三 冷たい雨
その日は朝からシトシトと雨が降っていた。初夏の雨は冷たくないと思っていた理美だったが、六月の気温としては肌寒く、服が全然ない状況にガクッと肩を落としていた。荷物を取りに、一旦住んでいた部屋に戻らなくては…。圭介から、荷物を箱詰めし終わった、とメールで連絡が来ていたが、いつ訪れるかまではまだ伝えていなかった。なるべくなら、有給を取って彼のいない時間帯に取りに行きたいと考えていたが、運が悪いことに、走り出した重要なプロジェクトを抱えており、突然の休みは取りづらい。
しばらく考えたが、休日に訪れるなら圭介に連絡だけは入れないとダメだ。仕方なく、理美は次の土曜日に荷物を取りに行くと圭介にメールで連絡した。その日の夜、彼から了解とだけ連絡が来て、またいらぬため息が理美の口から漏れていた。できればもう、圭介との連絡などのやりとりはやりたくない。これが最後だと願いたかった。
なんとか忙しい平日を乗り切り、土曜日。相変わらずどんよりとした空だった。いつまでも晴れ間を見せないこの季節の天気は、まるで理美の心を映しているかのようだった。すっきりとしたあの青い空はいつ見られるのだろうか。もしかしたら、一生晴れないのではないか? そんなふうにすら考えてしまい、理美はさらに落ち込んだ。
今日はいつになくラフな格好だ。白いティシャツに浅い色のデニムパンツを履いた理美は、長い髪は軽くひとまとめに結び、気合いを入れる。
「あれ。お姉ちゃんも出かけるの?」
自分の部屋から一階に降りてきた理美は、洗面所で歯を磨いている美香に声をかけられた。美香も出かける準備をしているようだった。
「うん。美香も?」
「私はこれから産婦人科。検診で。圭介さんが車で迎えにきてくれるって言うから…」
嬉しそうに惚気る美香に、理美はまだどんな顔をしたらいいか迷っていた。しかし、ニコッと笑いながら「そう」と返事して洗面所を通り過ぎた。
(圭介の予定は何気なく美香から聞けばよかったんじゃ…)
なんて、後から気付いた理美だったが、圭介が留守ならちょうどよかった。ささっと荷物を引き取りに行こう、と気を取り直して玄関に向かった。
「あ、お姉ちゃん」
靴を履いている理美を口元に泡をつけたままの美香が引き留める。
「ん?」
「もうすぐ圭介さんが家に来るから、駅まで一緒に乗せてもらったどうかな」
悪気ない顔をして、美香がとんでもない提案をする。理美は、一瞬固まった。
「…え?」
思わず聞き返してしまった理美だったが、慌てて首を横に振り、その申し出を断った。
「大丈夫よ。だいたい、あなたのために付き添ってくれるんでしょ? 私が乱入——」
そう言いかけた時、家のインターホンが鳴ったのだ。
「ごめん、お姉ちゃん出て!」
美香はパタパタと洗面所に戻って行った。
「美香、走らないの!」
小百合に注意されながら美香の口をすすぐ音が遠くから聞こえてくる中、理美は眉をひそめていた。
(私がドア開けるの?)
躊躇い、理美は思わず玄関のドアから後ずさっていた。
「お、お母さん!」
小百合を呼び、理美は家の中に上がって、トイレのドアノブを掴んでいた。そしてトイレの中に滑り込んだのだ。
「えぇ? なんなのよ」
小百合は慌ててトイレに入って行った理美を不審に思いながら、今開けますね〜、とよそ行きの声で玄関のドアを開けた。
「おはようございます」
ドアの向こうから現れたのは、蒸し暑さと湿気に負けないくらい爽やかな笑顔を浮かべた圭介だった。
「わざわざごめんなさいね」
謝る小百合だったが、嬉しそうにしている。控えめに言っても、圭介を気に入っていることが声色でよくわかる。
「いえそんな…」
謙遜する圭介は、支度を終えて玄関に現れた美香に視線をやった。美香は笑顔いっぱいでそれに応えていた。
「あれ、お姉ちゃんは?」
「理美ならトイレ」
急に姿を消した理美を不思議に思い、辺りを見渡す美香だったが、小百合がその疑問に答えると、眉をひそめた。
「ほら、出かけるみたいだったから駅まで一緒にって、今話してたのに…」
美香が口を尖らせながらそう口にすると、圭介の眉間がピクリと動いた。
「まぁ、僕は構わないけど…。でもすぐに出ないと、君の病院の予約時間が微妙になるし…。今日は土曜日だから、道が混むよ」
優しく穏やかに圭介が嗜めると、美香はうなずいた。
「お姉ちゃん、先出ちゃうからねー!」
美香は、トイレのドアに向かってそう告げると、圭介と共に出かけて行ったのだった。外のドアの音が閉まるのを確認すると、理美はトイレから出てきた。一つため息を吐くと、肩を落としたように眉を八の字にしてもう一度ため息を吐いた。
「あんた、何してるの?」
不審そうに理美を見る母。
「え?」
「もしかして、あんたも体調悪いとか?」
怪訝そうな目をして、小百合は理美のおでこに手を当てた。
「違う、違う。そんなんじゃなくて、なんかお腹の調子が…良くなくて」
相変わらず厳しい言い訳だと自分でも思いながら、愛想笑いを浮かべてそう答えると、やはり小百合は納得していない様子で、リビングに引き返して行った。
やり場のない思いを抱えながら、理美はスニーカーをはいた。そして、ゆっくりと玄関のドアを開けてひとりひっそりと出かけて行ったのだった。
半月振りに戻ってきた、前に住んでいた部屋。さっさと済ませてしまおうと、鍵穴に鍵を差し込み、ドアノブをぎゅっと握る。誰もいないとわかっているのに、ドアを開けることを躊躇っていた。しかし、時間は限られている。意を決して静かにドアを開けた。
部屋の中に入ると、理美が飛び出してから多少散らかっていたが、ひどい状態ではなかった。少し片付ければ人が呼べそうなレベルというべきか。圭介は、身の回りのことは自分でできるタイプの人間であるため、まだ若く生活力のない美香との生活も何とかなるだろう。
(というか、何とかしてくれないと困る…)
リビングの壁際に、段ボール箱が積まれている。まだ封をしていない状態で、六箱だ。理美はふと箱ずつ中身を確認し、各部屋に残っているものがないか確認して回った。風呂場もトイレも抜かりなく確認する。歯ブラシやヘアゴムといった消耗品は、すでになくなっていた。彼女が捨てるように指示したからだと思うが、圭介の行動も早かった。もはや自分がここに住んでいた影を感じることはできなかった。すでに彼も覚悟を決めたということなのか。
この部屋をできるだけ早く出たかった。ものだけではなく、思い出ばかりが頭を駆け巡っていくのだ。まるで走馬灯のように。辛いことも嬉しいことも全部、二人で過ごした時間がここに詰まっている。
好きだった。本当に…
段ボールをガムテープでしっかりと止める。汗と一緒に理美の頬には涙も流れていた。この胸の痛みは、いつかなくなるのだろうか。
汗をタオルで拭い、持参した宅配便の送り状をバッグから取り出すと、集荷を依頼するために送り状に書かれた電話番号に電話をかけた。なるべく早くきてもらえるよう宅配会社にお願いして電話を切ると、封をした段ボールに送り状を貼り付けた。
ひと仕事を終えて、ひとりぼーっと段ボールに寄りかかって座っていた理美は、足を投げ出して窓の外を眺めていた。集荷は、宅配業者がちょうどこの辺りを回っているらしく、三〇分くらいで来てくれるそうだ。エアコンの涼しい風に当たりかいた汗が引いていくと、急に時間がゆっくりと流れ出した気がしていた。何年も過ごし使い慣れたこの部屋で、何も考えないようにするなど、無理だった。しかし、気を紛らわす術がわからない。黙って目を閉じる。圭介は今、美香とどんな気持ちで過ごしているのだろうか。…なんて、自分が考えても仕方がないことばかり理美の頭を巡る。
夏の初めの今、思い出すのは一緒に暮らし始めたばかりの頃だった。同じような季節に、二人で内覧したこの部屋に決めて引っ越してきたのだ。両親には悪いと思いながら同棲を隠していた。理美は結婚をするつもりではいたが、当時はまだそんな話すらも出ていなかったし、この同棲は、休みが合わない二人が付き合うためには、一緒に暮らすしかないと考えたからだ。幸せだった時もそうでない時も、この部屋で圭介と寄り添ったり喧嘩したりして過ごしていたはずなのに、いつしか寄り添うことも喧嘩すらもしなくなった。同じ部屋にいたというのに、いつの間にか彼らの歯車は、噛み合わなくなっていた。
三年という月日が長いのか短いのか、そんなことすらももう理美には分からなかった。とにかく早く前を見なければ。早く先に進まねば。この悲しみに足を取られてしまったら、二度と前を向いて進めなくなってしまうかもしれない。しかし、恋人から義理の家族になろうとしている圭介を許せるかどうかなど、今の彼女にはわからなかった。理美と美香が各々に幸せに暮らすためには、理由を決して語ることなく家族と縁を切ることを選ばなければならないだろう。
大好きな、家族を…失う?
縁を切るなんて、自分にはできるのだろうか。そんな選択を果たして——
全く想像ができない。しかし、平気なふりをして美香と結婚生活をする圭介が、自分の目の届く範囲で生きているなんてことが、許されるはずがない。子どもさえいなければ、こんな思い悩むこともないのに…。
(いや、生まれてくる子に罪はない。私が美香にそう言ったんだ…)
美香は、きっと元気な子を産む。天使のような赤ちゃんの姿を見たら、いつか圭介を許すことができるだろうか。
許せるなら許したい。しかし今、彼を許したら、理美はもう二度と誰とも付き合えないだろう。妹の幸せを守るか、全てを壊してでも自分の幸せを優先するか。もうその二つしか、彼女に残された選択肢はないのだ。つくづく姉という役割は割に合わない。
インターホンが鳴って、理美は我に返った。すぐさま立ち上がり応答すると、部屋に訪れたのは宅配業者だった。彼女は荷物を引き渡し、足早に部屋を去ったのだった。
一時間ほど電車に揺られながら、理美は窓を流れていく景色をぼうっと眺めていた。どうしようもない脱力感と喪失感が理美の肩にのしかかっていた。こんな時、どうすれば…、と考えたときに浮かんだのは、いつも同じだ。彼女は誘われるように次の駅で電車を降りた。
駅を出たときには降っていなかった雨が、STEADYの前に辿り着いた頃にはパラパラと降り出していた。地下への階段を降りて、見覚えのあるあの分厚いドアに手をかけようとすると、『CLOSED』と書かれたプレートが下がっていた。夢中でここまできてしまった理美は、スマホで時間を確認する。
(まだ、二時前…)
こんな時間からやっているはずはないのは当然だ。がっかりしながら踵を返し来た道を戻ると、雨足が明らかに強くなっていた。
激しく地面を叩きつける雨。仕方なく、軒先で雨が弱くなるまで待つことにしたが、ゲリラ豪雨に近い強い雨はしばらく上がる様子はなかった。理美は六月の雨が、こんなに冷たくて心細いと感じるものとは知らなかった。雨が止み、雲の向こうにある空の青さを全く想像がつかないのだ。もしかしたら、ずっとこんな天気なのかもしれない。二度と抜けるような晴天を見ることができないかもしれない。そう思うと、どうしても涙が出てきてしまう。いつまで続くかわからない不安が込み上げてくるのだ。
「あぁ、もう…、死んじゃいたい…」
つい言葉に出していた。空を見上げたとき、遠くの方から一本の傘に入った男が女連れでこちらに向かって歩いてきたのが見えた。男の方は、見たことのある背格好だったが、派手な出立ちの女の方は知らない。楽しそうにふざけながら歩く彼らを見ていると、理美の胸にチクリと痛みが走った。彼らが近づいてくるにつれ、男の姿が雨の中でもくっきりと浮かぶ。そして、その胸の痛みが段々と強くなるのだ。思わず顔をしかめながら痛むその胸に手を当てていた。
なぜ、隆司がフリーだと思い込んでいたのだろう?
(私、バカだ…)
そう思ったのと同時に、理美は激しく降る雨の中、走り出していた。
もう、このまま死んでしまいたい…。なんの希望も見えない。期待なんてする方がバカだ。この男がどうにかしてくれるはずないのに…
その時、後ろから理美の手首を掴まれ、驚いて振り返る。そこには傘もささず雨に打たれた隆司こそ驚きを隠せないまま、理美の顔を見つめていた。
「理美…」
不安の色を隠せない理美の顔から、隆司は目を逸らすことができなかった。
「なんで店に…」
「…用事があって、近くまで来たから…」
沈黙が走る。うまく話せず、もどかしい。しかし、言葉が続かない。理美はパニックになりかけて、ぎゅっと目を閉じた。
「…歌を。あなたの声を聞きたいって思って。この間、あの店で歌ってるの聞いて」
無理に笑うも、目は赤く、涙が雨と一緒に頬を伝い流れ落ちる。
「来てたのか。連絡しろよ」
「…そうよね。ごめん。都合、あるものね」
理美はさっきの光景を思い出し、口をつぐんだ。
「そうじゃなくて…!」
隆司は理美の背中に右腕を回し、自分の胸に引き寄せたのだ。
「な、なんで…」
「なんでって…。なんかあったら連絡しろって言ったのは俺だからな」
「追いかけてくれるほどの価値なんて、私にはないよ…」
嗚咽を漏らしながら彼女は激しく首を横に振った。しかし、それを制止するように隆司は強く抱きしめる。
「そんなことないだろ」
そう言いながらぐっしょりと濡れた理美の髪にあのゴツゴツした大きな手のひらで触れると、理美はそれを拒否するように隆司から離れようと、両腕で彼の体を押した。
「…ごめん。都合も考えないで押しかけたりして。もう行っていいよ。彼女、待たせてるんでしょ?」
わざと明るい声を出して、無理をして笑った。その顔が痛々しく、隆司の顔がさらに曇っていく。
「違う。アイツはそんなんじゃないよ」
「もう、助けを求めたりしないから。もう、大丈夫。ホントごめんね。音楽、頑張って」
小さく手を振ってから理美はまた前を向いて歩き出す。しかし、隆司はそれを許さなかった。再び彼女の手首を捕まえると、今度は離さなかった。
「雨宿りしよ」
彼はそう言うと、理美と手を引きながら路地へと入っていったのだ。もはや理美は何も言わず、ただ隆司に手を引かれながら歩いていた。
暖かいお湯に浸かりながら、理美は今の状況を考えていた。オレンジ色のランプの光が広がる広い風呂場でひとり、昇っていく湯気に包まれながら、雨で冷たくなった体を温めているのだが…
隆司に連れられて入ったのは、何件か並んでいたうちの適当に選んだホテルだった。部屋に入ってすぐ、彼は風呂場に向かい、脱衣所からタオルを持ってくると、それを理美に渡して、また戻っていった。その様子を黙って見ていると、どうも彼はバスタブにお湯を溜めているようだった。
「お湯、入ったら風呂入れよ。風邪ひくから」
部屋に戻ってきた彼は、そう言いながら着ていたシャツを脱いで、上半身裸になった。程よく締まった体に、理美は思わずドキッとする。
「俺は上だけ濡れちまっただけだから。干しとけばそのうち乾くだろ。お前はもう全部だから、乾くまで時間かかりそうだな」
隆司はクローゼットからハンガーを取り出し、濡れた服をかけた。
「脱衣所にバスローブがあったから、上がったらそれを着たらいい」
彼はそれだけ言うと、大きなベッドの前に置かれたソファに腰を下ろした。そして、ラックにある雑誌を手に取り、それを読み始めたのだ。理美は脱衣所に向かい、びっしょりと濡れた服を脱いだ。絞れば水が滴るほど水分を含んでしまったTシャツ。雑巾のようにぎゅっと絞り、パンパンと広げながら、なぜあんなふうに救ってくれるのか、考えていた。
あの時もそうだった。高校時代、理美がフラれた直後、歌を歌ってくれた。あの人はそういう人だった…。きっと放っておけなくて、手を差し伸べてくれる。
脱衣所からガラス戸を引いて風呂場に入ると、バスタブには溢れんばかりのお湯が溜まっていた。そこに足先から静かに入るが、お湯は勢いよく流れ出ていった。芯まで冷えた手足が、じわじわと温まっていくのを感じながら、理美は目を閉じた。あんなに縋りたいと思っていたのに、ブレーキがかかる。理美自身、自分が火遊びなんてできないことくらいわかっていた。
頭からシャワーを浴びて全身が温まったところで、浴室から上がった理美は、白いパイル地のバスローブに袖を通して、隆司の待つメインルームへ戻った。
「あったまった?」
雑誌から視線を離し、ほんのりと優しい笑みを浮かべた彼がそう尋ねると、理美は突っ立ったままそっとうなずいた。
「よかった。まぁ、座れよ」
理美は隆司から少し距離を取るようにして、ベッドの端に腰を下ろす。
「この間と別人みたい」
隆司は悪戯に笑いながら座っていたソファから腰を上げ、理美の隣に腰を下ろした。
「そんなに怯えるほど、俺のこと怖い?」
自虐的に笑いながら彼がそう尋ねると、理美は首を横に振った。
「…違う」
「そう? じゃぁ、またキスしてもいい?」
彼はそう言って、理美の頬を指先でなぞるように触れた。思わず背筋がビクッとなり、覗き込んでくる隆司の顔を見た。警戒していたはずなのに、その目を見た途端、理美の肩の力が抜けた。
哀れみでもなく、同情でもなく、柔らかく揺れる優しい目。
「じゃぁ、何があったか話してみろよ」
隆司は、心の中で絡まってしまった感情をほどいていくような優しい目をして彼女に問いかけたのだ。こんな迷惑をかけて、”話さない”の選択肢はさすがにないだろう。理美は目を伏せ、言葉を探した。感情だけが前のめりになりそうなのを必死に抑えながら、降りかかった不幸の始まりを話し始めたのだ。
深刻に話せば話すほど、心にできた傷が広がりそうで怖かった。しかし、それは隆司が受け止めてくれることを信じるしかない。理美は自嘲気味に語っていくが、事情を理解していくにつれて、隆司の顔がどんどん険しくなっていった。
「嘘だろ…?」
話を聞き終わって、隆司が最初に口にしたのは、その一言だった。理美は首を横に振る。そして、俯いた。
すると、彼は言葉よりも先に理美の体を引き寄せ、抱きしめていた。
そのまま二人はベッドの上に倒れこむ。驚き、理美の胸の鼓動が隆司に聞こえてしまうのではないかというくらい叩きつけている。しかし、そんなことも構わず、隆司は理美をそのまま抱きしめていた。震えている理美を、優しく、包み込むように。壊れものを扱うように丁寧に。自分の感情を押し付け過ぎることのないように…
隆司の肩に自分の額を預け、思わず目を閉じていた。彼は理美を抱きしめながら時折、彼女の髪を撫でる。それはとても温かく、特別な言葉はいらなかった。隆司の胸元に額をつけ、トクトクと聞こえてくる彼の心臓の音に耳を傾けていると、最初こそ驚いていた理美ではあったが、包み込まれるその人肌の優しさに、安心して溶けそうになっていた。
今だけ、この温かさをひとり占めしていいだろうか。甘えてもいいだろうか。いつか立ち直れる日がくるまで、頼っていいのだろうか。
死んでしまいたいと思うまで追い詰められてしまった彼女が今、この温かさを手放すことができるのか。ただ黙って抱きしめてくれるこの人が、このままずっとそばにいてくれるのだろうか。つい、そんなことを考えてしまう。期待してしまう。しかし、今の彼女に隆司の肌の温度を拒絶することができなかった。気まぐれでここに一緒にいてくれるだけで、たとえいつか自分の元から去ってしまうとしても…
「う…。まだちょっと冷たい」
苦笑いを浮かべながら、まだ少し湿っている服に袖を通す理美がそう口にすると、隆司も同じように苦笑いを浮かべた。
「風邪ひくなよ」
「…うん」
忘れ物がないか確認し、二人は部屋の外に出た。すると、隆司はすぐさま理美の手を握った。あの、ギターの弦で硬くなった指先が、しっかりと彼女の指に絡まっている。理美はちらりと隆司の顔を見た。その横顔は、昔に何度も見たあの時の横顔と輪郭が重なっていた。何気なく優しさを発揮するのは、あの時と変わらない。知っているから、心が苦しくなる…
建物から出ると、外はすっかりと夕方になっていた。どんよりとした空模様だったのが、少しだけ晴れ間が出て、雲間からオレンジ色の空が覗いていた。久しぶりに見た夕焼けに、理美は繋いだ手をぎゅっと握り返していた。
晴れた空を見られた…。
理美にとって、それだけで感動していた。もう、見られないと思っていた美しい空が、頭上に広がっている。それだけで、希望が見える気がしたのだ。
「…そういえば先輩。お店は大丈夫なの?」
理美が隣で一緒に空を眺めている隆司に恐る恐る尋ねると、彼は決まり悪そうに顔をしかめた。
「まぁ、お前が風呂入ってる間に連絡しておいたから、大丈夫。…のはず」
「え、ホントに?」
彼の反応に、半ば信じられず理美は思わず聞き返した。
「ま、今から顔は出すけど。今日はライブないし、ホールだけだから、忙しいのはマスターだけだし」
ニヤッと笑いながら理美の顔を見ると、彼はそのままキスした。
「…!」
急なキスで、理美は隆司の顔を見ることができなかった。
不意打ちは、ない…
まるでピュアな高校生のような反応に、隆司はますます面白がっていた。そして彼は理美の手を引きながら歩き出したのだった。
「なぁ、理美」
大通りまで出たところで、隆司は理美の名を呼んだ。さっきまでふざけていたのに、その声は少しだけ感情がこもっているような、軽いものではなかった。理美も自然に真っすぐな目で彼の顔を見つめた。
「本当にどうしよもなくなったら、何も考えずに連絡しろよ。今日のは本当に見てられなかった」
そこにあったのは、真剣に心配する彼の新たな顔だ。心がぐっと動くのを感じた。鈍い痛みが通り過ぎ、思わず目を逸らしてしまう。そんな理美に、彼の繋いだ手に力がこもる。
「約束してくれ」
夕暮れを背負いながらゆっくりと歩く二つ影が地面に伸びる。急ぐ人たちにどんどん追い抜かれていくが、彼らは彼らのペースで進む。周りに惑わされないように。
「…わかった。ありがと…」
うれしいようで、寂しくもなる。理美は複雑な思いで小さく返事をしていた。