田口イザベラ
フランス語と言うのは、予想外に使われない。
金髪の美女は、そんなどうでもいいことを考えていた。
「本来ならば私もこの家から外に出てもいいんだけどな……」
田口イザベラ、四十二歳。
フランスから日本の大学に留学し、そこで現在の夫和夫と出会って婚姻。第一子ムーシを産み、そのまま専業主婦となる。
などと言う経緯を信じる人間は、もうほとんどいない。
畳化と言う言葉がある。
外国人がいつの間にか日本になじんでいく様子を表す単語であり、日本在住歴十五年のイザベラは、もはやすっかり畳化していると言われている。
「そんなに珍しいことをしたつもりもないんだけどね……」
外国人を見て、外国人と身構える。
家事が終わった後に食べるには、スーパーで買って来た50円の羊羹。
冬にはテーブルを引っ込めてこたつを出す。
どうしても忙しい時にすすったカップラーメンに魅力を感じてからひそかに差し入れしようとした事もある。
そして幾度目かの、「箱根駅伝」。
二十歳ぐらいの男たちが子供も作らず仕事もせず、学生を気取りながらただ走り回る。
そんな光景を堕落とか思っていたのは最初の二年だけで、今ではすっかり正月の代名詞と化してしまった。もはや箱根駅伝のない正月は正月ではなく、ただ一日が過ぎるだけになってしまった。
「お……いやあの子のクラスメイトにもあの箱根駅伝を目指している子がいる……」
在宅ワーカーである以上めったに外にいない夫だったが、時々の出勤の日にひとりぼっちになってみると息子のクラスメイトの事が気になる。もちろん二十人っきりの学校生活でもないが、どうしても一番近しい存在の事は気にせざるを得ない。
とりあえず辺士名義雄と言う名の同じサッカー部の部員にはさしたる強調点がないことに安堵したが、それでも油断ができる訳でもない。
「とりあえずは豚肉、ホウレンソウ、牛乳、あとは……」
毎日のように徒歩十分のスーパーマーケットへと通う。週の頭にチェック済みの本日のお買い得品を頭に入れながら、サンダルをつっかけ買い物かごをぶら下げて行く。
昨日はオレンジ、トマト、油揚げ、そして鶏肉。
今日はこんな食材。あとついでに、台ぶきん。
「あら田口さん所の奥様」
「ああおはようございます」
そんなイザベラにとって近しい隣人は、言うまでもなく同じマンションの住人である。
たまたま同じタイミングで部屋を出て同じスーパーに向かい、同じように安めの食品を買うと言う仲間。それ以上でもそれ以下でもない関係で居たいが、それが続くと水臭いと言う烙印も押される事になる。
「まったくもうフランス人だからってそんなに遠慮しなくてもいいのに」
「それはその、本当、いろいろ、日本語にももう慣れましたから……」
イザベラにとって苦手なのは、こんな風になれなれしい存在である。決して悪意なく、まったく善意のために近付いて来る存在。
自分より二十歳以上年上の彼女は、まるで自分が母親であるかのように振る舞い、家事のノウハウを教えようとしてくる。
(金の為の善行はいかに大なれど、正義のための善行の最も大なるを越えず。されど金の為の悪行はいかに大なれど、正義のための悪行の最も大なるを越えず……)
もしそれが金銭欲なら、金銭と言う目に見える物さえもらえれば満足するからそこで止まる。だが善意と言う目に見えない物のための行いは、与えたり受け取ったりする側が満足しない限り止まる事はない。
「遠慮しなくていいから何でも言いなさい、ほらほらー」
「だったら挨拶するだけにして下さい」
「そう…………じゃあまたね」
まったくわかりやすく落ち込んでみせる相手を尻目に、買うべき物を買い物かごに放り込む。無言で、素早く、質を見極めながら。
(ああもう!)
もたついている内に二パック買う予定だった豚肉がひとパックしか残っていない事に歯嚙みしながら、早歩きと共に集めて行く。
そして会計を済ませると、サッと家へと引き返す。
それが彼女の日課だった。
「お帰り」
「ただいま」
イザベラは逃げ帰るように夫のいる部屋の玄関を開けた。夫の言葉を受けてせかせかと買い物をしまいこみ、そして休む間もなく掃除を始める。
「どうしたんだ」
「あなたちょっと」
「今は昼休み中だよ、あと五分で終わるけど」
彼女の救いは常に夫であり、夫が同じ思いを共有しているのが何よりの癒しだった。
「で何だ」
「あの人、まだ八年前から代わってなくって」
「本当、一番性質が悪いな。お互い、初対面で警戒しすぎたのも悪いのだが……」
何か御用で――――。
二人とも、その女性に対しての第一声はそれだった。字面だけならば特段どうと言う事もないが、二人なりにかなり威圧的に言ったつもりだった。
二人ともそれが必要であり、大事だと感じたからだ。
だがその居丈高な口が相手にもたらしたのは恐怖心ではなく、同情心だった。
異国育ちの、日本に不慣れな、下手をすると何らかの理由あって日本や日本人に対して不信感を抱いているのではないか。
そんな風に思いこんだ彼女は、それからずっとこの「田口夫婦」の保護者気取りになり、親し気を通り越してなれなれしく接して来るようになった。
最初の数ヶ月は知らない事も多かったから素直に甘えて来たが、途中からこちらが天涯孤独だと見るややたら自分の家族と一緒に食事だけでなく旅行とかさせようとしたり、自分の親類縁者とも会わせようとしたりするようになった。
「この二年ほどまるっきり無視を決め込んだらさすがに離れたと思ったのだが、それでもなおあきらめていないのか…………」
「人畜無害なのはわかってるけど、それでもお、あの子に何かあったらと思うと」
「息子もいい子に育ったからな、それが何よりだ。ああそろそろ時間だ」
昼休みを終え仕事に戻る夫を背に、イザベラは厄介な隣人のことを強引に頭から追放した。
(三度説いて聞かぬ者は百度説いても聞かぬ。ただし二百度説けば頭が覚える。それでも駄目ならば絵に向かって説いた事を恥ずべし……)
その本を、イザベラはずっと持ち歩いている。物心ついた頃から桃太郎やかぐや姫のように抱え、そして覚えて来た。夫はその本を仕事道具に使っているパソコンとやらで印刷してくれているが、正直手を付けていない。
「それにしてもこの道具は一体何人の女をクビにする気だ……」
決して高値ではない、買った時点で型落ちの掃除機をかけながら、その性能に感心と恐れを抱く。
ちなみにテレビも冷蔵庫も洗濯機も型落ちで、市価の半値以下。
エアコンも型落ちと言うか据付であり、しかもほとんど動いていない。
この町の暑さに辟易してもいたが、同時に耐えられるつもりでもいたし実際そうして来た。
と言うより、この家にある家電はすべて型落ちか中古品でしかない。
(しかしもう八年……どうなっているのか)
元々長居する気もなく、夫の出世さえも予想外だった。じっと時を待ち、「その日」が来ればいつでも適当な事を言い残して帰るつもりだった。
「おかけになった電話番号は……」
476-8759-0258などと言う適当極まる電話番号を突っ込んで回した所で、繋がる訳もない世界。
(あの術は、文字通りの秘術……)
あの時はもう、無我夢中だった。本拠地を失い亡命まで考えるほどに追い詰められた中、この世界に逃げ込んで来た。
そしてそれきり何の連絡も付かないまま、時ばかりが過ぎて行く。
大事にしまっている地図も古び、この前夫があの本と同じようにパソコンで新調してくれたそれに感動もした。
「今頃、本来は……」
こんな風に身をやつして落ち延びる事もなく、幾百幾千人単位の人間に囲まれているべき存在。
そんな物を守り続けて八年、もはやすっかりこちらの色に染まってしまった。元の世界に帰った所で元に戻れるのか、いやその前にその元の世界があるのか。そんな不安が二人を支配する。
「はぁ……」
やがて夜も更け、普段は仕事の速い夫も珍しく「定時退社」できないで午後七時まで残業し、その分夕食も遅れた。
事前に言っていたとは言え「通勤時間」十秒で退勤して家族と共に夕飯を食べる事もできなかった夫は疲弊し、申し訳なさそうに一人で夕飯を口に運ぶこととなった。
「あなた……」
「万一の場合と言う物がある。そのためにもこんな所でひるんではいられないさ」
付き合う自分にも無理くりな笑顔で答える夫から逃げるように、妻は右手を夫の額に当てる。
夫があわて気味に目線を動かすのにも構う事なく、蛍光灯に全く勝てない程度の緑色の光が体を覆った。
「お前それは」
「いいんです、ここでも寝てれば回復する事はわかりましたから」
夫の予想外の出世に自分が貢献しているのだと言う事を思い知りながらも、どうしても止める事ができなかった。苦笑いを浮かべながら自分の料理を食べてくれる存在に感謝しながらも、同時に不安もあった。
「それでですけど」
「何がだ」
「ちょっと異世界行って来たら僧侶になって世界救っちゃいましたけどってご存知ですか」
「なんだそれ」
「最近流行ってるらしい小説だそうですよ」
とりわけイザベラを不安にさせているのは、赤井勇人は「そうきゅう」と略しているその書物だ。
王宮、騎士、僧侶、王子、姫、魔法、魔物。
全くこの世界と違うはずの単語が並んでいる。
そのはずなのに、皆その事をよく知っている。
ついでに大ベストセラーと言う言葉も重たく響く。
「あるいは私たちを」
「錯覚と言うにも数が多く、同僚たちもファンが多い……この八年間ずっと感じていた。
だがそれ以上に気になる事がある」
「何がですか」
「最近、王子様の近くにすさまじい魔力が漂っているのだ」
「魔力って、そんなに」
そして――――魔力。
普通スポーツ中継などで○○王子と言う言葉は聞いても魔力と言う言葉はとんと縁がない。
あったとしたら≒魅力みたいな使われ方で、本来のそれではない。
「本物だ。間違いなく。しかも発生源はおそらくあの学校の、あの一年五組とやらだ」
「やはりアカイ、いやミタガワ……」
「断言はできない。しかし同時に、チャンスとも思っている」
「それは」
「この世界にどうやって来たのか忘れたのか」
秘蔵の魔法により、落ち延びたこの世界。
もしその中に魔力の持ち主がいれば、使えるのではないか。
元の世界へと、帰る魔法が――――。
「とは言えその際は」
「お覚悟をしていただくようにせねばなりませんね……」
来るべき時が来たのか、そうでないのか。
不安と疑念を振り払いながら、夫婦は「息子」に真実を告げるべく腰を上げた。




