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二 交わらない想い

 気付いたら理美の指は、隆司に電話をかけていた。バッグに押し込んだまま、グチャグチャになったショップカードを広げ、手書きで書かれた番号を押していたのだ。数回の呼び出し音の後、彼は電話に出た。しかし、電話の向こうから聞こえる雑音が酷く、理美は自分の用件だけを簡潔に話して、電話を切ったのだ。すると、ショートメールが届いた。


(駅の喫茶店で待ってろ、か…)

 彼女は駅前の喫茶店に入り、アイスコーヒーを口にする頃には冷静さを取り戻していた。テラス席に座り、ジメっとした空気にさらされながら、時折吹く風にあたりながら遠目に行きかう人の流れを眺めていた。


 家でのあの様子だと、美香は知らないはずだ。圭介に同棲している彼女がいたことを。それが理美だったということも。それはおそらく圭介もだ。理美の妹と知っていたら、軽い火遊びだとしても相手に選ばないはずだ。


(どこまで落ちれば救われるんだろう…)

 電話をかけてから三〇分ほど経った時だ。そんなことを考えながら頬杖を突き、大きなため息をついたその時、呼び出された男が店に到着したのだ。


「こら」

 コツっと頭を叩かれ、理美は振り向いた。すると、目の前に少し息を弾ませながら来てくれた隆司が立っていた。

「お、三〇分で来た」

 ニコッと笑いながら、その姿を見つめていた。隆司は探るように理美の顔を見ると、苦笑いを浮かべたのだ。

「お前さ、人の都合も考えろよ。抜けてくるの、大変だったんだぜ?」


 そう口にしながら、手を挙げてウエイターを呼ぶ。そして、理美と同じアイスコーヒーを注文した。

「後腐れない男と遊びたくなったのよ」

「あれ、この間会ったとき嫌がってたよな」

 クククと含み笑いをした隆司も、まんざらでもない様子だ。

「やっぱなんかあったんだろ。俺は、お前の嫌なことを食べる虫じゃねぇよ?」

「あれ? なんかあったら連絡して来いよって言ってた気がするけど、もしかして今日は都合悪かった?」

 おどけながら、理美は隆司の頬に手を伸ばした。


「んにゃ、都合は悪くない」

 不敵に笑いながら答える隆司に、理美は満足していた。そうでなくては、心が救われない。理美がそう考えていた時、ウエイターが注文したアイスコーヒーをテーブルに運んできた。

「俺んち、来る?」

 ストローを咥えたまま、彼がそう口にすると、理美は何の躊躇いもなく、うなずいた。


 昔に戻る。…悪くない。

 高校時代の続き。うん。悪くない。

 これ以上、どこに堕ちるの?

「…忘れさせてほしいの」

 理美はじっと隆司の茶色い瞳を捉えながら、ため息交じりに呟いたのだ。


「オーケー」

 アイスコーヒーはまだグラスに残っていたが、彼はグラスをテーブルに置くと、理美の手を取って立ち上がった。そして、理美をエスコートするように腰へ手をまわし、二人は店を後にしたのだ。




 着いたところは、今まで見たことのないほどにボロいアパートだった。

「俺の城」

 ニヤッと笑いながら、隆司は理美の反応を楽しんでいた。駅から離れたその場所は、人通りも少ない住宅地の外れにあった。その木造の二階建てのアパートに設置されている階段は錆びだらけの金属製で、隆司が体重をかけて上るたびにギシギシと軋む。


「俺、部屋二階だから」

 隆司は、呆けている理美に手招きする。理美は、黙ってその階段を昇った。

「お邪魔しまーす…」

 無駄に分厚い金属のドアの向こうに恐る恐る足を踏み入れる。なぜか小声になる理美に、隆司は爆笑した。


「はいはい、どーぞ。何もねぇ部屋ですけどね」

 思いっきり笑う隆司の姿を見た理美も、それにつられて笑っていた。そこは、八畳ほどのワンルームだったが、隆司の言う通り、部屋の真ん中に黒いカウンチがあるだけで、本当にものが少ないガランとした部屋だった。その我が物顔で置かれているカウンチに理美は腰を下ろすと、落ち着かない様子でキョロキョロしていた。


(あ…、ギターケース…)

 なんとなく見覚えのある黒いギターケースが窓際に立てかけてあるのに気付くと、途端に懐かしさが蘇ってくる。あの頃は嫌な思いもしたけど、今なら同じことが起こっても軽く流せるくらいの経験を積んだ。本気じゃない。だから、あの時のように傷つくことはない。今なら、落ちるところまで落ちたって大した傷ならない。今だけ、誰でもいいから傷口を舐めてくれるだけでいい…


 隆司が理美の隣に腰を下ろした。小さめの二人掛けのカウンチは、二人が座ったらいっぱいだ。太もも同士が軽く触れる。間近に迫る隆司の肩に理美は寄りかかった。

(温かい…)

 胸の鼓動が隆司に聞こえないように、理美は彼の体温を感じていた。すると、彼はそっと理美の肩を抱いた。


「本当にいいの?」

 耳元でそう囁く隆司。理美が「いいよ…」と、小さな声で答えると、隆司の大きな手が彼女の頬に触れた。ギターの弦で指の皮が硬くなりゴツゴツとしたその感触は、今も昔も変わらない。昔もそうやって優しく頬に触れていたことを体が思い出すと、体温がぐっと上がる。そして二人の吐息が優しくぶつかり合った時、理美は自然に目を閉じていた。


「……」

 ?

「…やっぱ、やーめた」

 隆司が意地悪い声色でそう言うと、彼はカウンチから降り、理美の向かいに胡坐をかいた。


「…え」

 彼の行動に呆気にとられ、気の抜けた声が漏れだした。

「なんかあったんだろ? 話、聞いてやるよ?」

 さっきとは違う、今度は優しい笑顔を浮かべている隆司を目の前にし、理美は目を伏せ、小さくため息を吐いた。

「なーんで先輩と出会っちゃったんだろな…」


 体の力が抜け、二人掛けのカウンチにゆったりと座り直した理美は、ぽつりとそう口にした。

「出会ったって、この間のこと?」

「違う。高校の時よ。…あの時、二股かけてたよね」

 恨めしそうに理美が追及すると、隆司は居心地悪そうに苦笑した。


「あぁ、そんなこともあったなぁ。若かったなぁ。俺…」

 わざと遠い目をして、理美の視線からわざと目を逸らしていた。


 もしあの時、体育館裏に行かなかったら、理美はどうなっていただろうか。遅かれ早かれ一目惚れ野郎にはフラれていただろうが、隆司のギターの音を聞くこともなかっただろうし、こうして何年も経った後に再会することもなかっただろう。いつも辛いときに現れて、落ち着くといつの間にかいなくなる。きっと今回もこうして優しくしてくれても、気付いた時にはまたフラっとどこかに行ってしまうのだろうと思うと、理美としてはやはり複雑だった。この男に本気で惚れてはいけない。頭の片隅で警告音が鳴り響いている。


 あれからいろんな男と付き合ったが、多分、この男はいつまでも理美の中で特別な人なのだろうと考えていた。まぁ、裏切られたわけだから、信用している訳ではないが…


「…私はさ、ただ幸せになりたかっただけなの。だけどそれを望むと、その幸せはすり抜けていっちゃうのよ…」

 勝手に勘違いしていたのだろうか。

 圭介なら…、私を幸せにしてくれる。

 知らず知らずに押し付けていたのか。プレッシャーを与えてたのか。


 他の女に手を出したくなるほどに、自分がつまらない人間だった、ということなのか。


 いずれにしても、最後の恋だと思っていたのは理美だけで、圭介はそうではなかった、ということだ。そう結論付けることで、理美は自分自身を守るしかなかった。こんな話、隆司にできるはずがない。話したところで、この男は救ってくれないだろう。こんな物のないボロい部屋で生活しているいい年をした男が、理美の幸せを叶えてくれるわけがないのだ。


「理美、なんか飲むか」

「うん」

 隆司は立ち上がり、玄関のほうへと向かった。小さなキッチンに設置されている古い戸棚から小ぶりのやかんを取り出して勢いよく水を注ぐと、一口コンロに乗せて火をつけた。理美はその様子を振り返らずに、音で感じていた。穏やかな昼下がり。さっきまで自暴自棄になっていたのに、こんなにも心が落ち着いている。こんな時間、いつまでも続くわけではないとわかっているのに、いつまでも続けばいいのにと願ってしまう。現実に戻りたくない。


 はぁ…、というため息が漏れそうになると、それを慌てて飲み込んだ。隆司がこちらに戻ってくることに気付いたからだ。カップを二つ持って、彼は理美の前に置いた。


「ありがと」

 テーブルさえもない部屋。直接床に置かれたカップに手を伸ばし、口のそばに運ぶ。すると、ゆらりと上っていく湯気と一緒にふんわりと甘い香りが鼻をくすぐった。香りを楽しんだ後、カップに口をつけゆっくりと口に含む。


「…おいしい」

 家で飲むコーヒーに、こんなに美味しさを実感した経験をしたことがなかった理美は、素直に感動していた。すると、その反応に隆司はニヤッと白い歯を見せて笑う。


「コーヒーにはちょっと拘ってるんだよね、俺」

 得意げにそう口にしながら、彼も自分で入れたコーヒーを楽しみ始めたのだ。そこいら中に漂う深く甘い香りに包まれ、彼らは今、言葉など必要なかった。ただ二人でコーヒーを飲んでいるだけなのに、涙が出そうなほど優しい気持ちになれるなんて、思いもしなかったからだ。


 傷心してるから?

 感傷に浸ってるだけ?

 目の前の人が、すごく大きくて、優しく見える。

(忘れたい。今だけでいいから、あなたの温もりを私だけのものにさせてよ…)

 理美はカップの中の琥珀色をじっと見つめていた。


「理美」

 ふいに名前を呼ばれ、理美の握られたカップのコーヒーが揺れる。彼女はその声のほうへ視線を向けると、すでに彼の掌が目の前に迫っていた。少しだけ驚いて一瞬目を大きくしたが、その手のひらは彼女の右の頬に優しく触れたと思ったら、隆司はそのまま自分のほうへそっと引き寄せたのだ。その瞬間、二人の唇は重なっていた。理美はしばらく目を開けたまま固まっていたが、無意識にカップを床に置いて彼のキスを受け入れていた。あんなに望んでいたのに、何も考えられない。ただ頭の中が真っ白になるだけで、理美には二人の吐息さえも、もはや聞こえなかった。




 隆司の部屋を出る頃には、もう外はすっかり暗くなっていた。夜も九時を回ればさすがにもう帰っただろうと思いながら理美は玄関のドアをそっと開けた。客間を覗くと、すっかり片付けられており、圭介がこの家にいないことを確認する。安心して靴を脱ぎ、リビングに入った。そしてキッチンで洗い物をしている小百合の背中に「ただいま」と声をかける。すると水を止め、顔だけこちらに振り返った母の顔は、満面の笑みだったのだ。


「お帰り。ご飯は?」

「大丈夫。食べてきたから」

「そう」

 小百合は再び前を向き、泡まみれになった食器を水で洗い流していた。そして、嬉しそうに話し出したのだ。


「小林さん、いい人ね。優しそうでしっかりしてて、そしてとっても誠実そう。あんな大人の人が美香のどこを気に入ったのか聞いたらね。自分をしっかり持ってて、真っすぐなところが素敵だって! 聞いてるこっちが恥ずかしい!」


 誠実? まさか。誠実だったら、あんなことしないでしょ。

 ご機嫌で笑う母を尻目に、理美は自分でもわかるくらい気分はどんどんと落ち込んで行く。

「どんな人を連れてくるんだろうと思ってたけど、美香にしては上出来」

 それを聞き、小百合が向こうを向いていてくれてよかった、と理美は思った。


「お父さんは?」

「書斎じゃないかしら」

 そう答える小百合に「よかったね」とだけ言って、理美は踵を返し父の書斎へと向かった。


 部屋のドアをノックすると、「どうぞ」という返事が中から聞こえてきた。理美は少しだけ開けたドアの隙間から顔を出し、「ただいま」とだけ口にした。


 デスクに向かっていた拓海は理美の方に顔を向け、「おかえり」といつもの優しい声で彼女を中に招き入れた。そのやり取りが心地よく、理美は少しだけ笑った。


「お母さん、すっかり気に入ってるみたいね」

 彼女は、書斎にあるソファに腰を下ろしながら口を開いた。

「そうだね。確かに好青年だった。…なんだけど」

 と拓海は言い淀んだのだ。

「緊張してたのかな…、やっぱり」

「…どうかしたの?」

 歯切れの悪い父に対し、理美は心臓が跳ねた。父は何を感じ取ったのか。


「デパート勤めの割には、プレッシャーに弱そうな」

「え?」

 なぜ拓海がそんな印象を抱いたのか。

「体の線もだいぶ細くて、病気でもしてるのかな」

 独り言のように呟く父の姿を理美は黙って見つめていた。別れた男を庇うわけではないが、理美と付き合っていた時の圭介の印象と重ならないのが、少しだけ違和感として残った。しかし、それはきっと圭介が失敗したせいだ、と理美は処理した。


「…やっぱり緊張していたのかな」

「そうかもね」

 拓海は小百合と違ってまだ圭介の人となりを信用していないようで、多くは語らなかった。


「今日が初めてなわけだし。でも第一印象は大事だよね」

 なんて、最もなことを口にして、理美は父に賛同した。

 それでも、彼はよくできた人だとは思う、と理美もわかっている。彼の人柄を誰よりも知っているからだ。物腰柔らかで人当たりがよい。そして穏やかな物言い。有名な百貨店に勤めており、将来有望株だ。しかしそんな男でも、許されることのない失敗をした。


 つい余計なことを言葉にしてしまいそうになり、慌てて口をつぐむ。そして、「おやすみ」とだけ告げて書斎を後にした。


 重たい足取りで階段を上がり、自室に入るなり、理美はバッグを放り投げてベッドに腰かけた。そして、なんとなく自分の唇に触れる。すると、大人になった隆司の顔が何度も頭を過ぎり、さっきの出来事がフラッシュバックする。


 キスしちゃった…

 再び体が思い出し、熱くなる。息継ぎで顔を離して目を見つめたら、また狂ったように唇を欲しがって、腫れてしまうのではないかというくらい深い口づけを何度も交わしていた。唇から彼の熱が伝わり、気付いたら離せなくなっていた。本気とも本気でないとも取れる隆司のその行動に、理美には今、堰を切ったように虚しさが押し寄せてくる。どうにかなってしまいそうだった。


 圭介は本当にこのまま理美とのことを黙ったまま美香と結婚するのだろうか。偶然とはいえ、現実を知ってどういう心境なのだろうか。このまま義弟になり、これからも理美の人生に関わってくるつもりなのだろうか。もしそんなことになっては、耐えられない…


(ここにはもういられない。やっぱり新しい部屋を探して、新しい生活を始めないと…)

 そのまま後ろに倒れて、天井を見上げた。ぼんやりと霞む天井を眺めていると、やはり出るのはため息をだけだった。今日だけでもうどれくらいのため息を吐いただろうか、なんて考えながらそっと目を閉じた。


 翌朝、化粧も落とさず寝てしまったことを後悔しながら、理美は慌ただしく仕事へ行く準備をしていた。洗面所で洗顔して、タオルで顔を拭いていると、美香が鏡に映りこんできた。


「お姉ちゃん、おはよう」

「おはよう。…お母さん、すごい気に入ってもらえたみたいね」

 鏡越しにそう言うと、美香ははにかみながら笑って、うなずいた。


「これから忙しくなるんだから、体気を付けなさいね」

 精一杯の笑顔を浮かべ、理美は”姉の仕事”を全うする。そして洗面所を後にした。

「お姉ちゃん、ありがとう」

 化粧と着替えで二階へ上がろうとする理美の背中に、美香がそう口にしたが理美は振り返えらず、遠ざかっていった。




 その日の仕事帰り、理美は賃貸情報誌を持ったまま、ある場所に向かっていた。

 STEADYステディ。再会した日にもらったショップカードに書かれていたのが、この店だった。


(お店は地下なのか…)

 入り口に続くのであろう階段を降り、重いドアを押し開けると、大音量のデジタルオンが店中に鳴り響いていた。


(電話の騒音は、これか…)

 昨日、隆司を呼び出した時、電話の向こうは騒音が酷かったことを記憶している。カウンターが空いていることがわかると、理美は端の席に座り、注文を取りに来たバーテンダーにビールを注文した。


 照明を適度に落とした店内を見渡すと、小さいステージでは一人の男がギター片手に歌っていた。そのスポットライトを浴びたボーカルは

(先輩…)

 耳を掠めたのは、忘れかけていた、かつて大好きだったあの歌声だった。


(まだ、歌ってたんだ…)

 昨日訪れた部屋に、ギターケースがあった。部屋には必要最低限なものしかなく、ずいぶんシンプルな暮らしをしていると思ったら、好きなことをしているのか…、と理美は少し納得していた。


 いつの間にか目の前に置かれていたビールグラスを一口流し込む。この時だけは、至福を感じることができた。思わず「おいし…」と口に出していた。


「お姉さん、ひとり?」

 カウンター越しに、ひとりの男が理美に声をかけたのだ。さっき注文を取ったバーテンダーだ。

「えぇ」

 言葉少なにそう答えるも、意識はステージのほうだった。

「お姉さんも、彼のファン?」

 ニコッと嬉しそうにそう尋ねるバーテンダーに、理美は「あの人、インディーズ?」と聞き返した。すると、バーテンダーは隆司の歌っている様子を眺めながら、「そう。Sunny day blue。一人なんだけど」と答えたのだ。


(昔のまんま…)

 ステージに背中を向けたまま、残りのビールを一気に飲み干した。

「いい飲みっぷりだね」

 バーテンダーの男はそう言って空いたグラスを下げ、「サービス」と言いながら、新しいビールを出したのだ。


「いいんですか?」

「もちろん。俺、この店のマスターだから。よろしくね」

 マスターと名乗るその男から、ショップカードを受け取ると、それは隆司からもらったカードと同じものだった。


「ずいぶん人気みたい」

「そうだね、メジャーデビューも決まってたんだけどさ。ちょっと訳あって保留中なんだよね」

「訳?」

 理美が聞き返すと、マスターは深くうなずく。

「彼のちょっとしたわがままなんだけど。うまいでしょ、彼」

「えぇ」

 嬉しそうに語るマスターの顔を見てから、理美は頬杖をついて聞こえてくる彼の声に耳を傾けた。


 Sunny day blueのRyu…

 先輩のもう一つのカオ…

 懐かしいようで、新しい。

 理美の知らない隆司が、そこにいた。


 やがて、曲がバラードに変わった。彼の切ない声が、理美の中にゆっくりと入ってくる。彼女はそっと目を閉じて、ただその声を聞き入っていた。




「あれ。もう帰っちゃうの?」

 カバンから財布を出そうとしている理美に、マスターが残念そうに口にした。


「ごちそうさま。おいくら?」

 理美はマスターが言った金額を払い、席を立った。「また来てね」って手のひらを彼女に向けて振ると、理美も笑顔でそれに応えて店を後にしたのだった。




 地上への階段を昇り、しっとりと降った雨が彼女の髪をゆっくりと濡らしていく。少しだけムッとした空気が体中に纏わりついた。その不快感に眉を寄せながら、スマホを取り出し時間を見ると、着信がいくつか残っていたことに気づく。


(圭介だ…)

 躊躇うことなく、理美はそっとスマホをカバンにしまった。途端に気分が悪くなる。さっきまで癒されていた心が、急にざわついてきて、呼吸が荒くなっていく。それを遮るように大きく深呼吸をすると、理美は駅に向かって歩き出した。


(圭介が今更話すことって、何?)

 パニックになりかけている頭の中を必死に整理する。

(私からは、もう無理だよ…)

 どんな態度でどんな口調でどんな話をするのか。何もなかったように誠実なふりをして騙そうとするのか。父や母や妹を味方につけて、これ以上追い詰めないで…


 改札を抜けて、ホームへの階段を降りる。夜九時を回っているせいか、ホームには人がまばらだった。蒸し暑さに汗が流れ落ちてくるのもそのまま、焦燥感だけが理美を支配していた。少しでも関りを避けるためには、少しでも早く自立することだ。それが、根本的な解決にならないことくらい理解しているが、今の彼女が家族に対して、特に美香だが、何事になかったかのようなふりをするのは、到底無理だった。考えただけで、おぞましい。


 圭介は、嘘のつけない人間だと理美は思っていた。三年も一緒にいたのだ。だから、いつから理美を騙していたのか。当然の疑問だった。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。彼が、理美を選ぶことはもうないのだ。笑い話にもならないこの状況を、彼はどう乗り切るつもりなのか。


 理美は思わず首を横に振った。その答えは、もうわかっている。自分さえ何も言わなかったら、穏便に終わることを。墓まで持って行けというわけだ。非常に馬鹿げている。


 その時だった。カバンに入ったスマホが、着信している。マナーモードにするのを忘れてた…。と思いながらカバンからスマホを取り出すと、電話主はまさに圭介だったのだ。


 スマホを手にしたまま、出るかどうか迷っていると、着信は切れた。ホッとして、しっかりマナーモードにしてから再びカバンにしまおうとすると、再び着信が来たのだ、さすがに覚悟を決めて、理美は小さなため息とともにその電話に出た。


「…もしもし」

 極めて事務的な対応を心掛けた。感情を読み取られないように。

『…うん。もしもし』

 電話の向こうから聞こえるその消え入りそうなその声は、憔悴したように聞こえる。


「…何かあった?」

 それに負けないくらい、理美の心臓も口から飛び出しそうなほど、強く鼓動が打ち付けている。

『思ったより元気そうで、よかった…』

 理美に耳に届いたその言葉が、彼女の頭を真っ白にしていく。どの口で? 私が傷ついてないとでも思っているの?

「な、何を…」

 言葉が見つからなかった、というより言葉が通じないとさえ思う。この男は、一体何を言っているのか。


『あ、いや…。ごめん』

 理美の反応に、言葉を濁す圭介だったが、理美はおそらくどんな言葉でも、もういい意味で受け取ることはできないんだということを悟った。あの日から、この二人の歯車は噛み合っていないのだ。分かり合えることは、もうない。


「用事があるなら、それだけ言って」

 冷静を装うと、つい強がってしまう。しかし、もうなりふり構っていられない。

『あぁ、うん。きみの荷物のことなんだけど…』


 そこからは、何の感情も考えずにあれこれと指示を出す。圭介は、彼女の言うことを口答えせず聞いていた。理美が、日用雑貨はすべて処分し、化粧品と服と小物だけ次の週末までに箱に詰めておくよう伝えると、彼は小さく返事をした。


「それじゃ…」

 彼女が電話を切ろうとすると、『待って!』と慌てた声で圭介は遮ったのだ。

「まだ何かあるの?」

 うんざりしながら理美が聞き返すと、電話の向こうにいる男は黙ってしまった。


『…僕は知らなかったんだ。まさか美香がきみの妹だったなんて…』

「そう、でしょうね…。それは美香を見ててわかる」

『まさか、こんなことになるとは…。こんなはずでは…』

 電話口で弱々しく語るその言い訳に、理美は怒りすら湧いてこなかった。それは、もはや今言う言葉ではない。かつて言葉にしなくても通じ合える仲だった。しかし今はもう、交わることすらない。ただの平行線に過ぎないのだ。


「…もう切るわよ」

 ため息交じりそうに伝えると、有無を言わさず通話を終了させた。


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