七 痛み
数日前の圭介の言葉が彼女の全身を駆け巡り、理美は集中できなかった。
『俺たちは美香にハメられたんだよ』
そんな馬鹿な。現実を受け入れなれない圭介の世迷言なのではないか? 美香のお腹が大きくなるにつれて焦燥感が募るのか、逆に冷静になったのか。誰も疑っていない状況で、出生前親子鑑定を受けようと提案するのは、確かに難しいだろう。それを圭介が言ったら、なおさらだ。
「…美、理美」
コーヒーカップを握ったまま、考えに没頭していたところに、目の前に座る隆司が声をかけた。すると、急に理美は一気に現実に引き戻された。
「ご、ごめん…」
土曜日の午後。コーヒーにこだわっているという彼のお呼ばれで、理美は手土産を持ってあのボロアパートを訪れていた。幸せな時間を過ごしているはずなのに、理美はやはり、圭介の言葉に翻弄されていたのだ。
「…どうかした? 体調悪いの?」
心配そうに顔を覗き込む隆司に、理美は首を横に振った。
「違う! そんなことない。呼んでくれて嬉しい」
理美は手を伸ばして向かいに座る彼の髪に触れた。
「そう? …なんかあったらすぐに言えよ?」
「うん。ありがとう」
せっかく淹れてくれたのに、考えごとで温くなってしまったコーヒーを口元まで運び、それを一口飲むと隆司は再び口を開いた。
「今日の夕方なんだけど、ちょっと東京の事務所に用事があって行かなきゃなんだけど、一緒に行く?」
「え、いいの?」
「もちろん。ただ外で待っててもらう感じなるけど、ちょっとした打ち合わせだから、三十分くらいで終わると思う」
出窓に置いた置き時計を見ながら隆司がそう答えると、理美は視線を下げて少しだけ考えた。そして、すぐに隆司の顔に視線を戻すと、彼女は首を横に振った。
「ちょっと実家に帰って、妹に会ってくる。聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
隆司が聞き返すと、理美は縦にうなずくだけで多くを語ろうとしなかった。そんな様子を見て隆司は何かを察したのか、彼がそれ以上聞くことはなかった。二人は、理美の買ってきた、美味しいと評判のベーカリーのパンを笑顔で食べながら、改めて残りのコーヒーを楽しんだ。そして残りの少ない時間で、名残惜しそうにキスをする。無条件に体温を分け与えてくれる隆司を愛おしくてたまらない。
「また連絡する」
彼女に手のひらを見せながら、隆司が反対側の電車のホームへと降りて行った。理美もその姿を見送った後、くるりと踵を返し自分の乗る電車のホームへと向かって歩き出した。
乗り込んだ電車は、ちらほらと空席がある程度に空いていた。ちょうど一番端の席が空き、すかさずそこに座ると、すぐに電車は発車した。徐々にスピードが上がり、揺れ始める。理美はその心地良い揺れに体を預け、向かいの窓の外を遠目で眺めていた。実家に帰ったところで、美香から何を聞き出せるのかなど保証はない。しかし、理美は圭介からあんな話を聞いて、それを確かめずにいられなかった。
汗をかきながら駅からの道を歩き、とうとう実家の前まで到着した。ここにまで来て、彼女の足はすくんでいた。元々自分の家で、ただドアを開けるだけなのに、なんとなく気が進まなかった。しかし、そんなことを言っていられない。理美は鍵を開けてからそっとドアノブに触れ、ドアを手前に引いた。
「ただいま」
玄関で一応声をかけるも、小百合と拓海は相変わらず仲良く買い物に出かけているようで、玄関に靴がなかった。中の気配を窺うと、どうも一階に人気を感じることはできなかった。仕方なく理美は靴を脱ぎ、家に上がるとリビングへ向かう。床に荷物を置き、今度は二階へ上がってみようと階段を上り始めると、唸り声がかすかに聞こえ、眉をひそめながら立ち止まった。
(…猫? いや、まさか)
耳を澄ましてその声を辿る。再び階段を上り始めると、美香の部屋のドアが少しだけ開いていた。理美はそのドアを大きく開けて中に入ってみると、床にうずくまって倒れている美香が目に飛び込んできたのだ。
「ちょっ、美香? なに、どうしたの?」
慌てて駆け寄り、美香に呼びかけるが、苦痛の表情の美香からかろうじて聞き取れたのは、「お腹が痛い…」だった。
「救急車!」
しかし理美の携帯は、一階に置いてきてしまったカバンの中だ。慌てて下に降り、家の電話から一一九へとダイヤルしたのだった。
妊娠がわかってから検診で通い始めていた病院へ運ばれた美香は、医師の処置を受け、痛みから解放されたようだった。今は、穏やかな顔をして病室で眠っている。理美は両親と圭介に連絡した。そしてひと段落ついたとことで、医師から聞いた話を思い出していた。
「…切迫早産、ですか」
医師から聞いた聞き慣れない言葉をオウムのように聞き返す。
「お母さん、十九歳でお若いでしょ。若い方には多いんですよ。あとはストレスとか冷えとかですかね。無理しないよう、気を付けてあげてください」
診察した結果、大事には至らなかったようだが、念のため二日ほど入院することになった。
病室はとても静かで、聞こえるのは美香の寝息だけだ。さっきまで青い顔をして倒れていたというのに、今では無邪気な顔をして眠っている。そんな天真爛漫な妹が、圭介の言う邪悪なことをするのだろうか。理美には信じられなかった。
(私に勝てないって…。どうして…)
美香が自分にそんな劣等感を持って過ごしていたなんて、思いもよらなかったのだ。誰にでも失敗はあるし、つまずくこともある。これまで人並みに生きてきたつもりで、特に自分に秀でたところがあると思ったことがない。そして美香が劣等感を抱くような何かがあったとも思えない。少なくとも、理美には心当たりはなく、わからなかった。
美香が眠るベッドの横で、彼女の寝顔を見ながらそんなことを考えていると、瞼に光が差したのか、ゆっくりと目を開いた美香がこちらのほうを見ていたのだ。
「…美香。大丈夫?」
美香が目覚めたことに気付くと、理美はすぐさまそう声をかける。するとそれが合図になったのか、美香の目には涙があふれていた。
「…すごい嫌な夢を見た」
「夢?」
理美が聞き返すと、美香は小さくうなずいた。そして理美から顔を見せないよう少しだけ背を向け、彼女は窓の外を眺めてた。
「圭介さんがいなくなってしまう夢…。私とこの子を置いて、去ってしまう夢だった」
「…え?」
怪訝そうに聞き返すと、美香は肩を震わせて泣き始めた。
「私、圭介さんと結婚したんだよ。ちゃんと婚姻届も書いた。証人の署名もにお父さんとお母さんに頼んで書いてもらって。もう、夫婦なのに二週間も会ってない。メールしても返事が来ない。そんなに仕事が忙しいってこと?」
「美香…」
興奮する美香を宥めるために、理美は彼女の背中をそっとさすった。しかし、美香の涙は止まらず、それどころか高まった感情を抑えられずに、泣きじゃくっている。
「落ち着いて、美香。ねぇ、落ち着こう?」
医者の言葉を思い出し、美香の心を落ち着かせようと必死に背中をさするが、理美の心中は穏やかではなかった。圭介は本当に責任を果たさずに逃げようと、あの話をでっちあげているのか。それとも、美香の演技なのか。見極めなければならない。
「…やっぱりバチが当たったのかな。人のモノを盗ったから」
しばらく嗚咽を漏らしながら泣いていた美香が、静かにそう口にして、理美のほうへと振り返った。涙でぐちゃぐちゃになったその顔には、後悔の念を窺えた。
「何を… 言ってるの」
理美は美香の言葉に、立ち眩みが起こりそうだった。どんな発言が飛び出すのか、気が気でない。
「圭介さんに彼女がいるの知ってたの。でも、私も好きになった。彼を欲しいって思ってしまった。だから、私…」
美香の突然の告白に、理美は息をのんだ。
美香はやっぱり、知ってるの…? 知っててやったことだったの…?
喉元まで出た言葉を飲み込むか吐き出すかを迷っていたその時、病室のドアが開いたのだ。雪崩込むように入ってきたのは、小百合と拓海のふたりだった。
「美香…!」
小百合は理美を追い抜き、美香のそばへと駆け寄った。そして美香の身を案じている。拓海は理美のほうに歩み寄り、知らせてくれた彼女に礼を言う。しかし、肝心な人はここにいない。送ったメールは既読も付いていない。
「理美?」
拓海が理美の様子を捉え、声をかける。しかし理美には届いていなかった。
(それとも、美香の罠…?)
「美香、さっき圭介さんから連絡があったんだけど」
美香のベッドサイドにいた小百合が口にする。
「理美から連絡もらった時に圭介さんにも連絡しておいたんだけど、彼、今日の仕事上がりに病院まで面会に来てくれるって。お母さんは下着とか家から持ってくるから。またあとでね」
小百合はそう言って病室を出て行った。理美はそっと美香のほうへそっと視線をやる。さっきまで情緒不安定で泣いていた美香が、安心したかのように笑っているではないか。美香の情緒が不安になっている。さっきまで寂しいと泣いていたのが嘘のようだ。それは、まるで完成しないパズルのようだった。行き詰ったところにひとつひとつピースを当ててもハマらない。足りないピースが見つからないその絵は、永遠に完成しない。途中で投げ出してやめてしまったら、どうなるのか。理美は嫌な予感しかしなかった。
「お父さんも帰っていいよ。もう大丈夫だから…」
美香は、ベッドから体を起こして父に対してそう口にした。
「お姉ちゃんは少し話し相手になってくれる?」
美香のその一言で、理美はドキッとする。しかし、拓海は少しだけ心配そうな目で美香にうなずきながら、座っていた椅子から立ち上がった。そして理美の肩をぽんと叩き、「美香を頼むな」とだけ残して、病室を後にしたのだ。無邪気な笑みを浮かべる美香に、理美は一抹の不安を覚えた。
父が去り、再び美香と二人きりになったこの空間にあるのは、沈黙だけだった。
「…さっきは取り乱してごめんなさい」
美香は目を伏せ、その沈黙を最初に破った。
「私は奪ってしまったから、今度は奪われる立場になってしまった。奪われる方って、こんなに不安で仕方ないんだね。初めて知った…」
奪う側、奪われる側のふたりが同じ空間にいる。知っててここにいるのか否か。と言っても、理美が今更圭介を奪うわけがない。しかし、理美は美香の言葉を待つしかなかった。
「子どもができたことを告げたとき、子どもごと捨てられるかもしれない、って怖かった。一度は堕ろしてくれって言われたし、そうなる運命だと諦めてた。でも、最後は一緒に幸せになろうって言ってくれた。だから、信じたのに…」
視線を落とし、美香はか弱い笑顔を見せた。お腹が少しずつ大きくなり、早く会いたい気持ちと、この先の不安が入り混じるような不安定なその笑顔に、理美の心は締め付けられる。その子のために、自分は圭介に強制終了させられた。「子ども」という存在が誰にとっても正義で、守らないといけないということを理解できるからだ。生まれて来る子どもに罪はない。そして、罪を背負わせてはいけない。それなのに、なぜ『出生親子鑑定』などという言葉が飛び出すのか。
「…きっと圭介さんはまだ、父親になる実感がないのよ。自分の子だもの。生まれてしまえばきっと可愛がってくれるわよ。『子は鎹』って言うじゃない?」
咄嗟に思い出したその言葉に乗っかって、理美は当たり障りなく美香に言い聞かせた。すると、美香はくすっと笑う。
「それ、本気で言ってる?」
美香のその一言で、理美のぎこちない笑顔が張り付いた。
「…?」
美香のその真意がわからず、眉間にしわを寄せて美香の顔を見た。
「圭介さんが現れてから、やppりお姉ちゃん変だよね。昔は、あんなに親身になっていろいろ話してくれたのに、今はまるで別人みたい」
「そ、そんなことないでしょ…」
理美が否定しても、美香は首を横に振る。美香は昔からそういうとこに鋭い。取り繕うだけ無駄かもしれない。それでも、理美は認めるわけにはいかなかった。
「どうして?」
美香は容赦なく切り込んでくる。その目はとても哀愁が漂っていた。美香の目に、理美はどう映っているのだろう。理美が美香に話を聞こうと思っていたのに、理美の想定に反して今の状況は逆だった。理美はもはや言葉を失っていた。どんな言葉をかけても、美香はきっと納得しない。そんな理美の様子を目にした美香は、諦めたように小さく笑い、ぽつりとつぶやいた。
「『子は鎹』、か…」
美香は自分のお腹を見つめ、愛おしそうに手でさする。
「うん、そうかもしれない。そうであってほしい…」
自分を納得させるようにうなずきながら、美香は理美の言葉を消化しているようだった。自分が贈った言葉だったにもかかわらず、それが痛々しく、見るに堪えない気持ちにかられてしまう。
「ふふふ。お姉ちゃん、ありがと」
それでも美香は理美に礼を口にした。その時、理美はうまく笑顔を作れていたか、もうわからなかった。信じて待つ美香が健気で、儚い希望に縋っている姿を、理美は直視できなかった。
その時、理美の携帯がメールの着信を知らせる音が鳴った。それを合図に、理美は美香の病室を後にした。その寂しそうな彼女の表情がいつまでも心に引っかかる。
(美香は、やっぱり何も知らない…?)
カマをかけようにも、失敗すれば軽いやけどでは済まされない。誰も確信に触れようとしないこの駆け引きで、理美は圭介の言っていたことを確かめることはできなかった。しかし、美香が嘘ついて泣いていたとも思えず、美香にとって圭介も理美も真摯に接してくれないことに不満を持っていることだけ理解した。
病院の外でメールを確認すると、送り主は圭介だった。理美が美香のことを知らせた連絡に返信をしてきたのだ。
『お腹の子は、無事なのか』
その文面に、子どもが無事でないほうがいいかのような、そんな希望が見え隠れする気がして、眉間に深いしわが寄る。
『美香が待ってる。早く行ってあげて』
それだけ彼に返信すると、スマホをバッグに突っ込んで、病院を背に歩き出したのだ。
理美は、病院の近くの喫茶店で人を待っていた。コーヒーのお替わりを二杯したところで、彼女の待ち人が店の入り口をくぐって中に入ってきた。そして、彼女の姿を見つけると、嬉しそうに近寄ってくる。
「理美」
彼女の名前を呼んだのは、圭介だった。
「…」
圭介に名前を呼ばれたものの、彼女はしれっとそれを無視した。そんな彼女の向かいに座った彼は、店員を呼び、アイスコーヒーを注文した。
何を期待しているのか、彼はこの席に呼ばれたことに希望を見出している。圭介の目はそんな目だった。
「…もっと美香を大事にしてあげて」
挨拶もなく、バッサリとその希望を打ち砕かれたことに気付くと、圭介は苦笑を浮かべていた。
「二週間も放ったらかしにしてるって、本当なの?」
「しょうがないだろう。大阪の店に応援要請があって、出張してたんだから」
ネクタイを緩めながら、彼は小さくため息を吐いた。
「でも、メールの返信くらいできるでしょ」
「完全アウェーでそんな余裕なかったんだ」
運ばれてきたお冷で乾いた口を潤し、ハンカチでかいた汗を拭う圭介。すぐに運ばれてきたアイスコーヒーにミルクを入れた彼は、樹脂製のマドラーをくるくると回すと、氷がぶつかり合う涼しい音をカランカランと鳴らした。
「僕が美香を大事にしたら、きみが苦しくなるんじゃないかと思ったら、もうこれ以上きみを傷つけたく———」
「私は、あなたと別れたときに傷ついて、家族になろうとするあなたの存在に傷ついて、苦しむ妹を見て傷ついた。もう落ちるところまで落ちたの。私を『これ以上』傷つけたくないと言うなら、美香とちゃんと向き合って欲しい」
圭介の言葉を遮り、理美は首を横に振って彼の言葉に拒否反応をして見せた。自分の立場を解ったうえでのその発言なら、もうそれは通用しない。理美は強いまなざしでそう言い放った。それが理美の結論だった。
「きみは、どうするの」
「あなたが心配することじゃないわ」
目を伏せて、寂しそうな目をした圭介から視線を逸らす。
「…他の男を愛するきみを見るのが耐えられない。なぜその相手が僕じゃないんだろうって、死ぬまで思い続けるのかな…」
圭介は、口調こそ静かであったが、そこに耐えがたい苛立だしさが見え隠れしていた。どの口が言うんだろうか、と理美は冷静に彼の言葉を聞いていた。別れ際、確かにこの男は覚悟を決めて別れを切り出したのだ。若い女に現を抜かし、似合わない火遊びをしてそうなった結果なのに、泣く泣く別れることを選んだと主張するのは、誠実とは言えない。
「私だって、同じことを考えて、絶望した。あなたを許せなかった。今だって許したわけじゃない。あなたがいくら苦しんだって、あなたと美香の関係がなかったことにはならないでしょ。もうその話は三か月前に終わってるの。蒸し返さないで」
ぴしゃりと言い返すが、それでも圭介は食い下がった。
「自分の子かもわからない子どもの親になんて、なれると思うかい…?」
まるで、他人事のようなその言葉は、理美にとって違和感でしかなかった。この男は、本当にこんな人だったのか。自分が知っている小林圭介という人間は、人には優しく、穏やかに接し、細やかなことにすぐ気付き、さりげなくフォローできる、そんな人間だったはず。だからこそ好きになったし、結婚を真剣に考えた。それなのに、この男は自分のしたことを全く信じていない。ここまで来ると、清々しいほどに別人だ。
「じゃぁ、美香のお腹にいる子は誰の子?」
理美の驚くほどに冷静な口調に、目の前に座っている圭介の目は驚きで、瞳孔が一瞬だけ開く。
「いや、しかし…」
そう言いかけて、彼は口をつぐんだ。ここでいくら何を言っても覆られないことくらい、彼にだってわかっている。何より、理美からの信用を失っている今、本当に終わったんだと理解する。圭介の顔色は、次第に諦めの色が濃くなっていった。
(…どうしてそんな目をするの)
自嘲気味に笑っているように見えるその目は、虚しさを漂わせながら徐々に光を失っていく。まるで生きることを諦めたかのようなその目に、理美は動揺した。
「…あなたが考えなければいけないのは、今なの。美香のことなの」
光を失う前に届いてほしい。諦めないで聞いてほしい。逃げないで美香のことを見てほしい。理美の願いは、ただそれだけだ。
「あなたのことは許せない。でも、美香のことを傷つけることは、もっと許せない。あなたがそんな人だったなんて、これ以上、失望させないで…」
それは、理美の本心だった。理美本人を傷つけてまで彼は別れを選んだのに、何のために今更求めてくるのか。理由があるのなら、隠さずに話をしてほしかった。しかし、目の前の彼はそれを望んでいない。それならば、その理由を聞かない代わりに、黙って責任を取るべきだ。
「もう君のそばには新しい誰かがいるんだね」
それはまるで儚い夢が覚めてしまった時の絶望感を知った時のような、寂しげな笑顔だった。手を伸ばしたら届く距離で話をしているのに、心の距離はもうお互いに届かない。確かめるためではなく、確信するための問いだと理美は感じた。
「…辛くて、苦しくて、ひとりになりたくなかった時に、救ってくれたの」
答えは、それで充分なはずだ。それは確実な拒絶だった。自分の過ちに一生苦しめばいい。たとえ美香と別れても、もう理美と元に戻るルートなどあり得ない。なぜこんな男を美香は、愛しているのだろう。
(どうして、私はこの男を愛していたのだろう…)
ほんの三か月前まで、理美はこの男への思いを断ち切るために奮闘した。今はただ、『虚しい』。その一言に尽きる。
「…もうふたりで会うのは最後にしましょう」
理美はバッグを掴み席を立つ。そして、彼の席を追い越そうと一歩踏み出した時、彼女の手首を取り、圭介はそれを阻止した。
「放して」
言葉なく、ただ縋るような目をこちらに向け、理美の手首を掴む力が強くなる。理美はその痛みに顔を歪ませ、振り払った。
「約束してほしい」
理美は立ったまま掴まれた手首を反対側の手でさすりながらさらに続けた。
「…もう美香を泣かせないって」
諭すように理美はそう口にするも、目を逸らした圭介は何も答えない。
「あなたはそれだけのことをしたの。あなたが本当に後悔してるなら、やっぱりその『過ち』に向き合わないと、誰も幸せになれない」
理美は、たとえこの男に届かないにしても、言わずにはいられなかった。
「一度は願ってくれたよね、私の幸せを」
見下ろすようにじっと、うな垂れる彼の姿を見つめながら口にする。
「本当に私の幸せだけを願ってくれるなら、死んでよ。でも、それを諦める代わりに、せめてあなたも美香と向き合って一生苦しんで欲しいって思う。…あなたの幸せを願えなくて、ごめんね」
理美はそう言い残し、喫茶店を後にしたのだった。
(もし、別れ話をした時に本当の気持ちを言ってくれたら、美香だってこんなに傷つかずに済んだかもしれないのに…)
それでも、姉妹間に入るひびを免れるとは思えない。早い段階でことが露見するだけで、誰もが辛い思をすることは多分変わらないだろう。しかし、早ければ誰もが再起できる。もしかしたら、時間が解決したかもしれない。今の状況より全然マシだったはずだ。
(…あぁでも、美香は『産みたい』って言ったんだっけ…)
お腹の子を産むことを決意したのは、美香自身だった。略奪したいと思うほどに圭介のことを愛している。今日の美香の涙が、嘘のはずがない。彼の心を自分のものにしたかったそんな美香のことを思うと、やはり圭介の行動は許されるものではないはずだ。そして、もしマンネリの原因がどうのと言うのなら、理美も同罪なのだろう。自分がしっかり圭介の手綱を引いていれば、もしかしたらこんなことにはならなかったのかもしれない。
(…あぁ、そうか)
隆司の顔が脳裏に浮かぶ。
(私だけ救われたらいけないんだ…)
救って欲しくて、手を差し出してしまった。応えてくれるから、甘えてしまった。
(私は、間違ってた?)
そうだとしても、あの心の状態で正しい判断なんてできるはずはなかった。救われたい衝動を止めることなど、とてもじゃないが無理だ。
棘だらけの薔薇の茎で親指の腹に刺さった傷からは、真っ赤な鮮血が脈を打ちながらトクトクと流れ出す。その赤い血は、黒く染まりながら理美の心を侵食していく。
(胸が、痛い…)
駅までの道を歩いている途中、疼く胸の痛みで、思わず理美は立ち止った。もう、どうすればいいのかわからない。
今更、理美が隆司を手放せるわけがない。
(会いたい、会いたい、会いたい…)
人目を憚らず、理美は留まることを知らない涙を流していた。