五 一人暮らしの意味
プロジェクトがひと段落し、忙しかった仕事を無事乗り切った理美は、新しく住む部屋も決まり、意気揚々としていた。
八月ももう半ばになり、日本の茹だるような暑さが続いていた。暑いだけではない。湿度も最高潮だ。日が落ちても気温が下がることのないこの季節は、妊娠五か月になる妊婦の美香にとって、最も大変な季節でも言えよう。いつ会社から家に帰っても、美香はぐったりしている。だからと言って、冷えを大敵とする妊婦にアイスばかり食べさせるわけにもいかないため、母の小百合には「我慢しなさい」とばかり言われている。それだけが姉として妹を不憫に思っていた。
それでも、理美の家を出る計画は着々と進んでいた。今月下旬の土曜日に、引っ越し業者を使って部屋のほとんどの荷物を運び出そうとしているのだ。その日、彼女は両親とも家を不在にしていることを知っていた。父拓海の会社の部下の結婚式だという。そこをわざと狙って自分の引っ越しの日程を決めたのだ。身重の美香に引越しの手伝いなど最初から考えていない。理美は、母の小百合から別の日に変えられないのかと何度か言われたが、その日しか日程を押さえられなかった、と笑って返事していた。
「別に一生会わないわけじゃないんだから…」
なんて笑い飛ばしながらそう口にするも、文句を言いつつも母が寂しがっていることは目に見えて理解していた。父も何も言わないが、きっとそう思っていてくれているに違いない。帰ってきたことを何も聞かずに迎えてくれた父に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そして彼女はまた、本当の理由を告げず、もう戻らないつもりでこの家を出て行こうとしている。自分の気持ちと正反対のことを言いながら…。自分を守るために、それは仕方のないことだった。
仕事帰り、プロジェクト成功の打ち上げをそこそこに切り上げると、理美の足ははやりSTEADYに向かっていた。マスターや隆司と話しながら飲む酒が、今は一番楽しい。何より、家にいても心が休まらない。毎日行けるわけではないが、仕事が落ち着ついた今、その喜びを一人ではなくこの場所で味わいたかったのだ。
店内の照明が落ち、Sunny day BuleのRyuがギターを携えてステージに上がると、歓声が上がる。小さなステージだったが、理美がカウンターの席で聞くには十分だった。聞こえてきたギターの旋律に耳を傾けていると、聞き覚えのあるメロディに覚醒したかのような衝撃が体を走り抜けていった。昔の記憶が鮮明に蘇る。
(初めて会ったときに聞いた曲…)
名前すら知らないその曲は、十年前のある日、二人を引き合わせた。
フラれたこところを見られた理美に、隆司が練習だ、と言いながらギターとともに聞かせてくれたあの曲を、彼は今ここで歌っていた。そのバラードは、ゆっくりと理美の体の中に入り込み、あの時と同じように安心させてくれた。くすぐったくて、でも優しいその歌声を、理美は目を閉じて聞いていた。そんな理美の様子をマスターはグラスにビールを注ぎながら見ていた。そして、彼がそのビールを理美の目の前に置いた時、不意に耳打ちしたのだ。
「あいつ、結構わかりやすいと思うけど」
マスターは、ニヤリと笑った。
「え、まさか」
「そう? 隆司、あんたが来ると妙にテンション上がってて。年甲斐もなくさ」
笑いながらそう語るマスターに、理美は眉を寄せながら笑っていた。
「高校の時、付き合ってたんですよ。でもあの人二股かけてて。フラれちゃったけど」
「え? そうだったの?!」
マスターは驚き、思わず聞き返す。理美は少し考えながら口を開いた。
「なんかあの人、タイミングいいんですよ。私が辛い思いしてる時に突然現れて元気づけてくれるんですよね。だから、憎めないというか…」
実際、再会したときは嫌な思い出だけの人だったのに、はやり、あの時と同じだった。だから、また彼はいつか私の元から去ってしまう…。そう言いかけて、理美はその言葉を飲み込んだ。
「本当はさ、アイツ、プロのミュージシャンなんだよ。それなのに仕事に身が入ってねぇっつうか」
自分用に入れたウイスキーのグラスを傾けながら、マスターはため息を吐いた。
「スタジオミュージシャンってやつ? あとは曲書いて提供したり。真面目に働けばそれで食っていけるのに、ここでバイトしながらフラフラしてて。目的を見失ってる感じがずーっと」
理美は、黙ってその話に耳を傾けていた。
「でも最近、なんかイキイキしてるというか。あんたがこの店に来始めた辺りからさ」
理美はにわかに信じられなかった。
「私、今人間不信中なんで…。今が楽しければそれでいいんです」
おどけながら理美はそう口にして、ニコッと笑いうなずいた。
会計を済ませ、店の外に出ると、まるで風呂場にいるのかと思うほどの湿度が全身に纏わりつき、とても不快だった。そんな中、地下から地上に上がると、店先には若い女の子達が集まっているのが見える。
(出待ち…?)
今日のライブの出演は、隆司だけだった。
(…人気者なのね)
なんて思いながら、騒いている彼女たちのそばを通り過ぎ、理美は駅へと向かう。何故か少しだけ疎外感を抱えながら。
店から出てきたマスターが集まっている女の子たちを宥めて、帰るように促していた。二十歳未満の子たちなのだろうか。
「うちはただのバーだからさ、お酒飲めるようになったら来てよ。それに、Ryuはうちの従業員だから、店が終わるまで出てこないよ。〇時超えるから。ほら、帰った帰った」
後ろから、キャーキャー騒ぐ声が聞こえてくるが、そんな風景も横目に理美は足早に駅へと向かっていた。
(あの騒ぎ…)
当然か。評判が良ければ、人は集まる。しかし、何かで頭を殴られたかのような衝撃を覚えたのだ。それでも平気なふりをしてしっかりと前を見て歩き続けたが、その感じた衝撃は、ショックを受けているんだと気づいたのだ。
理美は現実を突き付けられた気がしてならなかった。本当は、自分になんか構っているような人ではないのではないか? マスターとの会話を思い出す。フラフラとしているが、プロのミュージシャンであるということを。また、訳があってデビュー保留中であることも。
(私、あの人の足、引っ張ってない?)
なんて、さっきまでマスターと隆司の話をしていたばかりなのに、気持ちがどんどんと下がっている。ひとりになりたくなくて、当てにしている。寄りかかっているばかりだ。再会したときに「何かあったら連絡しろよ」を真に受けて甘えているだけで、思えば今の隆司のことをまるで知らない。自分のことで手いっぱいで、配慮していなかったことに気付いたのだ。
その時だった。肩のあたりをポン、と軽く叩かれたのだ。びっくりして振り返ると、そこにはピタッとしたTシャツとミニスカートをはいた年若い少女が立っていた。
どこかで見たことがある…
理美がそう思っていると、その少女は躊躇せず、いきなり口を開いた。
「お姉さん、ちょっといい?」
思ったよりも大人っぽい低い声で、目の前の少女は言った。
「えぇっと、どなた?」
いぶかし気にそう答える理美だったが、少女は物怖じせずじっと理美の目を捉えていた。
理美が思っているよりも童顔なだけで、二十歳超えているのかもしれない。つい、そんな見当違いなことを考えてしまう。
理美の質問に答えることはなく、少女は理美の顔をきつく睨みつけながら、
「あんなふうに泣きながら店に来るのはもうやめて」
と、はっきりと告げたのだ。
理美はあの時のことを思い出していた。圭介の部屋に荷物を取りに行った日、雨の中隆司と傘に入っていた…
(あの時の女の子…)
「Ryuの迷惑になるようなことはしないで。今、あの人はすごい大事な時期なの」
少女は、ものすごい剣幕でまくし立てる。
「大事な時期?」
それでも冷静なままの理美がそう聞き返すと、少女は少しだけ動揺したように見えたが、すぐに鼻で笑った。
「何も聞いてないの? …その程度の存在なのかな、お姉さんは」
「そうかもしれないわね」
理美は素直にそう答えた。実際、マスターの言う『隆司の事情』は彼自身が話を遮るくらい、話したくないことなのかもしれない。理美自身も彼が話してくれない以上は、詮索しない。
「でも、お姉さんは好きでしょ、Ryuのこと」
「どうして?」
「…見てればわかるよ、そんなの」
吐き捨てるように少女は言った。こんな少女でも『女の勘』を感じるんだな…、と思いながら理美はついふっと笑ってしまった。
「何が可笑しいの?」
少女が怒るのは当然だ。理美はいったん目を閉じて呼吸を整える。
「ごめんなさい。あなたみたいな若い女性にもバレバレな態度だったんだなって恥ずかしくて」
理美もまっすぐに少女の瞳を捉えていた。
「でも、それは誤解だな。彼のことは好きだけど、あなたが気にするようなことは、なにも」
「うそ!」
少女はまたきつく睨み、そう言い放った。
「あの日、あたしと約束してたのに、Ryuは泣いてるあなたを取った。しかもお店が開いても戻ってこないし、何やってたか聞いても教えてくれないし」
(…なるほど)
少女は、隆司のことを…
「その節は、ごめんなさい」
理美は深々と頭を下げた。目の前にいる少女に対して、いい加減な対応しようとは思わない。わざわざ追いかけて忠告してくるくらいだ。彼女だって本当に隆司を大事に思っているのだろう。
「だけど、友人として付き合ってるの」
「とにかく!」
怒り収まらぬ様子で、少女は声を荒げた。
「メジャーデビューするかどうなるかって話があるの。だからRyuはあなたに構っている余裕なんてない。彼を好きなら彼の夢を邪魔しないで。…店にも、もう来ないで」
少女はそれだけ言うと、踵を返し引き返していった。
(店に来ないで…か)
走って戻っていく少女の背中を眺めながら、心の中でぽつりとつぶやいた。そして、自然とため息を吐いていた。
「ふふふ…」
思わず乾いた笑い声をあげた。少女の言葉で目が覚めた気分だった。理美は再び前を向いて歩き出す。その時だ。理美のスマホが鳴りだしたのだ。慌ててバッグから取り出すと、電話の主は隆司だった。切なくなり、電話に出ることを躊躇したが、理美はいつも通り、応答した。
「…はぁい」
「お前、今どこ?」
「どこって…、駅に向かって歩いてるところだけど」
すると、電話の向こうでほっと胸をなでおろしている様子がわかる。
「どうかした?」
あっけらかんと尋ねると、隆司はムッとしたようだった。
「なんで黙って帰るんだよ」
「え、だって。仕事中だったでしょ」
髪の毛を指でくるくると巻きつけて遊びながら聞き返す。
「今日、結構飲んでたじゃん。ここに来る前にも飲んでたって言ってただろ」
「えぇ? 大丈夫だよ。これくらい」
平気な顔をすればするほど、ズキンズキンと胸の鼓動が理美の胸を乱暴に打ち付けていた。それでも、理美は平然を装い、あくまでも普通のふりをした。
「今から追いかけるから」
「心配し過ぎだって」
「送ってくから、明るいところで待ってろって」
「飲んで、気が済んだからひとりで帰れるから」
通話しながら、理美は大きな一歩を繰り出した。一歩ずつ靴底から伝わる地面の感触を確かめながらゆっくりと歩き出す。
「ありがと。おやすみ」
理美は隆司にお礼を言って、通話を切った。そして立ち止まることなく、振り返ることもなく理美はひとりで帰り道を行く。
なぜそんなに気にかけてくれるの? そんなことをされたら、勘違いしてしまう…。
じんわりと目の前が霞んでいることに気づき、すぐに指で目頭を拭った。歩きながら明るい夜空を少しだけ見上げると、細い三日月が雲から顔を出していた。
少しでも幸せを願えば、その幸せは私の元からすり抜けていってしまう…。ならば、幸せを願わなければ、求めなければ私は私のままでいられる。
理美はそう考えていた。もうそれは彼女の中でジンクスになっていた。酔っているわけではない。むしろ、頭はしっかりと冴えていた。
あれから、隆司から何度か連絡が来たが、理美は出ることができなかった。そして、折り返すこともしないでおくと、ついに連絡が来なくなった。
迷惑かどうかなど、聞けなかった。聞いたらきっと、『迷惑なわけがない』と彼は答えるだろう。それがわかっていて、理美はわざわざ確かめることなどできなかった。彼が本当に正念場だったら、それこそ自分に構っている暇なんてないはずだ。理美には向き合わなくてはならない問題がある。
そうしているうちに引越しの日を迎えてしまった。引っ越し当日の天気は、天気予報に反して見事な快晴だった。母小百合は「忙しい子ね…」と、文句を言いながら、父拓海は名残惜しそうにして、結婚式へと出かけて行った。いつでも何も聞かずに温かく迎えてくれる父。理美は拓海へ一通のメールを送った。
いつか、父には本当のことを言える日が来るのだろうか。ただ、今はそうしなければならないことを許してほしい。意味が解らないかもしれないが、あえて説明をせず、心のままの文面を送ったのだ。
立っているだけで汗が滝のように噴き出すというのに、引っ越し業者の人はきびきびと荷物を運び出していた。大きな家具がベッドくらいなもので、家電のほとんどは家電量販店から新しい部屋のほうに運ばれることになっていた。スタッフは二名で来たが、作業自体はあっという間に終わり、理美の部屋は荷物が無くなり、ガランとしていた。その様子を美香は黙って見ていたが、最後理美が家を出て行く際は、少しだけ泣きそうになっていた。
「どうして泣くのよ」
美香の様子が可笑しくて、理美は笑っていた。
「だって…」
何かを予感しているのか、美香はじっと理美の顔を見つめているが、理美は両手で美香の頬を挟み、その不安を吹き飛ばすように笑った。
「別に普段と変わらないわよ。そろそろ行くね。業者さん、着いちゃうから」
「お姉ちゃん、本当に手伝いに行かなくて大丈夫なの?」
心配そうにそう尋ねる美香に、理美はしっかりとうなずいた。
「じゃぁね。行ってきます」
理美は、美香の視線を振り切るように前を向き、ドアの向こうへと歩き出した。
電車で一時間半ほどの距離しか離れていないのに、そこはもう知らない町だった。会社まで約三〇分で着けるところに引っ越して、吉と出るか凶と出るかはわからなかったが、今より通勤が楽になるのは確かだ。今勤めている会社は何があっても辞められないのだから、生きていくための第一歩だと思いたかった。
新居に着くと、まだ引っ越し業者は到着していなかった。途中の連絡で、道が混雑しているらしく、予定より少し遅れそうだ、とのことだった。先に近所に住む大家に挨拶しに行き、改めて今日から住むマンションをエントランスから見上げていた。立ってから間もない新しめの物件と契約できてよかった、と理美は心底安堵していた。あんなに疲れている体に鞭を打って不動産屋に通った甲斐があった。家賃も手頃でオートロックでセキュリティも安心、あとは自分が立ち直るだけだ。家にいたときより、心は断然晴れて清々しい。美香には罪がないが、あの子が視界に入らないだけで、こんなにも気持ちが楽になれるとは、思いもしなかったのだ。
最初に、備え付けられたエアコンを、試運転を兼ねて入れるところからスタートだ。これから、忙しくなる。
(電気は問題なし。あとはガスの開通と立ち合い、インターネットの契約か…)
電気の手続きは、大家から早めに電気会社に連絡したほうがいいとアドバイスを受けていたため、当日になってエアコンが使えないなんてことにならずに済んだ。ライフラインが整うまでもう少しかかりそうだが、少しでも早く元の生活に戻れるようにしなければならない。そう決意した時、ちょうどインターホンが鳴った。時計を確認すると、家電量販店が来る予定していた時間になっていた。冷蔵庫に洗濯機、炊飯器や電子レンジと一から自分で選んだ、自分だけの家電が続々と部屋に入るのをワクワクしながら見ていると、引っ越し業者も到着したようだった。
出入りする業者でわちゃわちゃする中、運んだ荷物を搬入し、ベッドをササっと組み立てて嵐のように去っていく引っ越し業者を見送ると、家電も最後冷蔵庫の搬入が終わり、急に静かになった。ガスの開栓も無事に済み、ひと段落ついたのかところで、お腹が鳴った。不意に、まだお昼を食べていなかったことに気付く。最近、食欲がなかった理美にとって、久しぶりの感覚だった。とても充実している。
これから散歩がてら近所で遅い昼食を取り、そのついでにスーパーに行って、簡単に生活消耗品の物価を偵察に行こう。そして夕飯用に適当に惣菜でも買って、のんびり晩酌しよう。貯金の使いすぎでギリギリの状態ではあるが、今自分が一歩踏み出せたことをお祝いしたい。出かける準備をしようと動き出した時、またもインターホンが鳴ったのだ。
(新聞屋かな…)
モニターで、エントランスの様子を確認すると理美は愕然とした。モニターに映っていたのは、紛れもなく圭介だったのだ。
「!」
急に寒気が走り、思わず自分の腕を抱いた。童謡を隠せない。ドクドクと動悸が早くなり、うまく言葉が出てこない。それでもなんとか落ち着こうと自分に言い聞かせた。
「…はい」
理美がやっとの思いでインターホンに応答すると、不安げな表情だった圭介は、彼女の声に反応して表情が明るくなったのがわかる。
「手伝いに来たんだ。あと、美香から差し入れのサンドイッチ届けてきてくれと頼まれて。…入れてくれないかな」
美香に持たされた言う紙の手提げ袋をカメラに捧げ、圭介は怪しいのもじゃないことを強調している。理美は迷っていた。本当ならば開けたくない。またサンドイッチも正直どうでもいい。しかし、エントランスで追い返しても、後で面倒を起こしてまだ挨拶にも行っていない近所の住人に迷惑をかけるわけにもいかない。
…でも、無理。
ジレンマに悩まされる理美だったが、息を吸い込み、意を決して口を開いた。
「手伝いはいらないの。もうほとんど終わってて。大丈夫だから、帰ってもらっていい?」
感情的にならないよう、言葉を慎重に選んだつもりだった。事を荒立てるようなことはなるべくしたくはない。冷静を装い、理美はなんとかやり過ごしたかった。
「長居なんてしないよ。サンドイッチだけ、渡したらすぐに帰るから」
圭介は愁いを帯びた目をしてそう訴える。彼が映るカメラの後ろに、ちらっと呼び鈴を待っている人影が見えた。ここでぐずぐずしているわけにはいかない。理美は小さくため息を漏らす。
「…わかった。どうぞ」
その声は、なんの抑揚もない冷たいものだった。
ドアの前まできた圭介を、部屋の中にまで上げるつもりはなかった。玄関先でサンドイッチだけ受け取ったらすぐに帰ってもらうつもりで、理美は玄関のドアを少しだけ開けた。
「美香に言われて来たの?」
いらっしゃい、とも言わず理美の表情はのっぺらぼうのような無表情でそう尋ねていた。そんな彼女に対し、圭介は小さく寂しげに笑っていた。
「様子を見てこいってさ。これ、美香が作ってたよ。サンドイッチ。どうせ何も食べずに動いてるんだろうって。慣れないことするから、時間かかってたけど」
圭介は、さっきモニターで見せた紙袋をドアの隙間から差し出した。紙袋から見えたのは、見覚えのある家のタッパウエアだった。理美には美香が騒がしくしながら作ってくれことを容易に想像することができた。親の脛をかじって学生生活を過ごしていた美香が、自分のためにサンドイッチを作ってくれたのなら、それが嬉しくないわけがない。口元が少しだけ緩んでいたことも気づかず、理美は圭介から紙袋を受け取ると、そこで初めて彼の顔を見た。
「…ありがとうって伝えておいてくれる?」
理美がさっきよりも柔らかな口調でそう口にした。
「うん。伝えておく」
理美の柔らかなその表情を見た圭介も、そっと笑っていた。まるで、愛しいものを見るかのように。理美はハッとし目を逸らすと「これから出かけるから…」と言って、彼に帰るよう促した。
「顔、見られてよかった。…またね」
圭介は、小さく手を振りながらその場から去っていった。理美は静かにドアを閉めて、思わずその場に座り込んでしまった。
(なぜ、あんなに嬉しそうにできるのよ…)
自分は、圭介から遠ざかるために引っ越してきたというのに。つい、理美の口から大きなため息が漏れた。そして、手に持った紙袋からタッパーウェアを取り出すと、半透明の容器から見えたのは、高さがバラバラのハムとレタスのサンドイッチがいっぱいに入っていた。
理美はゆっくりと立ち上がり、まだ片付かない部屋の窓際の床にペットボトルのお茶とサンドイッチを置き、さらに荷物の箱からクッションを引っ張り出してきて、お尻の下に敷いた。準備が整うと、彼女はそのサンドイッチにかぶりつく。いつも食べているハムとマスタードとマヨネーズの味がする。普通だ。至って普通の味のするサンドイッチだった。
(…おいしい)
不格好なサンドイッチを無心に食べながら、理美は夏の空を仰ぐ。いつかこのサンドイッチを作った人が、成長していく子どもために作り、夫のために作り、何かのイベントの度に何度も何度も作り、こんなに不格好だったものから、母が作ってくれたようなおいしそうなものを作れるようになるのだとしたら、それはどれだけの時間を経ることになるのだろうか。
そうなる頃までに、この苦しみは消えて跡形もなくなるのだろうか。あの二人には未来がある。理美がいつまでもこの記憶のせいで足を取られて動けなくても、彼らの時間はと待つことなく進んでいく。忘れられたらどんなに楽になるか。家族として過ごせたら、どんなに楽しいだろうか。しかし、自分のそばで彼らの明るい未来を見守れるほど、懐が広いわけではない。どんなに時間が経とうとも、痛みに慣れることがあってもこの苦しさを忘れられる気がしなかった。
一気に食べてしまった理美は、残っていたペットボトルのお茶を一気に飲み干してしまった。そして、大きく息を吐く。
「…ごちそうさまでした」
両手を合わせ、一礼する。そして、すっくと立ちあがり出かける準備を始めた。
わかっている。たかが家を出たくらいで、しかも居場所も知られているこの状態で、今の状況が変わることがないことくらい。それでも、自分が進むためには、どうしても果たさねばならなかった『一歩』だった。それが例え小さなものであっても、どんなに意味のないことでもだ。
眠る前、理美は隆司のことを思い出していた。救ってほしい時にそばにいてくれたことを感謝した。自分のことを語りたがらない彼が、いつもでも自分のそばにいるとは思えない。ましてや、仲間に心配されているくらいの正念場ならば、それを打ち明けてくれないのは、余計な心配をかけないようにするための彼の『優しさ』なのだろう。
自分より他人を優先してしまうのは昔からだ。おそらく、彼にとって『私』という存在は、邪魔なはずだ。お店のあの少女が言うとおり、「好きなら邪魔しないで」という意味がよくわかる。好きだ。隆司を。だからこそ、もうお終いにしないと。
(あの子の言う通りじゃない…。私はあの人の足を引っ張ってる…)
『本当にどうしよもなくなったら、何も考えずに連絡しろよ。今日のは本当に見てられなかった』
あの日、隆司が理美に言ってくれた言葉だ。
(私があんなふうに泣いたから、そう言わせたんだ…)
だって、辛かった。苦しかった。救ってほしかった。ひとりになりたくなかった…
優しいから、救おうとしくれる。優しいから、手を貸してくれる。過去に縁があったからであって、恋でも愛でもない。それ以上でも以下でもない。
(そんなこと、最初からわかってたけどね…)
なんて、強気でいるくらいがちょうどいいのだ。自分を守るために。




