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四 理不尽

 あれから二週間、理美の会社での仕事が立て込み、彼女は隆司と会うどころか何かを考える暇のないくらい、多忙な毎日を過ごしていた。仕事で兼ねてから進んでいたプロジェクトが本格化し始めたのだ。


 新しい部屋も決まらないまま、仕方なく実家から会社に通っていたが、誰よりも早く家を出て、一番最後に帰宅するような生活を送っていた。母は夕飯の世話をするために起きて待っていてくれる。しかし妊婦の美香は体力的にそれが難しく、理美が帰ってくる時間よりもだいぶ早い時間に寝てしまうため、すれ違っていた。そんな状態のため、同じ屋根の下にいるというのに、美香と会話する時間がまったく取れないのだが、正直、そのほうが精神的に助かっていた。美香の代わりに情報をくれるのは、母小百合だった。


 その話によれば、この家が美香の結婚に向けて確実に動き出していることが十分にわかる。母の情報をまとめると、式場は何とか決まり、今年の一〇月の大安に予約を取れたとのことだった。美香は体調と相談しながら準備に勤しんでいる。臨月になる前に簡単に式を済ませてしまおうということのようだ。今は美香の体調を最優先に考え、家族だけで式を執り行うこと、友人たちを呼んでのパーティーは、子どもが生まれてからやるなど、ついでに美香と圭介の愛の証は、着実育っていることを聞いていた。


 小百合は、圭介が卒なく、まだ幼さを匂わす美香のサポートに徹しているところを褒めていた。その件は理美にとってどうでもよかったため、話の内容は聞き流していたが、母が圭介を気に入っている事実は変わらない。圭介の人柄が優しく穏やかであることはもちろん知っている。しかし、誠実かどうかはまた別の話だ。思わずそう言ってやりたくなるのを堪えながら話を聞かなければならないのは、本当に辛かった。


 ならば、美香のつわりが収まる頃までには早く自分の新しい住処を決めて、家を出なければ…。しかし、探してはいるものの、なかなかいい物件に巡り合えず、さらに忙しいから体調があまりよくない。小百合は理美が体調を悪そうにしていることに気づき心配していたが、彼女はそれを笑って跳ねのけていた。


 土日になると、理美は疲れた体に鞭を打って不動産屋に赴くのだが、撃沈している。正直、彼女は疲れ切っていた。次に引っ越す時は、一から家財道具を揃えないといけない。できれば今抱えているプロジェクトがひと段落してから引っ越しを考えたかったが、そうも言っていられないのが、悩みの種でもあった。


(声、聞きたいな…)

 昼休み、疲れ切っていた理美は、少女のようなメンタルでスマホの連絡先とにらめっこしていた。コンビニで買ったオレンジジュースだけ飲みながら、会社のカフェスペースに設置された窓際のベンチに座っていた彼女は、小さくため息を吐いた。


(今日、早く帰れたらお店に行ってみようかな…)

 隆司も忙しいのか、彼から連絡が来ることはなかった。それでも、何かあったら連絡していいという彼の言葉は、理美にとって大きな支えになっていた。


 今夜、早く仕事を上がれたら迷わずSTEADYに行こうと思っていたのだが、疲れが溜まったのか急激な眠気が彼女を襲っていた。理美はSTEADYに行くことを渋々断念し、まっすぐ帰ることにした。早く帰宅と言っても、家に着いたのは軽く夜の八時を回っていたが、家の明かりがついているうちに帰宅できるのは、本当に久しぶりだった。鍵を開けて玄関に入ると、見知らぬ革靴が揃えて置いてあった。この靴は、父のものではない。理美は嫌な予感がした。


「理美、帰ってきたの~?」

 リビングの奥から、小百合の声が聞こえる。余所行きのその声色でだいたいの状況を察することができる。恐る恐るリビングに顔を出すと、ダイニングテーブルに着いたスーツを着た青年の後ろ姿があった。美香の隣に座ったその男は、理美のほうに振り返ると、小さく会釈した。


「いらっしゃいませ」

 無表情だったかもしれない理美の顔を見た圭介は、すぐに視線を逸らしていた。


「お姉ちゃん、おかえり。なんか久しぶりだね?」

 美香が理美に会えた嬉しさからか、機嫌よく話しかけていた。そんな妹に笑みを浮かべてうなずくと、理美は「はい、ただいま」と一言だけ返したのだった。


「あんた、ご飯は?」

 小百合の問いに理美は首を横に振った。

「ちょっと疲れてて眠たいから、大丈夫」

 理美はリビングに入ることなく、そのまま二階へと上がっていった。


 まさか圭介が上がりこんで、夕飯を食べているところに遭遇するなんて…


 眠気に続き頭痛が起こり、こめかみのあたりがズキズキと激しく痛む。それでも階段を上り切り、電気もつけず、真っ暗のまま自分の部屋に入ると、大きな窓のカーテンをそっと開けた。銀色の月明かりがふんわりと部屋に差し込み、理美は着替えもせずにそのままベッドに雪崩れ込んだ。


 頭、痛いけど…

 お店に行きたかった。会いたかった。声を、聴きたかった…

 瞼に広がるのは、闇だ。その闇に誰も抗うことなどできなかった。それがわかると、理美の体から力が抜けていく。だんだんと意識も遠くなり、彼女はそのまま眠ってしまった。


 泥のように眠った後の体は、重かった。寝覚めもあまり良くなく、頭の中はぼうっとしていた。ベッドサイドに置いてある時計を手探りで探し、時間を確認する。


(…まだ二時半)

 随分と中途半端な時間に起きてしまった、と思いながら上半身だけ起き上がった。枕元に充電ケーブルを挿していない状態で置きっぱなしだったスマホを手に取ると、SMSが一通届いていることに気が付いた。理美はさっとメッセージを開く。


 送り主は隆司だった。0時過ぎに送られてきていたメッセージはても短かったが、理美が笑顔になるには十分だった。

『今日はマジでヒマでさ。また話し相手に店に来いよ』

 このところ、こういう簡単な連絡すらもできなかった理美にとって、唯一の救いだ。やはり、店に行って元気をもらって来ればよかった…。そう思ったとき、頭痛が取れていることに気付いたのだ。


(返信はまた明日にしよう)

 スマホをホーム画面に戻して、今度は充電ケーブルにつなぐと、理美はそっと部屋を出て一階に下りて行った。


 キッチンに入り壁際の照明のスイッチを押すと、時間差でキッチンに明かりがついた。冷蔵庫を開けて中を物色すると、缶ビールが冷えている。きっと圭介に出そうとした残りだろう。そう思いながらそれを取り出すと、缶のプルトップを開けた。そしてキッチンのシンクを背にして寄り掛かりながら、ひと思いに流し込むと、爽やかな苦みを帯びた液体がのど元を通り過ぎていった。


 冷たくて、頭の中がはっきりとする。思わずふーっと長く息を吐いた。


 結婚式に出ない、という選択肢はないんだろうな…

 ついそんなことを考えていると、自分が苦笑いを浮かべていることに気づく。胸に刻まれた傷が癒え始めているということなのだろうか。


 もしそうなら、それはきっと隆司のお陰だ。彼がそばにいてくれなかったら、もっとひどい状態になっていたに違いない。しかし、だからと言って圭介を許せるわけではなかった。彼が義弟になることについては、肯定できない。消えてほしいとさえ思っていた。


 自分が夢を見ていた光景を数か月後には第三者視点で見なければならないなんて、どういう気持ちになるのだろうか。想像つかないというより、考えたくない、というのが本音だろう。しかし、皆が祝福している二人をぶち壊すわけにもいかない。かといって、彼らのそばにはいられないのも事実だ。関わり合いを持たずに生活するためには、今まで築いてきた『家族の絆』を捨てて、疎遠になるしかない。


 両親が、そんなことを許してくれるのだろうか。いや、そんなはずがない。きっとわが子を心配して連絡をするだろうし、もし理美が一方的にそんなことをしようものなら、両親は黙ってないだろう。本当に実行するならば、よほどの覚悟をもって実行しなければならない。本当にすべてを捨てなければならないだろう。それこそ、親の死に目にも会わないような親不孝者に徹しなければならない。


 考えれば考えるほど、現実的ではないような気がしていた。本当の正解は、もうわかり切っている。すべてのことを理美が墓まで持っていくことだ。そして、きっと圭介もそうするはずだ。過去に理美と関係を持っていたことを、誰にも話すことはないだろう。さらに、今後理美と圭介が昔話をすることもない。余計なことをしなければ、何の問題もないことくらい、彼女はとっくに気付いていた。しかし、それが許せないのだ。圭介が理美の行動を計算に入れて美香と結婚しようと思っているなら、軽蔑に値する。


(そんな人ではないと、思ってたんだけどな…)

 それとも、圭介の人間性を見抜けなかった自分が間抜けなのか。もしかしたら一度対峙しないといけないのかもしれない。それはそれで気が重かった。


 缶に残ったビールをグビグビと飲んでいると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。二階から降りてくる階段の音だ。二階で寝ているのは美香だ。のどが渇いたのだろうか。そんなことを考えていると、はやり美香がキッチンの入り口から顔を見せた。


「電気がついてるから、びっくりしたぁ…」

 そんなことを口にしながら、美香は冷蔵庫を開けた。そして、麦茶のポットを取り出し、水切り籠に伏せてあるグラスをひっくり返して注いだのだ。


「お姉ちゃんはビールか。いいな」

 美香は一口麦茶を飲んでから、理美の隣に並んだ。

「お姉ちゃんにちょっと聞きたかったんだけど」

「…なに」

 缶に口をつけたまま、聞き返す。

「お姉ちゃん、圭介さんのこと嫌い?」

 美香のその質問に、理美はそのままの姿勢で固まっていた。


「え…?」

 思いっきり眉間を寄せて、聞き返す。

「この間圭介さんがあいさつしにうちに来た時、お姉ちゃんすぐいなくなっちゃったでしょ。病院のお迎えに来てくれた時も避けてた気がしてて、あと今日。全然愛想無くて、びっくりしてたんだよね」


 普段ぼやっとしているくせに、そういうところは鋭い。理美は、どう答えようかと考えるが、咄嗟に適当な言葉が出てこなかった。深く息を吐き、呼吸を整えると美香の顔を見る。

「…そんなことないわよ」

 笑いながら平然とそう返事をする。しかし、美香は顔をしかめたままだ。


「うそ。ねぇ、もしかしてホントは反対してる?」

「私が反対したら、結婚やめるの?」

「やめない。…やめるわけない」

 はっきりと言い切る美香の顔を見て、理美は苦笑いを浮かべていた。

「じゃぁ、別に私の意見は関係ないでしょ」

「そうだけど…」

 美香は頬をぷくっと膨らませて、ムッとしている。美香の言いたいことはわかる。


「祝福してほしいの…。お姉ちゃんに背中押してもらったから。私がちゃんとしっかりやっていけるように…」

 縋るような訴える目をして、美香はそう続けたのだ。

「応援してるよ? でも美香の旦那さんを私がどう思うかは、また別の問題でしょ」


 そんな美香の視線を振り払うように、理美ははっきりとそう言い切った。すると、美香は寂し気な顔をしていた。理美は心が痛かった。相手が圭介でなければ、こんなこと言って妹を傷つけずに済んだのに…。


「ねぇ、なんか誤解してるよ?」

 言葉を慎重にかつ丁寧に、美香は宥めるように理美に言った。しかし、理美は首を横に振る。

「いや、あなたの旦那さんも私のこと好きじゃないと思う。はじめて会ったときにそう思ったの。なぜかはわからないけど」

「え、そうだったの?」

 初めて知った事実だったと言わんばかりに、美香は動揺している。


「でもさ、お母さんもお父さんも美香の旦那さんのこと気に入ってるみたいだし、私のことは気にしなくていいよ」

 理美は缶ビールの残りを一気に流し込み、空き缶をシンクに出した。そして、「おやすみ」と一言残して、自分の部屋に戻っていった。これ以上、この会話を続けられない。ボロを出す前に一時退散しなければ。理美がそんなことを考えていることも知らず、美香は切なげな視線で、理美の後ろ姿を見つめていた。




 その週末、理美はまたも不動産屋に行くべく、出かける準備をしていた。

「お姉ちゃん」

 部屋で身支度をしていると、まだ部屋着のままの美香が部屋に入ってきたのだ。


「どうしたの?」

 眉間にしわを寄せた美香に、理美はあっけらかんとそう返したが、靴下をはく手は止めなかった。

「今日、どこ行くの?」

「…不動産屋だけど」

「なんで? また家を出ていくの?」

 美香は驚いて聞き返す。しかし理美はやはり、支度する手を止めない。


「だって、やっぱりここからだと会社が遠いのよ。前の部屋は取り壊すって言うから出たけど、期限までに新しいところ決まらなかったのよ。家財道具はほとんどもらい物ばかりで古かったから全部処分しちゃったけど、やっぱりもう少し便利なところに住みたいって思ったから」


 頭で思い描いていた理由をスラスラと述べる理美。美香はあてが外れたと言わんばかりとがっくりと肩を落とした。

「え、なぁに?」

 美香のその様子に、怪訝そうな目で聞き返す。さすがの理美も美香の考えていることはわからなかった。


「私、産んでからひと月はここにいさせてもらう予定なの。お姉ちゃんも赤ちゃんを可愛がってもらおうって…」

「あぁ、私は無理よ。当てにしないで」

 笑い飛ばしながら美香の考えを一蹴する。すると、今度は眉を吊り上げて美香は怒っていた。


「誰も世話をしてくれなんて、言ってない」

「じゃぁ、なに?」

 すっかりと出かける準備を終えた理美は、バッグを手に取り部屋の入り口に立ちはだかる美香と向かい合ったが、美香との会話に真意が見えず、苛立ちを隠せなかった。


「お姉ちゃん、お願いがあるの」

 美香は理美の手を取り、ぎゅっと握った。

「お姉ちゃんに圭介さんのこともっと知ってほしいの。絶対、思い違いをしてるから。だから、一緒にお茶しよ」

 美香が真剣な顔をして訴えていた。


「え…?」

 まさかの提案に、理美は固まった。思い違いなどしていない。むしろ、圭介のことは美香よりも知っている自信もある。しかし間違ってもそんなことは言えないが。

 なぜ美香は、毎回毎回人の感情をかき混ぜてくれるのだろうか。


「これから家族になるんだよ。それなのに、歩み寄ってくれない…。それはさすがに傷つくよ」

 美香はいつもに増して必死に訴えていた。理美はそんな真剣な美香を直視できなかった。何度も思う。相手が圭介でなければ…


「今日ね、これから会う約束してるの。今日は彼の家でのんびりした後、駅の喫茶店に行くから、お姉ちゃんも来てよ」

「突然私が現れたら、びっくりするでしょ」

 美香を宥めるためにかけた言葉だったが、本心でもあった。

「実はもう伝えてあるの。三人でって。圭介さん、分かったって」


「勝手に決めないでよ」

 眉をひそめながら、理美は抗議する。美香の提案を素直に飲むわけにはいかない。お互い、生きた心地はしないだろう。特に圭介の方は。その時間、どんな空気になると思うのか…。理美は目の前に起こった問題をどう片付ければよいか必死に考えていた。


「お姉ちゃん」

 美香はじっと強い視線で理美の顔を覗き込む。理美は苦笑いを浮かべていた。これ以上、美香を説得できる理由を見つけられない。困った…


「…わかった。不動産屋の後に駅のお店に寄るわ。お店、冷房が効いてると思うから、膝掛けとか忘れないでよ」

 理美はそっと美香の手に包まれた自分の手を取り返すと、ニコッと笑いながら部屋を出たのだ。




 …最悪だ。なぜ、二人のラブラブしているところを見なければいけないのか。これは何の罰ゲームなのだ。不動産屋までの途中、理美の気分は駄々下がりだった。残念ながら、圭介と会ったからといって関係が良くなることはない。お互いにそれが時間の無駄だと分かっているのに、圭介は理美とのお茶を了承した。波風を立てないためだろう。それにしても、だ。美香の言いなりすぎやしないか? だんだんと腹立たしくなってきた。


 駅のホームは、遊びに行く人々で賑わっていた。休日のため、満員列車な訳ではなかったが、駅のホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、座席は埋まっていた。子ども連れが多い。家族でお出かけなんて、微笑ましい。何年かしたら、美香もこんなふうになるのかな…、と心の中でぽつりと呟く。


 自分が思い描いた幸せの一つだ。特別なんかではない、普通の幸せの形。理美にはそれすらも遠く感じる。手を伸ばしても届かない。今の自分には、その幸せを手に入れる資格がないと言われているようだ。いつか、その普通の幸せを叶えてくれる人が現れるのだろうか。とても今の状況から、そんなふうには考えられなかった。


 一瞬だけ、隆司の顔が浮かぶ。しかし、すぐに首を横に振った。彼には叶えたい夢がある。甘えられるのだって、今だけだ。わかっている。期待してはいけないことくらい。

 そのうち、彼は自分の手の届かないところへ行ってしまう。そう思ったら、無性に会いたくて仕方なかった。




「あ、お姉ちゃん!」

 店内に入り、美香と圭介の席を探していると、美香は理美に気付き、手を挙げながら立ち上がった。理美は手で仰ぎながら美香たちの席に歩き出す。そして、美香の隣の席に腰を下ろした。


 向かいには圭介が座っている。目が合うが、逸らしたのは彼だった。

「こんにちは。美香がお世話になっています」

 理美はわざとにっこりしながら挨拶した。すると、圭介は「いえ…」と曖昧に笑い、会釈する。かなり微妙な空気だ。理美は呆れていた。


 注文を取りに来た店員にアイスコーヒーを頼むと、美香は温かい紅茶を、圭介はホットのおかわりを注文する。店員が席から離れると、なんとなく無言になった。

 不意に、窓に視線を向けた。冷房が効いた店内からでも、この窓際の席から外が地獄のような暑さであることがわかる。夏の始まりだ。


 案の定、理美からは何も話すような話題もなく、ひたすら美香の話を、相槌を打ちながら聞く時間が続いた。美香は楽しそうに語っていたが、理美はちっとも楽しくはない。やはり罰ゲームとしか思えなかった。その間、圭介はというと、理美と同じような状況だった。当たり前である。理美と他人を演じなければならないのだから、彼が理美に踏み込んだ話題を出す訳はない。お互いに退屈な時間であろう。しかし、圭介は甘んじてそれを耐えなければならない、と理美は考えていた。これから先ずっと、彼は背負って生きていかなければならないのだから。消えることのない過ちを、ずっと…


 話がひと段落ついたのか、美香はトイレに立った。

「ついて行こうか?」と理美がそう尋ねるが、美香は「大丈夫」と言って、化粧室へ向かった。残された理美と圭介の間に流れる空気が、一気に悪くなる。


「…本当にきみが美香のお姉さんなんだな」

 小さく笑いながら、諦めたように圭介は小声でそう呟いた。その言葉に、理美はピクリと反応する。

「なんの悪戯なのかしらね」

 目も合わさずに、理美は白々しくそう返す。汗のかいたグラスを手に取り、アイスコーヒーに挿さっているストローを口に運んだ。


「…挨拶に行ったらまさかきみがいるなんて思わなくて…。本当に何て言ったらいいか…」

「…もう何度も聞いた」

 目も合わせられない状態で理美は答えていた。圭介が目の前でどんな顔をして話しているかなど、もはや直視できなかった。


「…こんなこと言えた義理ではないけど、理美とは結婚を考えてたから…」

 後悔してる、とでも言うの?

「まさか、子どもができたなんて…」

 化粧室の方へと目線やる圭介。その先にいるであろう美香を見つめているのか、理美はあからさまにため息を吐いた。

「なかったら、ほかに女がいても、私にプロポーズしようと思ってた?」


 理美の言葉が刺さったのか、圭介は背筋をビクつかせながら、すっと目を伏せたのだ。

「…いや、もう何言っても言い訳にしかならないよな」

「…そうね」

 そして、沈黙。美香はまだ化粧室から戻ってくる様子はない。


「せめて、きみには幸せになって欲しいと思うよ…」

 その言葉に理美はつい反応していた。怪訝そうな目で彼女は圭介の顔を見ていた。そこにあったのは、弱気な笑顔だった。次第に怒りが込み上げてくる。この男は何を言っているのだろうか? 人を奈落の底に突き落としておきながら、幸せになれですって?


(…どの口が)

 自分は仕方なく選んだ道で頑張るから、お前は幸せになれ

 そんなふうに聞こえる。

「どうしたら私は幸せになれるのかしらね」

 理美は財布から自分のコーヒー代の千円札を取り出し、テーブルに置いた。


「あなたにわからないことを、私がわかるわけないでしょ」

 精一杯の笑顔を向け、理美は美香が戻る前に席を立った。

 圭介が美香に対して誠実にあろうとすればするほど、理美を傷つけていくこの構図はもう変わらない。圭介にまだ愛情があるかと問われたら、はっきり『ない』と言える。彼が自分と関係のない女と結婚するなら、こんなに苦しい思いをしないで済んだはずなのに、運命の悪戯とは本当に惨い…




 店を出ると、彼女はSTEADYに向かっていた。

 時間的に、もう開いているだろう。まだ外は明るかったが、店先の看板は電気が付いていた。地下に降りる階段を降り、あの分厚いドアを開ける。開店したばかりの店内は空いていた。

「いらっしゃいませ」

 カウンターからそう声をかけたのは、あのマスターだった。理美は小さく会釈しながら、空いているカウンターの席に座った。


「久しぶりだね、お姉さん」

「あら、覚えててくれたんですか」

「綺麗な人のことは忘れないよ。生でいい?」

 優しい笑顔でそう話すマスターに、理美も笑顔でうなずいた。

「あれ? 理美!」

 裏の事務所から表に出てきた隆司が理美に気付き、近づいてきた。

「久しぶり」

 ニコッと笑いながら理美が挨拶すると、嬉しさを噛み殺しながら隆司は小さく咳をした。


「来るなら来るって連絡しろよ」

 そんな彼らのやり取りをマスターは目を丸くしながら見ている。

「あれ、知り合い?」

「高校の後輩」

 隆司がひと言でそう答えると、マスターは意外そうにうなずいていた。

「まぁ、ただの先輩後輩じゃないけど」

 少しだけ含みを持たせて付け加えると、マスターは野次馬精神を丸出しにしてすかさず反応する。


「なんだよ、もったいぶって」

 笑いながらそう尋ねるも、マスターは「なんだ。じゃぁ、隆司の事情も知って——」と言いかけたが、慌てた隆司がそれを遮った。


「ちょっ、マスター、タンマ!」

 突然隆司に遮られ、理美はびっくりして彼の顔を見たが、それ以上の言葉を期待できないと察した。そしてすぐに首を横に振ったのだ。


「実は最近再会した感じで。私は、彼の歌が聴けるだけでそれでいいので」

 小さく笑いながら、出された生ビールに口をつけた。


「Sunny day Blue…、今日は聴けるのかな」

 理美は戯けながら隆司に尋ねると、彼はピースサインを決めた。「頑張って」と隆司に伝え、彼女は小さく手を振る。彼は屈託のない笑顔を浮かべてそれに応えると、その場から離れ、自分の持ち場へ戻っていった。


 もちろん、理美は詮索するつもりはなかった。隆司がどんな生活をしていたって、今、自分が救われれば、別にそれでいいのだから。


 隆司はカウンター内にある水道で布巾をすすぎ、それを手に持ってカウンターの外へ出ると、テーブル席の掃除を始めた。その様子をぼうっと眺めていると、「気になる?」と マスターの呼びかけられて、ハッとした。そして、きまり悪そうにまっすぐに座り直した。


「ずっと目で追ってる」

 クククと白い歯を見せて、面白そうに笑っているマスターに、理美は顔を赤くしながら首を振って否定した。

「そうなの?」

「そうですよ。だって…」

 ビールグラスを見つめながら、理美は小さくため息を吐く。


「…今も歌ってるってことすら、私、知らなかったんですよ。今更、深くになんて入り込めない」

「大人ゆえ、臆病になるのかね」

 マスターはそう言い残して、呼ばれた声に反応し、他の客の接客に対応していた。


 ここに来るのはすべてを忘れたいからだ。例えば、昼間のような実りない会話も、垣間見てしまった圭介の後悔も、なにもかも…。その場限りでも構わない。くだらない会話をしながら、楽しく酒を飲む。


 ずっと続くわけのない時間だからこそ、大事にしたい。理美はそう思っていた。


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