六 告白
新居からの通勤が始まり、理美は新しい毎日をスタートさせた。会社までの距離が近くなったが、逆にSTEADYまでの距離は遠くなってしまったため、会社帰りに寄って帰ることはなくなった。九月になっても、暑さはまだまだ暑さは衰えをみせない。依然厳しい残暑の中、会社と家との往復に、疲労と少しだけ物足りなさを感じていたが、それを消化するように『おひとり様』を楽しんでした。いや、正確にいうと楽しもうとしていた。さらに、会社の大きなプロジェクトに関わったおかげで、社内でいろいろな人とつながることができ、飲みに誘われることも多くなった。しかし、それでも理美の心にできた隙間が埋まることはなかった。
(行きたいなぁ…)
もう行かないことを誓ってまだ間もないのに、理美は帰りの電車でぼうっとそんなことを考えていた。お店を訪れればマスターも隆司も歓迎してくれるだろう。それでもお店に行こうとしないのは、少女の言葉によって自分の心の逃げ場所を失ったと思っているわけではない。自分から辞めたのだ。少女のせいじゃない。そう自分に言い聞かせることで、彼女は平常心を保とうとしていた。
九月の夕方は日が落ちるにはまだ少し明るかった。沈みかけている太陽が街をオレンジ色に照らし、長い影を作る。そんな中、理美は駅から吐き出された人の波みをくぐりぬけ、ゆっくりと太陽とは反対の方向へと歩き出す。すると、突然スマホが鳴り出した。どうやら電話のようだ。カバンのポケットからスマホを取り出し、表示された相手の名前を見た理美はドキッとした。もうずっと連絡をしていなかった隆司だったのだ。次第に会いたい気持ちが加速する。電話に出て、何て言えばいい? なんて、そわそわしながら、理美は電話に出た。
「…はい」
我ながら、ずいぶん他人行儀だと感じていた。
「…久しぶり」
しかし、それは向こうも同じだった。緊張していたのに、理美は吹き出してしまった。
「…なんで笑うんだよ」
少しムキになって、隆司が不満そうに漏らす。それでも理美は笑いが止まらない。その笑みはやがて涙を誘い、彼女は泣いていた。そして流れ出すその涙は簡単には止まらなかった。言葉もなくシクシクと静かに泣いていると、それに気付いた隆司が口を開いた。
「…最近店に来ないと思ったら、知佳が余計なことを言ったみたいだから」
ため息混じりに彼が言うと、理美は涙を拭いながら頭の中の記憶を辿る。
「…知佳?」
あの少女の名前だろうか。思い当たるのは彼女しかいない。
「マスターの娘さんなんだけど。お前に『店に来るな』って言ったって言うから」
「余計な事じゃないでしょ。大事なことだよ」
「何が大事かを決めるのは、俺だよ」
いつになく真剣な声名隆司に、理美はまたもドキッとする。
「もう仕事終わった?」
隆司の質問に、理美は短く返事した。
「俺、今日休みなんだけど。今から会える?」
隆司の問いに、理美は何かを悟った。
隆司と待ち合わせ場所を決めるときに、理美は引っ越したことを告げると、彼は声を荒げて驚いていた。
「は? なんで? つーか、引っ越しするのはいいけど、なんで黙ってるんだよ」
理美が理由を話せないでいると、「とにかくそっちに行くから…」と、隆司は電話を切った。
「そっか。…おめでと」
線路沿いにある公園のベンチで、理美と隆司は並んで座っていた。もうすっかりと日が暮れ、街灯の心もとない光がゆらゆらと揺れていた。日が落ちても気温と湿度は下がらない。相変わらず蒸し暑い夜だったが、微かに吹く風に当たりながらその公園のベンチで引越しの経緯を話すと、彼が「乾杯だな」なんて言い出し、近くのコンビニで缶のお酒をご馳走してくれたのだ。
「今日はさ、ちゃんと話しておこうと思ってさ」
自分の缶ビールに口をつけながら、隆司は理美の顔を覗き込む。
「え?」
彼のその瞳に吸い込まれそうになりながら、理美はおずおずと彼の眼を見つめ返した。すると、彼はふっと笑う。
「俺さ、自分はまだデビューしてないけど、ギターの腕を見込まれて、スタジオミュージシャンみたいなことしてるんだよ。」
「うん。マスターから聞いた」
本腰が入っていない、と心配していたことを思い出していた。すると、苦笑いを浮かべて頷きながら隆司は続けた。
「Sunny day Buleでメジャーデビューするかとか話が出てるけど、俺自身どうしていきたいか、将来のビジョンが見えなくて、なんで音楽やってるんだっけ、とか思う日々が続いてたんだ」
理美は、隆司の紡ぐ言葉にじっと耳を傾けていた。
「高校卒業してから、高二の時に一度解散したバンドでライブハウスとかで演奏してたんだよ。二年くらいかな。たまたま見に来てた今の事務所の社長に声をかけられて、俺だけバンドを抜けたんだ。新しいバンドでギターが必要だって言うからさ」
「バンドメンバーみんなじゃなかったのね。揉めなかった?」
確か、高校の文化祭でのライブでSunny day Buleのステージを見た記憶があった。STEADYで隆司の歌声を聴いた時、理美は思わず懐かしさを覚えたのを思い出していた。理美の問いに、隆司はうなずいた。
「そうだな、揉めなかったって言ったら噓になるけど。みんな、わかってはくれた」
「そっか」
メンバーも、彼の実力を認めていたからだろうか。理美は軽く相槌を打ち、話の続きに耳を傾けていた。
「まぁ、結局社長が言ってたバンドの方は、他の人に決まっちゃって、俺の方もどうせデビューするなら、Sunny day Buleとしてデビューしたかったからさ。でも、ドラムのダメ出しを受けて、今のままではデビューできないって言われて。確かに俺たちの課題ではあったんだ。それがはっきりしちゃったから、そいつ、抜けちゃったんだよ。そしたら俺もって続いて、あっという間にバンドは解散。それぞれの道へ行くことになって、俺だけ事務所に残ったわけ」
隆司は小さくため息を吐いた。
「今の事務所に出入りするようになってから、とりあえず俺が一人でデビューするまで、裏方でギター弾けだの、アイドルに曲書けだの言われながら、今も面倒見てもらってて。でも何故か俺のモチベーションが上がらなくてずっと悩んでた。それでも作った曲を納品すればそこそこ売れるし、どっかのバンドのヘルプでギターを弾けば、それなりに仕事するんだけど、なんだか中途半端でさ。そしたら社長が知り合いの店で働けって紹介されたのがあの店なんだよ」
乾いた喉を潤すように、またビールの缶をぐいっと傾ける隆司は、苦笑いを浮かべていたが、理美はそれを茶化すことなく聞いていた。
「あの店で働きながら、人間観察しろって。ついでに歌わせてもらえ、とか。意味わからんよな」
笑いながら、隆司は続ける。
「音楽は好きだ。曲を書くのも、演奏するのも、歌うのも。でも、俺にはずっと足りないものがあった。あの店で働きながら、それを探してるうちに六年も経っちまった」
「…見つかったの?」
理美は静かに尋ねた。すると、隆司は「ハハハ」と白い歯を見せて笑う。
「見つかった。でもそれはいつも傷付いてて、不安定で。俺がそばにいていいのか、そんな資格あるのか、いつも考えてた」
理美は、両眉を寄せて彼の顔を見た。すると、切なげに笑ってこちらを見ていた隆司の目線と交わり、理美は目を伏せた。
「…あの時、キスしてたでしょ。体育館裏で、三年の先輩と」
苦い思い出を頭に浮かべながら、理美は口にした。十年前のあの日、いつもと同じように放課後になると、大好きだったこの人に会いに行った。ふたりだけの秘密の場所と思い込んでいたのは自分だけだった、ということを知った初めての痛み。何の薬をつければ治るのかと泣いたあの時の記憶は、簡単に忘れられなかった。
「アイツがドラムだったんだよな。あの時、また一緒にやろうって言いに俺を呼びに来たんだ。アイツがちょうどお前に背を向けた状態で話してて。話聞いて、バンドに戻ることを了承したところだった。アイツ、その時にまつ毛が目に入ったって言って泣き出すから、俺、目ん玉見させられたんだよ。…その時、キスされた。それをお前に見られちゃったわけだ」
「え? 元カノ?!」
「いや、付き合うわけないだろ! 俺はずっとお前のことを…」
隆司は途中で黙り、最後のビールを飲み干した。そして一息入れると、手にしていた缶を地面に置いた。
「俺があまりにも落ち込んでるのを見て、あっちから期待外れだった、とか言われたんだぜ? でも俺は避けるお前に近づけなかった。それでもいつかお前に届くように、卒業まで歌い続けた。ま、何も変わらなかったけどな」
情けない笑みを浮かべ、隆司は小さくため息を吐いた。
「…そんなの、言ってくれないとわからないでしょ。何で本当のこと言ってくれなかったの?」
「単純に、怖かった。俺のこと信じてくれるのか、自信なかったからな。あの時の俺は、向き合うのが怖くて、逃げることを選択して、失敗した。それを十年も引きずるほど引っ掛かってた。だからこの間、偶然会えた時、死ぬほど嬉しかったんだ。お前にとって、嫌な元彼だったことすらも忘れてたくらい、舞い上がってたわ」
「…私はとっくに忘れてて、他の男と結婚を考えてたのに」
理美は、地面を見つめながら近くに落ちていた小枝を拾い、地面にグルグルといたずら書きをする。
「そうだな。それが普通なんだと思う」
まだ夏の気配が残る夜空を見上げながら、隆司はぽつりとそうつぶやいた。「俺だけ、取り残された十年だった」と寂しそうにそう口にする。月が白い光を放ち、漆黒の空色と交じり合う。そんな月明かりに照らされていると、お互いの顔がはっきり見える。とても明るい夜だった。
「今のお前に俺の状況を説明することはできなかった。俺が中途半端になってた理由を押し付けたくなかったし、何より弱ってるお前に付け込むみたいで、気が引けた」
「…そうなのかな」
「そりゃそうだろ。お前はただ忘れたい一心で深く考えてなかっただろうけど、俺は遊びで済むかどうか」
「私はてっきり…」
理美はそう言いかけて、言葉を飲み込んだ。再会した時、火遊びをしたいのは隆司だと思っていたからだ。その場限りの優しさ欲しさにすぐに心を許してしまった自分が、火遊びに向いているはずがない。最初は、誰でもいいからそばにいてほしかった。彼の言う通り、深く考えてはいなかった。しかし、今ではそばにいてくれた人がこの人で良かったとさえ思っている。
彼の幾度とない優しさが、沁みた。
「久しぶりにお店に行きたくなっちゃった」
理美は隆司の肩にもたれかかった。すると、彼は理美の肩を抱く。
「その前に飯食いたいかな。今日、まだ何も食ってない」
反対側の手で、自分の腹をさすると、二人は笑った。
「ご飯、食べに行こ」
二人が立ち上がると、自然に手と手が繋がった。お互い、恐る恐る掴んだ手であったが、二人の気持ちが通じると、隆司の大きな手の指が、理美の細い指にしっかりと絡まり、離すまいとぎゅっと握る。トクトクと理美の心臓の鼓動が早くなった。緊張と照れでめまいを起こしそうだった。それくらい、足元がフワフワしていたのだ。そんなことを知ってか知らずか、隆司は理美の手を引いて、賑わう繁華街のほうへと向かう。それは、理美を支えるようにしっかりとした足取りだった。
「いらっしゃい!」
久しぶりに見せたその顔が目に入るや否や、マスターは嬉しそうに大きな声で理美を迎え入れてくれた。小さく会釈して店内に入ると、隆司と理美は並んでカウンターの端の席に腰を下ろした。
「理美ちゃん、うちの娘がごめんね」
カウンター越しに深々と頭を下げるマスターに、理美は首を横に振る。するとマスターは小さく笑いながら彼女の前にビールグラスを置いた。
「これ、お詫び。遠慮しないで」
「そんな…。私のほうこそ、あの人の置かれた状況を知らなくて、迷惑かけてたから。教えてくれてありがとうって、伝えておいてください」
ニコッと笑いながら理美がそう口にすると、やはりマスターは小さく息を漏らし、頭をかいた。
「俺がこんな仕事だから、隆司にばっか懐いちゃって。お恥ずかしい」
「いえ…」
「でも、またお店に来てくれてよかった。ありがとう」
嬉しそうに笑うマスターに、理美も同じように笑っていた。
久しぶりに得た、開放感。そして、安心感だった。幸せな時間を誰に遠慮することなく過ごせることへの喜びを、理美は実感していた。この隆司との時間が、まさにご褒美と言える。今度こそ、この手を信じてもいいのだろうか。隆司と一緒にいるときだけは、今の自分の置かれた状況を忘れてもいいのだろうか。
マスターの顔を見ながら軽く飲み、ささやかな時間を過ごした後、ふたりは店を後にした。他愛のない会話をしていると、すぐに駅に着いてしまった。なんとなく黙るふたりの足は、改札の前で止まった。
「俺はさ、大丈夫だから。もしお前が俺を必要としてくれるなら、それが俺の幸せだって思ってるから」
どことなく探るように理美の眼を見つめる隆司は、不意に理美の手を取った。酒を飲んだのに彼の指先がひんやりと冷たく、心地いい。
「…うん」
理美が小さくうなずくと、隆司はその掴んだ手をそっと離した。その時、彼女は線香花火の玉が突然落ちて跡形もなく消えてしまった時のあの寂しさを感じた。それでも彼は変わらずに笑いながら「じゃぁな」と告げ、駅の改札の中へと理美を促す。後ろ髪をひかれながら、彼女は人ごみへと紛れていった。
後日。隆司からの連絡に紛れ、美香からメールが届いたことに気付いたのは、会社の昼休みに入った時だった。席でお弁当を広げながらスマホでメールチェックをしている時に美香からのメールも届いていた。
少しだけ膨らんだお腹に、小さな角みたいな出っ張りがある、そんな写真が添えられていた。メールによると、お腹の中で赤ちゃんが活発に動いているそうだ。角のような出っ張りはお腹の中で伸びをしている赤ちゃんの手だという。そんな嬉しさを伝える内容だった。
(もう、性別わかるんだ…。でも、生まれてからのお楽しみ…、そっか)
メールを読み終わるのと同時にため息をついていた。
妹の幸せが、自分の幸せだと思えない、心の狭い姉であることは充分に自覚していた。ただ美香が幸せならば、それでいい。
(生まれてくる子を可愛いと思えるかはまた、別の問題で…)
幸せな報告のはずなのに、どうしても前を向けない。虚しさだけが理美を支配していた。
比較的平和に午後の業務を終え、ほぼ定時に仕事を上がると、理美は素早く帰り支度をして会社を出た。
「理美」
会社を出てすぐの交差点で信号待ちをしていると、そこに現れたのは圭介だった。理美の目が、驚きから嫌悪に変わる。彼は相変わらず整ったスーツ姿で、黙っていたら端正な顔立ちのスマートな紳士に見えるのに、まさかこんなところで待ち伏せとは、その行動は異常だ。しかし、会社の前で誰が見ているかわからないため、ぞんざいな扱いはできない。彼はきっとそれを狙っている。
「どういうつもり?」
「どういうつもりって… きみに会いに来たんだよ。家に押しかけるのは気が引けて…」
不快感を露わにして尋ねる理美に対し、圭介は申し訳なさそうに彼女を見つめていた。
「会社帰りにまで押しかけられたって、迷惑」
圭介を突き放し、ちょうど信号が青に変わったタイミングで、理美は横断歩道を渡り始める。もちろん圭介も彼女を追いかけるように歩き出した。
「今、仕事の帰りでさ。昔もこうしてよくきみの会社の近くまで迎えに行って、食事に行ったり買い物に行ったりしたよね」
無理やり当たり障りのない会話を始める彼の目は、うつろだった。
「…そう? あまり覚えてないわ」
とても優しく対応などできない。理美は声を荒げることはしなかったが、その口調は抑揚のない冷めたものだった。
「お願いだ、聞いてくれ」
それでも食い下がらない圭介は必死だった。
「話し合いなんて、もう三ヶ月も前に終わってる」
取り付く島もない態度の圭介は、理美の腕を強く掴んでいた。ちょうど横断歩道を渡り切ったところだった。理美は足を止め、彼の掴んだ腕を黙って振り払う。そしてそこで初めて彼の顔をしっかりと見た。
(…やつれてる)
目の下にはクマができていて、顔色も悪い。
「…美香はやっぱり幼過ぎて、疲れるんだ」
小さくため息を吐き、彼は目を伏せる。そんな圭介の突然の告白に、理美は彼に背を向け再び歩き出した。しかし今度は足早に振り切るようにではなく、ゆっくりと歩いていた。そして視線だけを動かして、人ごみを避けられる場所を探す。するとすぐ近くの高速道路の高架下に移動したふたりは、ガードレールに並んで寄り掛かっていた。
「…そんな子どもに手を出して、孕ませたのはあなたでしょ」
海よりも深いため息を吐きながら、じんわりと額にかいた汗をハンカチで軽く拭う。
「子どもの腹が、日増しに大きくなってくる。今日なんて、足をガンガンけられるだの、手が伸びでコブみたいになっただの、嬉しそうにメールをくれるけど、本当に俺が父親なのか? 嘘じゃないのか? ってさ…」
不意に隣にいた圭介が理美の顔を覗き込むように体を乗り出し、彼の指先が理美の白い頬に触れた。そして眉間にしわを寄せて思い悩む圭介の顔が間近に迫り、彼女は思わず顔を背けた。
「ちょっ、近い!」
無理やり距離を詰めてくる圭介から逃れようと背を向けるが、圭介はそのまま背中から理美の肩をそっと抱きしめたのだ。その瞬間、懐かしい彼の匂いが理美の鼻孔をくすぐる。
「…理美。ずっとこうしたかった…」
そう呟く圭介に、理美は微動だにできなかった。抱きしめられたその瞬間、何もかもが真っ白になり、すべての音が消える。懐かしさを愉しんでいるのではない。なぜこんなことができるのか、理解が追い付かなかったのだ。彼の体温とその匂いは、決して安心できるものではなかった。それはもう危険な香りでしかない。
「…やめて」
理美は拘束する圭介に、首を横に振りながら静かにそう口にした。すると、圭介は諦めたように抱きしめる力を緩め、彼女の肩を解放した。
「私たちはもう、終わってるんだよ。あなたが終わらせたの」
振り返った理美の目は、怒りというより哀しみで溢れていた。しかしどういう感情を出して接しても、彼は現実を見ていない。そんな気がしてならなかった。
「圭介。あなたは、美香やうちの両親に、私とのことをバラしたいの? 私と付き合いながら、知らなかったとはいえ妹と浮気して、子どもを作ってしまった。そう打ち明けて、楽になりたいの?」
理美の問いに、圭介はすーっと無表情に戻っていった。
「…それを打ち明けたら、俺は美香と結婚しなくても済むのかな」
「生まれてくる子どもはどうするのよ」
「…本当に俺の子どもなのかな」
ぽつりと彼がそうつぶやくと、理美の顔がますます険しくなっていく。
「…どういうこと?」
「僕は少なくとも避妊はしてた。危険なことはしてないよ。遊びだったんだ。そんな相手に無謀なことはしてない」
「…じゃぁ、どうしてすぐにそう言わなかったの?」
彼のその告白に、信じられないといった表情の理美は、なわなわと震えていた。
「僕だって、子どもができたなんて言われたら、動揺するよ」
確かに、美香かの妊娠が発覚した時の圭介様子は、動揺を通り越して憔悴しきっていた。そして、理美に後悔を口にしていたくらいだ。彼にとっても相当なショックだったと想像できる。それでも、別れ際の圭介の理美への態度に、愛情なんて感じられなかった。理美は苦しかった日々を思い出し、目を伏せた。
「あの時のあなたに、私が「子どもができた」なんて言ったら、同じ態度をとっていたんじゃない? 少なくとも、私への愛情なんてあの時はもうなかったでしょ。あなたの興味は美香にいってたはず。それなのに、よくそんなこと…」
一度は決意して美香を取った圭介が、今やその責任を果たそうとしない彼の姿勢に、怒りに震え感情の高まりを抑えられない。理美の目には、目の前が霞んでしまうほどの涙が溜まっていた。まだ、この男のために流す涙が残っていたのか。いや、これは目の前にいる男のために流しているのではない。この男の子どもをお腹に宿した妹に対してだ。美香は、この男と暮らして幸せになれるのだろうか。いっそのこと、本当のことを話したほうがいいのでは…。そんなことを理美の頭の中で巡っている。この期に及んで、この男は…
「現実を受け止められなくて、そういうことを言っているわけじゃないんだ」
「いや、現実を受け止められてないんでしょ。現にあなたは美香と関係を持っている…!」
流れ落ちる涙を拭うこともせず、平然ももう装えず、理美は感情のまま言葉を吐き出した。
「僕は、自分の子どもである証拠が欲しいんだよ。ただ、今の状況から美香に出生前親子鑑定を受けてもらうのは、かなり難しい」
『出生前親子鑑定』。聞きなれない言葉だった。しかし小難しいことを言っても、理美には圭介が言い逃れをしているようにしか聞こえない。
「それは、あなたに覚悟が足りないだけでしょ」
「違うよ」
圭介は、上着のポケットからハンカチを取り出し、理美の頬を流れる涙を拭った。
「きみは、本当に妹思いのお姉さんだよね。でも、美香は多分、きみの付き合ってる相手だとわかって僕に近づいてきたんだと思う」
「なぜそんなこと…!」
理美は圭介の手を振り払った。すると、彼は小さくため息を吐き、振り払われた手を引っ込める。
「美香はよく、『お姉ちゃんには勝てない』って繰り返してたよ」
「え?」
「きみに対していつも劣等感を抱いてたようだ。何も勝てないなら、姉の男を奪って人生で勝とう…ってさ」
圭介はじっと理美の瞳を捉えていた。さっきまでのうつろな目ではなく、真っすぐだった。理美の直感が、偽りの事実を語っている人の目ではないと言っている。それが余計に、理美の判断を狂わせていた。
「俺たちは、美香にハメられたんだよ」
悔しそうにそう口にする圭介の言葉に、理美は絶句していた。しかし、誰が正しくて誰がうそをついているのかなど、今ここで判断なんてできない。そして、圭介が美香と関係を持ったことも消えることのない事実なのだ。
もし美香が理美に対抗して始めたことなのだとしたら、美香が圭介の子どもができたと 言うことで、美香は一生理美を苦しめることができる。追い詰められた圭介が理美を含めてほかの女に走ったら、美香は悲劇のヒロインになれるのだ。すべて美香の思惑通りになっているというのか。
理解が追い付かず、理美はぎゅっと目を瞑った。
わざわざ喫茶店で二人を合わせたのも、二人の反応を見て楽しんでいただけなのか。死んでしまいたいくらい惨めな思いを抱かされたのも、計算の内だというのか。
「そんなの、噓でしょ…」
やっと口にできた言葉だった。オーバーワークになった頭が考えることをやめようとする。理解できない。もう何も考えられなかった。