都会の裏側
女神の城。
そう呼ばれている建物が、ノーヒン市の西側にある。
と言っても、トードー国の方へ間違って行ってしまっても誰も責められないほどの樹海を越えねばならず、仮にたどり着いたとしてもどうにかなる物でもなかった。
「女神様なんて……いないんだよね……」
家賃銀貨五十枚の安アパートの裏で、犬耳の少女が体育座りをしながら虚ろな目で空を見上げていた。
青かったはずの絣はすっかり白くなりと言うか色あせ、つぎはぎとほつれが誰よりも自己主張している。犬耳もまた垂れ下がり、黒かったはずの髪の毛も茶色になっていた。
「嘆いてもどうにかなるもんじゃねえだろ、もらいに行くぞ」
犬耳少女の側で立つ入り混じった色をした着物の兎耳の少女は、へたり込む犬耳娘の手を取って立ち上がらせようとする。
だが死にかけのような目をしていたくせに犬耳娘は兎耳娘の手を強い力で振り払い、ほっとけと言いたげに首を横に振る。
「あんたも食べたいの?あれ」
「悪いかよ!今そんな事言ってる場合か!」
「今、今って……一体どれだけこんな事が続いてるかわかってるの?」
草むしたスラム街の、ストリートチルドレン。そんな言葉が似合う二人の仲は、正直良くなかった。
兎耳娘にとって犬耳娘は自分では何もしないで嘆いているだけの怠け者であり、犬耳娘に言わせれば兎耳娘は自分よりずっと犬らしい娘だった。
「またあの汁にありつくんでしょ……そして……」
「お前だってさ、死にたくないんだろ?あたしがこうして生かそうとしてやってるのにさ、なんなのその言い草!」
兎耳娘が声を荒げると共に犬耳娘はより一層恨めしげに兎耳娘を見上げ、空が見えないんですけどとでも言いたげに首をそっぽに向ける。
一日二十四時間の内十五時間、空を見上げていた。雨水でも降って来れば一滴残らず吸い上げてやるとでも言わんばかりに上を向くその姿は、本来ならば悲壮感を与えてしかるべきだったかもしれない。
だが彼女がこの町にいる獣娘の平均値の存在である以上、誰もそんな事を感じる者はいなかった。
「ああそう」
兎耳娘がそれだけ言って尻を向けると同時に、ようやく落ち着いたとばかりに犬耳娘も座り直した。
それが、ここ半年の日課だったからだ。
空は青い。白い雲が時々なびき、そしてたまに雨が降る。
いずれにせよ、少女の何かを紛らわす事はない。
「あの女、わかってるのかなあ……私の事、いやあいつらの事……」
そんな彼女の退廃的かつ絶望的な暮らしに変化をもたらしたのは、最近来た一人の新入りだった。
最初こそめそめそしてばかりだったその娘だったが、一日もしない内に元気を取り戻していた。
コンビニとか言うトードー国にない店の残飯を漁ったり、ごみ屑を集めて本職の連中に渡して小銭を手に入れたり。
それにより刃傷沙汰も発生したが、その度にあの偽善者がやって来て傷を治して行く。それ以上の事はしない。
そんな自分たちのいつもの活動にも、あっという間に馴染んだ。と言うか、誰よりもうまくできた。何が流れているかわからない川の水を平気で飲み、その上で草も食んでみせる。誰よりも真面目で、誰よりも真摯だった。
そんな彼女の存在を、犬耳娘は気に入っていなかった。
「辛くないの?」
「そりゃ、つらいわ。せっかくこれからだって時に……でもね、私にも怖いのがある。その怖いのがいないと考えるだけで、私は安心できるの」
やけににこやかに、ただ言葉通りにわずかな悩みとおびえを感じさせる笑顔で話すその狼耳娘。
いや、狼の尻尾まで生やした娘。
「サテンもサテンだよ……あんな奴に付いて行ってさ……」
その狼耳娘、いや狼娘にサテンを取られた事もまた、犬耳娘は悔しくて仕方がなかった。
サテンと言う名の狐耳娘に、生き方を教えたのは自分のはずだった。
「嫌な匂いだこと……」
それなのに今では、あの狼娘と共に平然と並んでいる。
さっき兎耳娘が言っていた「汁」に、みっともなくありつこうとしているのだろうと思って腰を上げてやると、果たしてその通り平然と並んでいた。
(注意してやる気力も湧かないわ……一体どこの誰のせいでこうなったと思ってるの!)
その「汁」の意味が分からない連中に、犬耳娘は内心嫌気が差していた。
あの笑顔の仮面に騙され、みんな利用される。
毎日雨ざらしになって精神も肉体も摩耗して行く中、あの女はいつも優しそうな顔をして出て来る。
頭を白い布で覆い、いかにも清潔そうな慈悲深いシスターのような格好をして、いかめしく輝く器に汁を盛って与えている。
明らかにこの町の住民なのに、最近じゃ聖母とか言い出す奴までいる有様だ。
そんなあまりにもバカバカしい偽善に乗っかって行く連中に、舌だけでなく手でも出してやりたかった。
そうやって意地を張る事もまたあの女の狙いだとわかっていても、犬耳娘はあの女の出す食事を取ろうとしなかった。
そうやって意地を張り続け頑なにトードー国にこだわる、要するに調教されていない気骨のある存在を孤立させ、確実に自分たちの言う事を聞く人種を多数派にして行く。誰も言う事を聞かなくなっていくのが、とても腹立たしくて仕方がなかった。
腹の虫が鳴る。
懐にしまっていた草を口に放り込み、まったくまともな味のしないそれを咀嚼する。まともに磨いていないのにやけに丈夫な歯はその「食べ物」を簡単に咀嚼し、嚥下する。
あの狼娘め、気骨もないのか。そう一発ぶん殴ってやりたかった。
でもできない。
ここに来て二十日余りの間に、彼女はまた別の力によってこのスラム街を制圧していた。
単純な武力だ。
少しでも争おうとするとあの狼娘は爪と牙をむき出しにして、強引にでも争いを収めさせる。そして極めて公平かつ平等に裁きを行い、両者の歓心を得る。
反抗すればあっという間になついた連中によって爪弾きにされ、あの狼娘に頭を下げてようやく許してもらえる。まったく野蛮なやり方とも言えるが、それでも統治者の質が良ければまともに動いてしまうのもまた事実だった。
「それこそあの連中が一番嫌う奴じゃないの!」
犬耳娘はそうぼやくが、耳を貸す仲間は日ごとに減っている。自分たちがどういう環境にあるかわかっていない身の程知らずたちに、彼女は愛想が尽きかけていた。
トードー国もそうだがこの四方城壁に囲まれた町の中で、彼女たちがいる西地区は陸の孤島になっていた。北地区および東地区・南地区への移動および逆はできるが、西地区から他地区への移動はできなかった。
そんな環境を作っている、縞々服で強面の連中。刀や槍ではなく、懐から金属を打ち出す攻撃や単純な腕力によって、逃げ出そうとした仲間が次々と赤い血を流して死にかけている。
そしてそのいたちごっこの果てに脱走する気力をなくし、この環境に甘んじてしまう。その硬軟両面での作戦を、あの狼娘は何もわかっていない。とても気の毒に思っていた。
「……って言うか何よあの男…………あんな武器持って恐ろしいったらありゃしないわ」
その犬耳娘が今空腹以上に恐れているのが、数日前に現れた怪しげな男だった。
刀とは違う刃物————剣を腰にまとい、仮面をつけてこの西地区を徘徊している。
あの連中はあくまでも命を奪う事はしないはずだったのに、今度の男は容赦なく自分たちを殺しそうだった。
いつものねぐらの陰で見ただけで背筋が伸び、少しでも挙動不審になれば即死の二文字を思わせるほどの妖気。
「もしかしてあの女が呼び付けたのかもしれないし……」
最近ではあの狼娘がその化け物を呼び付けたのではないかと思うようになるまで、思い詰めていた犬耳娘は、最近ますます孤立化していた。
そして自分がその彼女の主張を笑っていた兎耳娘やサテンの鼻を明かしてやる資格を持っていた事に、犬耳娘は気付かなかった。
ましてやそれから約半日後、彼女にとってある意味悲願と言うべき展開が訪れる事など……。




