしまう。
(会いたかったな…)
名残惜しそうにゆっくりと階段を降りると、アパートの前に一台のタクシーが停まり、開いたドアから聞き慣れた声が理美の耳を掠めた。その様子を見ていると、その開いたドアから出てきた隆二は、中にいる『もう一人の人物』に何か話しながら慌てて自分の部屋に向かって来たのだ。階段の途中で動けないでいると、やがて、隆司と視線が交わった。彼の目が少しだけ大きく開き、思わず腕時計を見て時間を確認していた。
「理美、来てたのか」
「おかえり。遅くまでお疲れさま。今日はもう帰るね」
気丈に振る舞うフリをし、ニコッと笑ってから俯いた。
こんな時間まで何をしていたの? とか、メール見なかったの? というセリフが喉元まで出かかり、必死で飲み込む。仕事なんだからしょうがない、と割り切っているつもりなのに、理美の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。しかし、それを流すまいと必死にならなければ、理不尽に責めてしまいそうだった。
彼を追い抜き、階段を降りようとすると、隆司はそんな理美の腕をそっと掴んだ。
「ごめん、随分待たせたんじゃないか? 俺、部屋にあるギターと楽譜を持ってまたすぐに出ないと行けないんだけど、お前明日休みだろ? 必ず帰って来るから、部屋で待ってくれよ」
彼はそう言って、階段を駆け上がり玄関のドアを開けると、急いで靴を脱ぎ室内へと入っていった。そして、ギターと書類ファイルを手に持ち、玄関の引き出しから裸の鍵をポンと理美の手に握らせたのだ。
「スペアキー、預けとくから」
ニコッと笑って白い歯を見せる隆司に、理美はポカンとしていた。
「ちょっと録音してくるだけだから。悪い」
隆司はそう告げて、ドアを開けっ放しで階段を軽快に降りていくと、待たせていたタクシーに乗り込んだ。そして、車はあっという間にアパートから過ぎ去っていったのだ。手のひらに落とされた部屋の鍵を見つめ、理美は降りかけていた階段を登り始める。
(こんな時間に、録音? …って昼も夜も関係ないのかな…)
それでも、無下に扱われないことに、少しだけホッとしていた。職業柄、時間のすれ違いは仕方ない。こうして、簡単に合鍵を渡してくれることに、少なくても『特別』であることを実感できる。“必ず帰ってくる”という言葉がやけに理美の中に残り、残念がっている心をそっと包み込んでいた。
靴を脱ぎ、相変わらず物の少ない部屋だなぁと思いながら、カバンを無造作に床に置くと、いつもの黒いカウンチに腰を下ろした。部屋の灯りは付けず、窓から差す月明かりだけで充分だった。つい足を投げ出して自分のスマホをいじっていたが、手持無沙汰を否めなかった。何か飲みたいと立ち上がり、キッチンのシンク下に備え付けられている小さな冷蔵庫を開けると、缶ビールが数本入っているだけで、お茶類がない。さすがに家主がいないのに、勝手にビールを飲む気にもならない。今日の昼間に入れてくれたコーヒーを思い出し、備え付けてある小さな棚を開けると、コーヒーセットが入っているのを見つけた。豆と手動のコーヒーミルとペーパー、そしてサーバーのセットだ。
どれも、隆司がコーヒーを入れてくれる時に使っている、見慣れたものだった。せっかくだから、コーヒーでも飲みながら長い夜を待とうと、キッチンの電気のスイッチを押した。チカチカしたあと、パッと明るい光が狭いキッチンを照らす。一口コンロの上に乗っていた小さなやかんに水を入れ、火にかけると、次にスプーンで計った豆をミルに入れて、ゴリゴリとハンドルを回した。彼女自身、自分で挽いた豆でコーヒーを入れたことはあまりないが、実家の父拓海がコーヒー好きで、香りを楽しみながら同じことをやっていたのを見たことがあった。
確かに、自分で挽いていると、それだけでコーヒーのあの深くて甘い香りが鼻腔をついた。それだけで、おいしいコーヒーにありつけそうで、ワクワクした。ハマる理由はこれか、と思いながら理美は挽いた豆をペーパーを敷いたドリッパーに移す。そのころ、ちょうどお湯が沸き、注ぎ口から蒸気が上っているのを確認すると、火を消した。そして、ドリッパーに移した豆の粉に目掛けてやかんのお湯を少しだけ注いだ。そこで十秒数えて蒸らす。十秒経ったら再びお湯を注ぎ、サーバーに琥珀色の液体が少しずつ落ちていく様子を見つめていた。
ゆっくりゆっくりと琥珀色の滴がポチャンポチャンと落ちていくのを見つめていると、どうしても昼間のことを思い出していた。ガラスに映る自分の顔に気づくと、逃げるように追加のお湯を注ぐ。今度は、顔が映りこまないようにそっとサーバーを覗き、一滴一滴落ちるコーヒー液を眺めていた。誰もいない室内は、自分が声を上げなければ何も聞こえてこない。静寂な空間は、理美を寂しさの淵まで追いやった。最後の滴が落ちると、適当なマグカップを戸棚から出して、サーバーから注ぐ。ふんわりとした湯気とともに甘く香ばしい薫りを漂わせながら、カップを手に黒のカウンチへと再び腰を下ろした。淹れたてのコーヒーが入ったカップを両手で包み込むように持ち、口へと運ぶ。
「アチ…」
思ったより温度が高かったのか、舌を火傷しそうになったが、自分の手で淹れたコーヒーを堪能する。拓海が実家で楽しそうにコーヒー豆を挽いていた気持ちを理解でき、また隆司も淹れるたびにワクワクしながら作ってくれていたことを知り、理美は少しだけ気が晴れた気がしていた。
コーヒーを飲み終わり、カウンチに深く身を沈めると、カウンチのファブリックから隆司の匂いを感じた。背中を丸め、そのまま目を閉じる。コーヒーを飲んでカフェインを取ったというのに、温まった体は眠気を催し、一瞬、眠気で落ちた。ウトっとして握っていたスマホが手から零れ落ちてゴトっと床にぶつかる音で微かに瞼が反応するが、一度閉じてしまった瞼は重たく、理美はそのまま意識を手放してしまった。
「理美、起きて」
落ちていた意識を呼び戻され瞼を開けると、隆二が理美の顔を覗き込むように見下ろしていた。その顔は眉が下がり、あまり機嫌がいいとは言えないような微妙な表情だった。起き抜けの頭がちゃんと働かないような状態でも不安が過ぎる。それでも言われた通り、彼女はゆっくりと起き上がった。
「悪いんだけど、すぐに支度をして出て行ってくれるか?」
「え…?」
突然の言葉に意味がわからず、顔をしかめる。しかし、彼はお構いなしに言葉を続けたのだ。
「デビューが決まって、事務所の社長から、スキャンダルのネタになりそうなものは、芽のうちに摘んでおけって言われて。悪いんだけど、別れてくれ」
自らの言葉に迷いも罪悪感もなく、なにより割り切った口調。さらに彼の感情を読み取ることができないほどのポーカーフェイスが目の前にあった。まるで、かつて好きだと言ってくれた人とは別人のようだった。
思いもしないことを言われ、動揺しないわけがない。しかし、隆二は平然とした顔をして部屋に散らばった理美の私物を彼女のバッグに次々と投げ入れていく。
「ちょっ…、待って…」
手を伸ばし、彼の行動を制しようとするが、あの狭いアパートの中にいるのに、届かない。届かないどころか、隆二と彼女の距離がどんどん空いてしまい、声も届かなくなっていった。
いくら大きな声で呼びかけても、こちらを見てくれない。見てくれないどころか、背を向けて歩き出してしまった。小さくなっていく彼の背中を追いかけるも、足がもつれてうまく走れない。ついに転んでしまい、膝に走る痛みが全身に駆け巡っていく。苦しさと哀しみが一気に彼女を支配した。やがて足元が不安定になり、ズブズブと沈んでいく。底なしの沼にハマったかのように足元を取られながらも進もうとするが、もがけばもがくほど体ごと沈んでいくのだ。視界の脇から、知らない女性のシルエットが見える。彼はそのシルエットに手を伸ばし、腰を抱いたまま、歩いて行ってしまった。もう点にすら見えなくなった彼の後ろ姿は、完全に消えてなくなった。
「あああ…!」
叫び声に近い声をあげて、それでも見えなくなったあの後ろ姿に必死に呼びかけていた。しかし、叫び声は消え、空へ伸ばした手は、指の先まで底なしの沼へと飲み込まれてしまった。
次に意識を取り戻したとき、理美の全身が汗でしっとりと濡れていた。嫌な夢で、心臓の鼓動が跳ねるように叩きつけている。呼吸が浅くなっていることに気づき、思わず手で顔を覆った。その時、指先に涙が触れ、泣いていたことに気付いたのだ。
ふと今の状況に疑問に思った。何故か右の肩はしっかりと抱かれている。ハッとして目線を少し上げると、視界に飛び込んできたものは、太くてしっかりした首元だ。そして、微かに揺れる頭頂部の髪の毛は、考えるまでもなく…
いつの間にか布団の上で寝かされていることに気づき、隆二の腕の中にいた。理美は少しだけパニックになりながら昨日の記憶を辿る。コーヒーを飲んだ後、カウンチで横になって寝てしまったはず…。
(帰ってきて、布団敷いて、寝かしてくれたの…?)
もう一度少しだけ視線を上にずらし、間近で眠る隆司の顔をちらりと見ると、深い眠りについていることがわかる。
(いつ帰ってきたんだろう…)
隆司の肩に自分の額を預け、彼の存在を確かめていた。
(生きてる…ってそりゃそうか)
ちゃんとここにいる。ちゃんと帰ってきてくれた。自分の家なのだから帰ってくるのは当たり前なのだろうが、それでも約束を守って帰ってきてくれたことに、胸が締め付けられた。
(あんな夢を見るって、どれだけ不安だったのだろう…)
あどけない寝顔で眠る隆二を見ていると、昨日の衝動が嘘みたいに消えていた。気持ちを上書きしたくて、隈なく自分の全てに触ってほしかったのに、こうやって抱き合いながら平和そうに眠る彼を見ていると、漣が凪いでいくのがわかる。嘘みたいに穏やかになれるのだ。
やがて全身にかいた汗が引き、落ち着きを取り戻した理美は、彼の心音を聞きながら目を閉じた。彼の体温をシャツ越しに感じながら、トクトクと規則正しく打ち付ける音が、自分の心音と微妙にズレていることに笑った。
(…私の方が早い。ドキドキしてる…)
そんなことを考えながら、日曜日の朝を迎えていた。
隆二が目を覚ましたのは、それから二時間後だった。抱きしめられながら彼が起きるのを待つのもアリだったが、単純にトイレに行きたくなり、そっと彼から離れたのだ。起きたらご飯が食べられるようにと、さっと出かける準備をすると、理美は昨日の夜に預かった鍵を持って、外に出た。
今日もまだまだ太陽が高い。しかし、遠くの空には入道雲ではなく鱗雲が広がっていた。夏も終わりが近づいている。そんな他愛ないことを考えながら、アパートから近いコンビニへと入った。
作ってもいいのだが、一口コンロだとなかなか要領よくできるか心配だった。トースターもちゃんとした包丁もないようなキッチンだ。適当にサンドイッチとサラダと飲み物、また簡単なスキンケアのセットなどを調達し、足早に部屋へと戻った。
部屋に戻り、買ってきたものを冷蔵庫にしまうと、使いっぱなしにしていたコーヒーのセットが目に留まる。彼女は、洗ってしまおうと片付けを始めた。水道の蛇口を捻って水を出したとき、思った以上に勢いよく流れ出てしまい、慌てて水を止めた。その時、隆司の寝息が一瞬止まり、そっと彼のほうへと視線をやった。
(起こしちゃったかな…)
寝返りを打つ彼をキッチンから覗いてみるが、まだ起きる気配はなかった。少しだけ安堵して彼女は洗い物を続ける。とりあえず引き出しをガチャガチャすると起きてしまいそうだったため、洗って布巾で軽く水気をふき取り、台の上に伏せて置いた。
外から戻った時にかいていた汗も落ち着き、カウンチに腰を下ろして買ってきたオレンジジュースを飲む。涼しい部屋にいるとはいえ、昨日からシャワーを浴びていない体は少しベタついている。隆司が起きてからシャワーや着替えのことを相談するにしても、取り急ぎさっき買ってきたボディシートで体を拭こうと理美はシャツを脱ぎ、下着姿になった。そして、彼に背を向けたまま上半身をウェットシートで丁寧にふき取り始めると、ひんやりとした刺激が肌を刺す。拭き終わってからしばらくの間、そのまま膝を抱きながら眠っている彼を眺めていた。
隆司が寝ているとはいえ、自分がかなり無防備な格好をしていることを自覚していた。上半身をウェットシートでふき取った時の水分が飛ぶまでの間だと思いながら、足を拭き始める。ひと通り作業が終わると、やることがなく時間を持て余してしまった。背中を向けて横になっている隆司を目にした時、理美はウェットシートを一枚取り出すと、隆司の元へと近づいた。そして、彼のシャツをたくし上げて、下から上へと背中をひと拭きしたのだ。
「うお?!」
突然冷たい刺激が彼の背中を這い上がり、隆司は身悶える。それを見て、理美は悪戯に笑った。
「び、びっくりした…。起こすならもっと穏やかに起
こせよ…」
横になってのけ反ったまま、眉を寄せて困りながらも笑顔を見せる彼の顔を理美は覗き込んで、クスクスと笑う。すると、そんな彼女の頬に隆司は手を伸ばして指先が触れると、彼はそっとキスをした。キスしたまま理美の肩を抱き寄せて、肩や背中を優しく愛撫する。さっきまで悪戯で笑っていた理美の頬が赤く染まり、体温が上がる。熱を帯びた彼の唇が心地よく、角度を変えて何度もキスを交わす。そして、隆司は自分の腕の中に理美を閉じ込めていた。
「…もう、そんな格好してるから…」
隆司が耳元で愛おしそうに声を絞り出し、理性と闘いながらぎゅっと彼女を抱きしめる。理美は下着にキャミソールを着た状態で悪戯していたことを思い出し、我に返る事態になった。思わず体を引いてカウンチに置きっぱなしのシャツに手を伸ばしたが、彼がそれを許さなかった。そして隆司は理美の顎を指ですくうと、熱に侵された目でじっと見つめた。理美もその視線に抗うことができず、十年前に見た彼の茶色い瞳に引き込まれていった。
あの時と同じように、心臓が跳ねるように叩きつけている。お互い大人になったというのに、あの時と同じように慎重だった。緊張して、のどが渇く。理美がそう思ったとき、彼は彼女の瞼に、頬にと自分の唇を這わせていった。自分の唇と彼女の唇が重なった時、さっきよりも深く貪るように口付けたのだ。息絶え絶えに飽きるまでキスをした後、やがてその唇は首筋へ這わせると、とろけそうな意識のまま理美は昨日の衝動を思い出していた。
こんなふうに愛してほしかった。気持ちも、身体も幸福でいっぱいにしてほしかった。
そして今、それが叶い、胸がはちきれんばかりに期待でいっぱいになる。理美は隆司の首に腕を回し、彼のすべてを受け入れていた。
「昨日はごめんな」
シャワーから上がり、タオルで髪を拭きながら彼はそう口にした。先にシャワーを借りて浴び、彼のTシャツを借りてすっかり着替えた後、理美が部屋の窓辺で外を眺めている時だった。
「え?」
「メール、全然見てなくてさ。軽い打合せだって言うから行ってみたら、曲の方向性とかの話になって、ギターを取りに帰る事態になって…」
そう吐き出すと、隆二は深いため息を吐いた。
「エライ目にあった」
苦笑いを浮かべた彼は、理美の横に並び、理美の眺めている景色を探すように窓の外を見た。
「なんかあったのかな、って。少し怖くなった」
「怖く…?」
隆二の言葉に、少し思考を巡らせながら聞き返す。すると彼は小さくうなずいた。
「また理不尽なことが起きたんじゃないか。理美がまた悲しんでるんじゃないかって…。涙が見えたから」
そう口にしながら、隆司は理美の髪に触れた。そして、彼女の耳に髪をかけながら小さく笑って見せた。
理不尽…
圭介の気持ちは、褒められたものではない。何が理不尽かと言えば、圭介と美香の間にある唯一の絆が揺らぎ、壊れそうなことだ。二人の鎹が大きくなるにつれて、心の距離が遠くなる。それは、自然と疑惑を生む。本当に圭介の子どもではないのか。ただ、責任逃れをしているだけなのか。あの涙は嘘だったのか。本当に恨まれているのか。
(何より、私はこの人を巻き込んでしまった… それは果たして正解だったのか)
「…理美?」
外を眺めながら、ぼんやりと考え事をしていた彼女の名を、隆司は呼んだ。
「あ…、うん。ごめん。心配させちゃって。昨日は、美香が切迫早産で家で倒れてて…。救急車呼んだり気を揉んだから疲れちゃって…、顔を見たかったの」
嘘ではない。理美は心でそう呟いた。
「さっき、曲の方向性とかって言ってたけど、アルバムでも出すの?」
理美は話を切り上げ、昨日の隆司の行動から、彼の仕事に関する質問をすると、隆司はうなずいた。
「ソロデビューすることになって、ミニアルバムを作ることになった。昨日はスタッフの顔合わせで、すぐ終わる予定だったのにさ」
理美の中で、何かがバランスを崩して砕けた気がした。それはずっと前からあって、あえて蓋をしていた感情。腐った木片のようなそれが、今届いた情報によって粉々になってしまった。
「そっか。おめでとう」
それでも、理美は自分のことのように微笑んで喜んでみせた。彼女は、そのつもりだった。しかし、そんな彼女を見る隆司の目は少しだけ、寂しそうでドキッとする。
「しばらく制作のために時間を使わないといけないし、その間店も休むつもりなんだ。もしかしたら、昨日みたいに夜中までスタジオに籠る日もあるかもしれない。なるべく寂しい思いをさせたくないって思ってるけど…」
その言葉を聞き、徐々にその言葉の意味を頭の中で消化する。理解できないほど子どもではない。もちろん夢に向かって歩んでいる彼を応援したいと思っている。そこでふと、理美はあの時追いかけてきた千佳という少女の言葉が頭を過ぎる。
『彼を好きなら彼の夢を邪魔しないで』
何ひとつ解決していないこの状況で、この先、穏やかに隆司と過ごしていけるのだろうか。
彼は、『何が一番大事か』を決めるのは、他人ではなく自分だと言ってくれた。それは、単に彼女を安心させるだけの言葉ではなく、本心なのだと理解できる。しかし、理美は心から嬉しいと思う反面、なんとなく違うとも思ってしまう。そして、そんな気持ちの彼に水を差す勇気もないのだ。
(私を気に掛けてくれる価値なんて、あるの…?)
今置かれている理美の状況は普通の日常とは違う。理美に何かが起こった時、“大事な時期である”隆司にとって何か影響が出ることは許されない。そんな思いが、理美の心を重くする。
「…今日はなんだか考え事が多いな」
いつの間にか隆司は理美の背後に回り、背中から抱きしめていた。理美の髪に顔をうずめ、まるで繊細なガラス細工を扱うかのように丁寧に肩を抱きしめる隆司に、理美の思考は停止していた。
(何も考えずに、応援できたら…、どんなに楽か…)
彼の体温を感じながら、目を閉じていた。手放しで喜びたいと思っているのに。
(私の心に余裕がないから、かな…)
首筋に冷たい感触が優しく触れる。愛おしそうに、丁寧に…
大事に思っていてくれていることが痛いほど解り、余計に理美の心が軋み、痛みが波紋のように広がっていく。
「…いいものができるように応援してる」
くるりと振り返り、理美はニコッと笑いかける。そして、彼の背中に手を回して、抱きしめた。しかしその肩は小さく震え、それを抑えるために彼女は隆司の背中のシャツをギュッと握っていた。
「…理美?」
ちょっとした違和感を覚えた隆司が、彼女の心の中を確かめるように呼び掛けた。
「しばらく触れられそうにないから、体に記憶してるの。あなたの感触と、匂いを」
理美は、精一杯明るい声で答えたが、顔は彼の胸にうずめたままだ。
「…そんな大げさな。俺はどこにも行かないよ。連絡だってするし」
そんな理美のことを優しく笑い、彼もぎゅっと抱きしめる。
(そう。この人はどこにも行かない。だから、解放してあげないといけない日が来るかもしれないんだ…)
理美の心がもつか、隆司が遠くに行ってしまうか。いずれにしても、彼の邪魔になることはできない。ここからは一人で歩く覚悟が必要だった。
(今日見た夢のように、いっそのこと突き放してくれたら、あきらめもつくのに、な…)
思い出しただけで涙が出そうなほど辛い夢。本当なら離したくない。楽曲制作に専念してもうために、全力で応援したいし、支えたい。
自分の心のまま正直に進めば、何か変わるだろうか。それはどこまで進めば、平和だった日々に辿り着くのだろうか、みんなが笑っていられる景色を見られるのだろうか。ついそんなことを考えてしまう。
もし、この状況が予め決まっていた未来ならば、あの時あの場所で隆二との再会も必然だったのだろうか。もしそうだとしたら、この戦いは誰の犠牲もなく終わらせることができるのだろうか。それとも、誰かが犠牲にならないと終わらないのか…。憶測ばかりが頭の中を過ぎり、結末が全く見えない。深い霧の中で出口を探りながら進まなければならないこの状況で、そもそも道に迷わずに平和に「そこ」へ辿り着ける方法などあるのだろうか。
「ねぇ、先輩…」
顔を上げ、理美がつぶやくように彼を呼ぶ。視線だけ理美に送る隆二に、理美は続けた。
「好き…」
消え入るような小さな声で呟かれた言葉だったが、ふたりのその距離感で隆二の耳に届くには充分だった。こんな時だから、後悔しないように伝えないといけない。理美はそう思ったのだ。
「…うん。俺も、好きだ。もう失いたくない」
彼がそう答えると、彼のその優しい瞳を見つめていた。見据えたその目に、決意のようなものを感じると、理美の頬に涙がひと筋、ふた筋と流れ落ちていった。彼のその言葉を噛み締めながら目を閉じる。
(その言葉があれば、たとえひとりになっても生きていける。離れてしまっても、応援できる。この人にどんな事情があって私の手を離さざるを得なくなっても…)
その心情に、なにひとつ嘘はなかった。