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一 再会

 見慣れた風景、使い慣れた駅。久しぶりに戻ってきた街であったが、これほどまでに実家までの道のりが長く感じたことなどなかった。足取りはとても重く、視線は定まらない。ふらふらと歩きながら、理美はボストンバッグをひとつ手に提げ、実家を目指していた。


 なぜ、こんなことになったのか。私が悪かったのだろうか。そんなことばかりが頭の中をめぐり、事実を受け止められるまで、時間がかかりそうだった。もう一緒にいることはできないと考えた彼女が、一緒に住んでいた部屋を出て実家に戻ることにしたのだが、結婚まで考えていた人とあんな理由で別れることになったなんて、とても両親に報告できない。


『別の女を妊娠させてしまって、その責任を取って結婚するから、別れてくれ』


 昨日の夜のことだった。これは、もうすぐ同棲してから三年が経とうとしていた男女の話だ。確かにマンネリ化していたかもしれない。新鮮味もなく暮らしていたら、刺激が欲しくなるのかもしれない。


 それでも、理美が作る料理を嬉しそうに食べてくれる彼の幸せそうな顔が、彼女の頭から離れなかった。何かの間違えではないか、何度もそう尋ねたが、答えが覆ることはなかったのだ。


 自分だけ、それなりに幸せだった。しかし、望んだところでもうそんな日々は戻ってこない。自分が知っている彼はもういのだ。


 今日も自宅に戻るというのに、彼は朝から部屋を空けていた。正確に言うと、仕事から帰って来た金曜日の夜に別れ話をした後、出て行ったまま帰ってこなかったのだ。一人で眠るには広すぎるベッド。そこで理美は寂しく眠りにつこうとした。しかし眠ろうにも眠れるはずがなく、彼の匂いがするベッドの中で長い長い夜を過ごすことになってしまった。その匂いに縋っても、何も変わらない。虚しさだけが彼女を襲っていた。


 駅からほんの十分くらいの道のりを、その倍の時間をかけて自宅に着くと、そっと鍵穴に鍵を差し込んで回した。

「ただいま…」

 そうつぶやいたが、誰も返事をしない。

「お母さん、いないの…?」

 玄関先で中の気配を伺ってもなんの反応がないとわかると、小さくため息を吐いた。そして、ボストンバッグを玄関に置いて、靴を脱いだ。


「あ、お姉ちゃん…?」

 二階の踊り場から、気怠そうな声が聞こえてきた。声のするほうへ顔を上げると、階段を下りてきたのは妹の美香だった。

「美香、いたんだ」

「うん、今起きたところ…」

 あくびをしながら数段階段を降りたあと、途中で階段に腰を下ろした。

「お母さんは?」

「いないの? じゃぁ、お父さんと買い物じゃないかな…」

 そう言いながら、またゆっくりと立ちあがり、美香は一階まで下りてきて、そのままキッチンへと向かった。


「蒸し暑いね。お姉ちゃんも麦茶飲む?」

 空はどんよりとしていて、リビングの大きな窓ガラスに写る。雨が降ったり止んだりとはっきりしない天気であったが、美香に言われるまで理美は気付いていなかった。美香は、戸棚からガラスのコップを取り出して、ダイニングテーブルに置いた。そして冷蔵庫から麦茶のポットを取り出し、ガラスのコップに勢いよく注ぐ。氷のカランカランとした涼しげな音が理美の耳に掠め、一気に現実に戻された気がしたのだ。


「はい」

 麦茶のグラスを渡された時、美香の顔色が青白く、表情もすっきりとしない様子であることに気付く。ただ蒸し暑いだけではなそうだ、と理美は感じた。

「ずいぶん体調が悪そうね、美香。大丈夫?」

 グラスに口をつけながら美香にそう言うと、彼女は苦笑いを浮かべただけで、何も言わなかった。きっといつもなら、その曖昧な表情で妹の変化に気付くところだろうが、今日だけは自分のことで精いっぱいだったせいか、それ以上深入りできなかった。


「…ご馳走様」

 理美はグラスをダイニングテーブルに置いて、リビングを出た。そして、玄関に置きっぱなしのボストンバッグを持って自分の部屋へと階段を上った。


 部屋で荷物の整理をしていると、後から二階に上がってきた美香が、ノックしたドアの隙間から顔を出した。

「お姉ちゃん…」

 さっきとは打って変わって、眉間にしわを寄せて入口に突っ立っている。


「…どうしたの」

 手を止め、理美は手招きの替わりにベッドのマットをポンポンと軽く叩く。すると、美香は部屋に入ってきて、ベッドに腰を掛けた。

「相談、してもいい?」

「うん」

 相談したいという割に、言いづらそうに唇をかみしめる美香だったが、決心したのか理美の顔をじっと見つめながら、口を開いたのだ。


「妊娠してしまったみたいなの…。私…」

 美香の告白に、理美はデジャブを感じていた。どこかで聞いたことがあるワード、「妊娠」。その言葉が頭の中で波紋のように広がった。


「…え?」

 眉をひそめて、理美は聞き返した。

「今付き合ってる彼の子を妊娠してしまったみたいで。生理来なくて、おかしいなって思って検査したら、妊娠してることが分かって。それが、一週間前」

「病院に行ったの?」

 理美が尋ねると、美香はうなずいて、手に握っていたモノクロの写真を差し出したのだ。


「これ、その時のエコーの写真。妊娠三か月だって。わかりにくいけど、この袋の中に赤ちゃんがいるって言われて…」

 美香はまだ大学二年の学生だ。まだ十九なのに、妊娠したなんて…

 理美は、言葉が見つからなかった。


「まだ大学生でしょ、あんた…。産むの?」

 理美の口からやっと口にした疑問だった。不躾だったかもしれない。しかし、そんな気遣いなどできるはずがなかった。

やはり気を悪くしたのか、「もっと真剣に聞いてよ…」と言いながら、美香の目に涙が浮かんでいた。


「…ごめん。でも、なんでちゃんと避妊しなかったの? してくれない人だったの?」

 理美の問いに、美香は激しく首を横に振った。

「そんなことない。でも…」

 美香は言葉を濁し、うつむいた。理美は、小さくため息をついた。正直、珍しい話ではない。しかし事故だったとしても同情できることでもない。こんなところで、まだ学生の美香の人生の分岐点が訪れようとは、誰も思わないだろう。


 理美はつい、昨日のことを思い出していた。彼の昨日の告白よりも前から、彼女の中で疑惑はあった。よそよそしかった彼の態度。泳ぐ目。スマホをもってトイレに籠り、オンラインゲームをやっていると言い張っていた。実際、抜かりなくパスコードをかけられていた彼のスマホの中身を見ることができなかったので、確証があったわけではない。だから、理美は問い詰めることができなかった。いや、それ以前に自分の幸せがすり抜けてしまうことを目の当たりにするのが怖かったのかもしれない。もうすぐ二六になる。このまま結婚してしまいたかったのが、理美の正直なところだった。


 ところが、問い詰めることをせずとも彼女の思惑は外れることになる。彼の浮気の上に妊娠騒動…。灰色だった疑惑が黒に変わった時、もう見て見ぬふりなどできないことだけは理解した。割れてしまったガラスが元に戻らないのと同じように、もう二人の関係は修復できないと…


「美香はどうしたいの? こどもの命がかかってるのよ。無責任に作っちゃったとしても、こどもに罪はないよ?」

「わかってる… 許されるなら、産みたい。一度は堕ろしてくれって言われちゃったけど」

「えぇ?」

 理美は目を丸くして驚いたが、美香は慌てて首を振った。

「プロポーズしてくれたから、結婚することになると思うんだけど…」

 美香の様子から、問題は、まだ両親に話をしていないことか、と理美は察した。


「まだ話してないんだ? お母さん達に」

 理美がそう尋ねると、美香は観念したようにうなずいたのだ。

「お母さん、すごい怒りそうじゃない…?」

 そりゃ、そうだ。と理美はうなずいた。さすがにまだ学生なのに、結婚もしないうちに子どもができてしまったら、どこの家でも大きな問題だ。それを簡単に許す親もいないだろう。しかし、できてしまったものはどうしようもない。お腹の子どもに罪はないのだ。愛情をもって育てるしかない。娘二人を育ててきた母親なら、お腹の子どもを殺すような選択など絶対にしないはずだ。


「そうかもしれないけど、このまま黙ってことを進められないことはわかるでしょ。一緒に話をしてあげるから、今日の夜、夕飯の後に話そう。早いほうがいい」

 つくづく、姉という立場というのは損な役回りだと思っていた。こんなふうに自分にどんなことがあっても、困っている妹のことを無下にできないからだ。本当なら、誰かに自分を救ってほしいくらいなのに…。


「お姉ちゃん、ありがとう」

 美香は小さく笑いながら、自分の目に溜まった涙を拭っていた。そして、美香が部屋から出て行ったのを機に、理美はさっと出かける準備をする。今日は、これ以上誰かに頼られることが耐え難かったのだ。財布とスマホだけ小さなバッグに入れ替えて、そっと自分の部屋を出た。そして、妹に出かけることを告げずに、逃げるように外へ飛び出して行ったのだ。




 憂さ晴らし。これからの行動にぴったりの言葉で、重要な目的だ。誰にも頼れないなら、自分で自分を慰めるしかない。駅近くの繁華街まで出ると、そこから十五分くらい歩いたところに最近オープンしたショッピングモールがある。理美はそこでウインドウショッピングでもしようと向かっていた。

 

 その途中、湿気の含んだ不快な空気が彼女の肌をベタベタにする。また、いつ降り出すかわからない空模様に気を取られることもなく、怒りにも近い感情でサクサクと歩いていた。ついさっきまで、世の中で自分が一番不幸だと悲観していたというのに…。


 駅の前まで来たところで、彼女が「はぁ」、と何もかも諦めたような息を吐いたその時だった。

「あれ、理美じゃん?」

 急に正面から名前を呼ばれ、彼女の足が止まる。

「おい、こっちこっち」

 目の前にいる男が、笑顔でこちらに向かってくるのが見えた。理美は目を細めて、その男の顔を眺めていると、昔の記憶がよみがえり、ぴったりとその姿に重なったのだ。


「え、先輩…?」

 意外な人との再会に、理美は驚きを隠せなかった。

「お前、こっち帰ってきたんだな」

「あなたには関係ないでしょ」

 理美がそっけなくそう返しても、目の前の男は懐かしさから理美の感情を読み取ることはできないようだ。ただでさえ心が弱っているところに、なぜ今更この男に出会わなければいけないの…、と彼女は自分の運命を恨まずにはいられなかった。


 多岐原隆司。目の前にいる男の名前だ。擦り切れたビンテージのデニムを履いた彼は、無精ひげを生やし、クタクタになったハンティングハットをかぶっていた。あの頃も同じような帽子をかぶっていたが、正直、似合っていなかったことを不意に思い出した、しかし、今日のこの男の姿は、あの頃に比べてだいぶ様になっている。彼は、一つ年上の高校の先輩で、理美が二年の時に付き合っていた。もはや甘酸っぱい時期の思い出である。


 十七歳の夏休み前のことだ。梅雨が明けて、夏の雲が広がっている大きな空。当時付き合っていた別の彼に呼び出されて体育館裏に行くと、他に好きな人ができたから別れてほしいと土下座に近い体勢で突然切り出されたのだ。どうも、理美が思ったような性格の女の子ではなかったらしい。自分はもっとかわいい反応をする女の子が好きで、理美のことは割かし美人の分類に括られるほうだが、反応が薄い、表情が薄い、可愛げが薄い、などと理由をつけて別れを突き付けてきたのだ。


(あんたから一目惚れしたって言ってきたくせに…)

 なんて思いながらも、相手に気がないのを判っていながら、このまま付き合い続けることに意味がないと悟ると、理美は彼の申し出を了承したのだ。軽足で去って行く彼の背中を見ながらボーっとしていると、頃合いを見計らったかのようにギターの旋律が聞こえてきたのだ。驚いてあたりを見渡すと、エアコンの室外機の陰に座っていた隆司が、ギターを弾いていたのだ。


「聞いてたの…? サイッテー…」

「好きで聞いてたわけじゃねぇよ! お前らが来る前から俺はここにいたんだから」

 決まり悪そうにそう答えた隆司は、不満そうにギターを構えていた。上履きの色を見て、理美は先輩だと理解する。

(あ、この人…)

 去年の学園祭のライブで歌っていた軽音部の先輩だと気付いたのだ。


「フラれたところ見られて、超恥ずかしいんですけど…」

 大きくため息を吐きながら、理美も体育館の壁を背にしてその場にしゃがみ込んだ。室外機を隔て、体育館の壁際に並んだ二人の間にはしんとした空気しかなかったが、先輩である彼は構わずその空気の中、ギターを弾きながら軽く歌を口ずさんだのだ。少し驚いた理美だったが、彼女はそのまま、その歌に耳を傾けていた。本当は悲しいのに、その歌で心がすっと軽くなっていく。その空気感が心地よくて、隆司が彼女の心の隙に入り込んできたのだ。妙にくすぐったく、でも安心できる。理美がそんなことを思っていることを知ってか知らずか、彼らは待ち合わせたかのようにこの場所で会っていた。


「練習、いいの?」

 もう室外機を隔てることなく、すぐ隣同士で座る二人。相変わらずギター片手にやってくる隆司に、理美は当然の疑問をぶつけてみた。


「去年のバンド、解散しちゃったから。今年はソロよ、ソロ。だから、練習はどこでもできるし」

 ふーん…、なんて相槌を打ち、理美は彼に寄り掛かった。肩が触れる。シャツ越しに彼の体温を感じ、ドキッとする。しかし、離れたくなかった。じんわりと汗をかいてしまっても、そのままでいたかったのだ。


 そのまま夏休みに突入するが、隆司が三年だったにもかかわらず、恋人のような間柄に発展していた。誰もいない彼の部屋。ちょっと音大きめに洋楽をかけたりして、そこに特別な言葉など必要なかった。取り繕うこともなく、ごく自然に二人だけの密な時間を過ごしたりした。単純に、理美は隆司を好きで好きで仕方がなかった。素直にそれを認められるくらい自分を預けることができたからだ。


 ところが、そんな甘い時間も長くは続かなった。秋が深まるある日のこと。彼が三年の女子と体育館裏でキスしているところを見てしまったのだ。どうも、二股をかけられていたようだった。その後、理美の記憶は定かではなかった。音もなく崩れていった感情に蓋をし、二度と体育館裏に足を向けることもなく、彼の卒業を待ったのだ。学校から姿を見なくなってから、やっと心が落ち着いた理美にとって、隆司はそんな意味で爪痕を残していった存在だった。


 昔を思い出し、次第に隆司を見る理美の目が険しくなっていく。しかし、そんなことを気にする様子もない彼は、笑いながら理美の横に並び肩を組んだ。


「ちょっ、なんなの」

 相変わらずチャラい態度で絡んでくる隆司に、理美は心底嫌な顔を向けた。

「どっか行くの?」

「か・い・も・の!」

 理美は吠えながら隆司の腕を振りほどいた。

「どうせ、男と別れたんだろ」

「悪かったわね」

「なら、後腐れない男と遊んだ方が、気が晴れるぞ。」

 

 あの時と変わらない笑顔で、隆司はそう口にした。言っていることは最低なのに、理美はその笑顔を直視できず、目を伏せた。トラウマを植え付けられたと思っていたのに、その笑顔が大好きだった時に何度も見たあの時と重なり、不覚にも眩しかったのだ。


「…なんかあったら連絡してこいよ。」

 隆司は持っていたバッグから一枚のカードとペンを出し、そのカードに自分の携帯電話の番号を書いて、理美に渡した。

「え…」

 半ば押し付けられるように渡されると、「わりい。ちょっと急いでたんだわ」と言いながら、隆司は手のひらを振りながらその場を去ったのだった。理美はしばらく呆然としてその場に立ち尽くしていたが、我に返った。そして、受け取ったカードをクシャっと握ると、カバンに放り込んで再び歩き出したのだ。しかし強がっていた彼女に反して、突然の再会に心臓の鼓動は暴れ回っていた。


 化粧品をいくつか買っただけで、それ以上買い物に身が入らず、一時間ほどで切り上げ、理美は帰宅した。


 玄関で靴を脱いでいると、リビングのほうから話し声が聞こえてくるのに気付く。そっと家に上がると、理美はそっとリビングの入り口から、中の様子をうかがった。美香と両親がソファに向かい合って座っていた。


「ただいま」

 理美が声をかけると、皆が全員、理美の声のほうへ顔を向けた。特に、美香は今に泣きそうな顔をしてこちらを見ていた。

「理美は知ってたの?」

 おかえり、の返事もなしに、母の小百合が声を荒げたのだった。

「いや、さっき聞いたのよ。昼間、帰ってきた時に。お母さんとお父さん、出かけてたでしょ」

 理美は美香の隣に腰を下ろした。すると、美香が彼女の手をぎゅっと握ってくる。理美はそんな美香の手に反対側の手を重ねた。


「どういう付き合い方をしてるのよ、まったく。あんた、まだ学生なのよ?」

「わかってる。わかってるよ!」

「わかってたら、こんなことにならないでしょ!」

 小百合と美香が言い合いになるのを、険しい顔をしていたのは父である拓海であった。


「様子がおかしいから話を聞いてみたら、こんなこと…」

 両手で顔を覆い、うなだれてる小百合の肩を拓海がそっと抱いた。

「ちょっと…」

 落胆している母が気の毒だった。しかし、今は少しでも生まれてくる子どものことを考えなければならない。理美は短く深呼吸をして、口を開いた。


「お母さんの言いたいことはよくわかるけど、もう新しい命がいるの。そこを責めても生まれてくる赤ちゃんに罪がないってことは、わかってるでしょ」

 正論をぶつけられ、なわなわと震える小百合は、口をあんぐり開けたまま理美を見た。


「相手のこともあるし、会ってから決めてもまだ遅くないよ。結婚する意志を示してるんだから…」

 精一杯、美香の味方をする理美だったが、興奮冷めやらぬ小百合は、声を出して泣き出してしまった。その時、ずっと黙っていた拓海が、たしなめるように小百合の肩を優しく叩きながら口を開いたのだ。


「母さん、理美の言う通り、まずは彼に会ってみよう。信用できるかどうか、この目で確かめてから今後のことを考えよう。僕は、みんなが幸せになれる方法を探したいって思ってるよ」

 拓海のその言葉で、泣いていた小百合も小さくうなずいた。鼻をすすりながら、何度も拓海に肩を抱きしめられ、うなずいている。それを合図に、理美も美香も立ち上がったが、拓海は理美を呼んだ。


「お前はどうしたんだ。もう戻ってくるのか」

「え…あぁ、あの…」

 恋人と別れて戻ってきた、なんて理美の口から言いずらい。しかし、父に便乗するように小百合も怪訝そうにこちらを見る。

「ごめん。その話、また今度にしてもいい?」

 理美はそう言い残して、先にリビングを後にしたのだった。




 少しだけ忘れていたのに、一気に現実に引き戻された気がして、理美の口からはため息が漏れた。自分だって、好きで部屋を出てきたわけではない。できれば、いい報告をしたかった。幸せになった姿を見せたかった。


 まだシーツも張っていないベッドの上に寝ころび、現実から逃れるように目を閉じた。しかし、浮かぶのは昨日の光景だ。小さなローテーブルを挟み、向かい合わせに座った自分と彼。間には不穏な空気と重い沈黙と深いため息だ。取り繕い様のない理由で、急に訪れた終わり。一発KOで即退場といったところだろうか。覆るわけもない結果に、いくらため息をついても何も変わらない。


 わかってる…。わかってるけど…

 ベッドの上で膝を抱え、うずくまる。幸せが手の届くところまでくると、いつも目の前からすり抜けてく。この苦い感情が理美を暗闇へと突き落とす。ドクドクと鳴り出す胸の鼓動が強く、とても苦しい。とても耐えがたく、思わず胸を抑えていた。


(この胸の痛みが収まる時が来るのかな…)

 目を閉じ、そっと耐えながら理美がそんなことを考えていた。


 次の日曜日、家の中はそわそわしていた。落ち着かない様子で、小百合はキッチンに立っていた。時折、洗っていたコップをシンクに落とし、慌てている様子がうかがえた。美香は時計を見ながら約束の時間を確認している。父の拓海だけは、どっしりとリビングのソファに座り、新聞を読んでいたのだ。


「…お父さん、よく落ち着いてるね」

 隣に座り、理美は小声で話しかけた。

 そのまま姿勢で老眼鏡の奥から視線だけ理美のほうに向けた拓海は、小さく笑った。

「緊張してるよ、そりゃ」

「うそ」

 まったくそんなふうに見えない拓海の様子に、思わず理美も笑った。


「あんた、ちょっとは落ち着きなさいよ。」

「それは、お母さんでしょ」

キッチンの方からで母と美香のやり取りが聞こえてきて、二人はまた笑った。こんな時でも父拓海が取り乱すこともなく、優しく見守ってくれる。本当の意味での大黒柱なんだと理美は思っていた。言葉は少ないが、その紡がれていく拓海の言葉は重く、ずっしりとしているのだ。誰も不幸にしない。拓海が今の状況をそう捉えていることは、理美にも理解していた。


「お父さん、あの…」

 理美は、ふいに前に父から言われた『もう戻ってくるのか』という問いに答えていないことを思い出したのだ。

「私、しばらく家にいたい…んだけど…」

 次第に、理美の視線が下がっていくのを見た拓海は、新聞を畳みながらうなずいた。


「ここはお前の家なんだから、いつでも帰ってくればいいさ」

「理由、聞かないの?」

 意外そうにそう聞き返すと、拓海はふっと笑ったのだ。その顔を見た理美は、泣きそうになった。胸が父のやさしさで満たされると、小さく「ありがとう…」と口にするので精一杯だった。


 そんな時、インターホンのチャイムが家中に響き渡ると、誰もがそれに反応し、背筋が伸びた。美香は玄関に向かい、父は立ち上がった。理美は小百合にお茶は自分が入れるから、と言って客間に行くよう促した。玄関で他人の気配がすると、母の上機嫌な声が聞こえてきたのだ。どうやら、見た目は誠実そうな印象だったのだろう。思わず理美もホッとした。面々は我が家に訪れた客を歓迎ムードで招き入れていた。そして、彼らはそのまま客間に入っていく。それを見計らって、理美は急須で四人分のお茶を入れた。


 丸いお盆に乗せてお茶を運ぶ理美は、客間の引き戸を開けた。緊張した面持ちで座っている美香の彼を見た瞬間、理美は思わすお茶を乗せた盆を落としそうになった。


 入口に別の人の気配を感じた彼が、こちらを見た時に、その視線は交じり合った。その瞬間、彼の瞳孔が開いたのを理美は見逃さなかった。


 圭介…。どうして、あなたがここに…

 喉元まで上がってきた言葉を、理美は慌てて飲み込んだ。ほんの一瞬だったが、彼もこちらの状況を一目で理解したようだった。


「初めまして」

 彼は落ち着かない様子でそう挨拶したのだった。理美は小さく会釈だけして、お茶をテーブルに並べてすぐに客間から退出する。


 足が震え、胸に何かが痞えているように苦しかった。グルグルと重たく、疼くような痛みが理美を襲う。そして吐き気とめまいで気絶しそうだった。いや、いっそのこと気絶したほうがどんなに気が楽か…。この状況を理解できない。まるで、できない。なぜ…


 圭介の妊娠させた相手が、美香…?

 泣きたいわけでもないのに涙が汗と一緒に流れ落ちてくることすらも気づかず、理美は家を飛び出していた。


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