田口和夫
外伝として三話掲載いたします。
横浜市。
日本第二の都市であるこの町には、多くの人間が住んでいる。
例えばこの田口和夫と言う男。
オールバックに黒いスーツ、ブーツと言うごく普通のサラリーマン。
年齢は三十八歳。
家族は妻ひとり、子ひとり。
住居は家賃月九万円、一年先払いで特別に百万円と言う2LDKの築十五年のマンション。
そんなごく普通の男性であるが、今彼が背負う物は案外と大きかった。
「行ってらっしゃい」
毎朝、妻の声がある意味空しく、ある意味気持ちよく響き渡る。
出社と言う名のパソコン立ち上げと共に、彼の一日は始まる。
今日も朝八時半から、パソコンとにらめっこを開始している。その上で右手にスマートフォンを構え、どこかと会話をしている。
この数年間ずっとやっていた事であり、それについて何か言う存在はどこにもいない。
いや、正確に言えばこの数ヶ月でいなくなったと言うべきか。
ちょうど未曽有の大災害が発生し、それにより出社退社に対する恐怖がこの国を、この街を覆い、そしてこのマンションをも覆った。
それからテレワークが可能になった社員は、次々とその方向に移っている。
部屋の中にキーボードの音が鳴り響き、時々和夫以外の音声が混じる。
「ああおはようございます」
「すみませんちょっとPCが不調で立ち上げが遅れまして」
正確には音声ではなく文字だが、和夫にはどうしても音声のように感じ取れる。
「じゃあそろそろ行くか」
そんな具合で、彼の一日は始まる。
「ただいまー、お父さんはまだお仕事」
「そうよ、だから静かにしてなさいね」
やがて息子が帰って来る。ここに入った時には小学三年生だって息子は高校一年生になり、その分だけ帰宅する時間も遅くなった。ましてやこの日はサッカー部の部活の練習がかなり長引き、学校を出たのは午後五時を過ぎていた。
「にしても急に部長元気ですよねー」
「ラストスパートってやつ?俺も頑張らなきゃな!」
そして父親は一日八時間労働のラストスパートを決め込むべく一挙にキーボードを叩きまくる。出社時にはもう家にいなかった息子と言う名の救援を得て力を取り戻した男が本気を出し、次々と仕事を片して行く。
それに釣られるように部下たちも次々と正の連鎖を起こし、何とかして定時退社を目指すべく力を振り絞る。
そして今日もまた、和夫の部の仕事は定時で終了した。
「お疲れ様でした!」
「いや本当、部長になるはずだよな!」
「俺も結婚してえ!」
和夫はデータのバックアップを取り、二度確認し、そしてシャットダウンする。
和夫は、実に有能なサラリーマンだった。
「一緒に、お風呂入るか」
「はい」
仕事が終わった和夫は息子の宿題を中止させて共に風呂場へと向かう。慣れた手つきで風呂桶から汲んだ41℃のお湯を体にかけ、自分と二センチしか違わない息子の胴にもゆっくりとかける。
「何遠慮してるのお父さん?」
「いやその、いつもの事だからな……」
男二人で入るにはやや狭い浴槽に二人肩を寄せ合って浸かりながら、お互いの話をする。
父親の仕事、息子の学校生活。
「クラスの子とはうまくやっているの、か?」
「とりあえず大丈夫、だけど怖い子もいてね」
「怖いって!」
「三田川って言うんだけど、本当に誰にでも噛みつく感じで」
「そうか、強くならなければならないな、お父さんもお母さんも……」
その度に和夫は息子からクラスメイトの事を聞かされ、校内の状況を知る。
二十二歳で産むだなんてかなり速いんですねと言われて八年余り、自分の子を守ろうと必死に戦って来た。
高校時代には柔道なるスポーツに身をやつして来たと言う名目て体を鍛えており、それなりに暴漢とも戦えるつもりでいる。
「万一の事があれば遠慮なく言いなさい。それがお父さんお母さんの役目なんだからな」
「はい」
実に素直な息子の体を上から下まで洗い、シャワーで泡を落とす。使いこまれたスポンジが放っていた泡がサッカー部で汚れた息子の肌を洗い流し、真っ白な肌を際立たせる。
「今日はパンと唐揚げと野菜サラダか、ってちょっと待った」
「あなたはもう中年なんですから少し減らさないと、サッカー部で汗水流して来た息子とは訳が違いますから」
「……知ってるけどな……」
夕飯はクロワッサンと、鶏の唐揚げと、野菜サラダ。平凡と言えば平凡だが、間違いなく暖かい食卓がそこにはある。充電モードに入ったノートパソコンを横目に、和夫は息子より一個少ない唐揚げを惜しむようにサラダを箸でつまんだ。
正直、拙劣な箸の使い方でありあるいはマナー違反に類するそれであったが、それを口うるさく指摘する人間はいない。テレワークであり、週に二、三度も出社しない和夫にしてみれば、そんなマナーを披露する機会は月に一度もなかったのだ。
「でもお父さん出世したからいろいろお偉いさんとの会話とかもあったりするんでしょ」
「お父さんはデータを作る腕を買われてるからね、にしてもまさかたったの八年、しかも中途採用でこんなになるなんてびっくりだよ」
田口和夫。
○○小学校から△△中学校を経て■■高校へ進学、☆☆大学のXX科を卒業し??社に八年間勤務。
その履歴書により今の会社に入社して八年。
前職でも平社員であったはずの彼がいつのまにか部長になっていた事に疑問を差し挟むような人間は、いつの間にか社から消えていた。
無論下衆の勘繰りを起こして前歴を漁ろうとした人間もいたが、何をやってもシロだと言う証拠ばかりができ、その度に無駄に探偵事務所を潤わせただけだった。
「たまに出社すると大変だよ」
「具体的にどう大変なの」
「はっきり言って、満員電車ってのでまず体力持ってかれるし、まあ最近はあんまり満員でもないけど」
「そう言えば六年生の時の半年ほど、普通に勤務してたんでしょ?」
「ああ……」
その和夫がテレワークでなかったのは、中途採用された最初の三ヶ月と、それから三年後に係長になった時だけだった。
あまりにも現場から遠く離れて引きこもっている和夫をなめたのか心配したのかわからないが、社の上の人間が通勤手当を出してまで出社させたのだ。
だがその後の三ヶ月の田口の仕事は正直中途採用から三年で出世したと思えないほどに拙劣で、すぐさまテレワークに戻された途端また仕事ぶりが復活した。その時この異動を進めた上司は今閑職に追いやられ、と言うかこの前事実上の部下になってしまっている。
「お父さんはお前のために戦うんだよ、と言うかお前とお母さんのためじゃないと戦えないんだよ」
「素晴らしいですけどね」
「だからちゃんと控えてるじゃないか、塩分とか」
妻はゆっくりと料理をつまみながら、夫にやんわりと注意する。
息子は高校一年生、と言うか十五歳。社会に出て行くには不可能な年齢ではない。
そんな彼が家を出て独立したら、親は何を目的に働けばいいのか。
その目の前の現実から逃げるように、和夫は唐揚げを噛み締める。油が口の中に広がり、疲れを癒す。
「ごちそうさまでした」
やがて食事は終わり、息子は食器を片すと自分の机へと戻る。目的はもちろん、残っている宿題を片付けるためだ。
少し遅れて父と母が料理を平らげ、同じように台所へ向かう。
和夫が息子の若干の早食いに不安を覚えながら、サッカー部ですからと言う妻の目にたしなめられて苦笑いでごまかす。
「あなた今日はこの後」
「ああ、息子、いやその、えーと……」
「わかっていますよ、息子の事で話があるんでしょ」
そして口ごもった自分を制する妻によってさっきまで食卓であったテーブルに戻り、二人して向かい合う。
「お前も聞いてるだろう、今度の学校のクラスの事」
「ええ、あの子を含めて全部で二十人。決して多くはありませんけど」
妻が懐から取り出した一枚の紙。
赤井勇人、市村正樹、上田裕一……………そんな息子を含む二十人の名前が記されている紙をながめながら、それぞれの知識と思いをぶつけあう。
「息子は三田川恵梨香って子を恐れているようだがな」
「私も話は聞いています。成績はとんでもなく優秀ですが暴食の獣のように見る者すべてを食い尽くさんと欲すると」
「それにより怯えているのが平林倫子か……」
二人は決して多くない情報から、かなり正確に一年五組の情報をつかんでいた。
そんな二人にとって最大の警戒対象は三田川恵梨香であり、さらに二人は他の何人かのクラスメイトにも目を付けていた。
「赤井勇人とか言ったな、彼は」
「奇妙なほどの知識を持っています。それから彼女の取り巻きと言うべきこの米野崎と言う女子も」
「うむ、まるで見て来たように物を言う。その点は気を付けねばならない。それと、河野速美と言う女子だ」
「あら、米野崎さんのお友達の神林さんや藤井さんは」
「彼女たちも注意だが、それ以上に河野は危ないかもしれない」
「危ないって、あの中学の時の」
「それとも違う……具体的な説明はできないが……」
高校生にもなって子どものクラスメイトに付き合うなと言うなどずいぶんだと思わない訳でもないが、和夫は妻共々真剣だった。
小学校でも中学校でも同じ事をやり、危険分子を排除して来たのだ。
実際、中学時代には掃除当番であった息子に対してゴミを投げつけた男子生徒がおり、その生徒の親を強引に引きずり込んで謝罪文を書かせたうえで、その動機が髪と目の色が違ったからなどと言うあまりにもくだらないものだった事に呆れた事もある。
ちなみに息子にその偏見を植え付けた母親はその後夫と離婚して親権を持って行かれたそうだが、そんなのはこの夫婦にはどうでも良かった。
なお現時点での和夫夫妻のクラスメイト評は
赤井→奇妙な知識を持つ危険人物
平林→無用に攻撃を受けている被害者
細川→どこか先走り気質がある別の意味で危ない存在
三田川→もっとも危険な存在
米野崎→赤井の取り巻きの中で一番危険
神林・藤井→米野崎ほどではないが不安
河野→目下の所大丈夫だが、あるいは一番危険かもしれない
となっている。
「だが怖い怖いでは話は進まぬ。いざと言う時は身を張ってでも守らねばならぬ」
「そうですねいざとなったら!」
「私たちの手で、王……」
和夫が改めての決意を固めようとした所で、扉が開いてリラックスした顔の息子が出て来た。
「お、おう……宿題終わったのか」
「今終わった所。それで二人とも」
「いやその、明日の準備はできてるのか?」
「大丈夫だよ、ちゃんともうしまってあるから」
「寝る前に確かめろよ……じゃあ」
冷や汗を拭きながら話を切り上げんとした和夫に、妻は金髪を揺らしながら紙をしまい、代わりに一本のアルミ缶を持って来た。
「いいじゃないの一本ぐらい」
「うむ……」
ビールと言う未だに飲み慣れない飲料の缶を見ながら、改めて脳内に浮かぶ不安を消さんと躍起になる。
部長職相応の収入があるのにまともに使わないでいるのはあるいはこの際、とか言う悪い妄想を追い払うべく妻が持って来てくれたアルコールの味を思い、文字通り苦虫を嚙み潰して見せた。




